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        2008-02-10        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(6)

 この日の話は、四日目に続く話で始まった。
 『アオサギと鶴』の制作作業は、二匹の鳥が暮らす廃墟という空間が発見されたことによって、一挙に進むこととなる。空間がある程度物語を規定するのである。キャラクターたちは、空間のなかに調和して動かされる。廃墟やブランコは物語を自然と生み出す装置となる。(この考え方は『霧のなかのハリネズミ』でさらに押し進められることとなる。)キャラクターと背景が調和する必要がある。この言葉は、最終的に、音や映像、その他すべての要素が一体となって有機的に結び付くべきである、というノルシュテインの考え方へと発展していく。(エイゼンシュテインの影響が容易に見てとれる。)ただし、背景というのはキャラクターが動くための空間であるだけではなく、雰囲気を喚起する役割もある、ということも忘れてはならない。
 『アオサギと鶴』についてのノルシュテインの解説は、詳細にわたるものとなった。作品のテーマは、「自分の品格を誇示するための虚飾によって本当の気持ちが伝わらない」というものである。二匹の間にあるのは愛なのに、二人の間にはいつも衝突が起こり、幸せは、それがもう少しで手に入る瞬間に逃げていく。ノルシュテインが意識したのは非常にチェーホフ的な話である。(余談だが、ノルシュテインはワークショップ中、チェーホフ全集を持ち歩いていた。日本に来て以来、読み返しているという。)
 「全体を意識せよ」というのもこの日の講義に通底するテーマである。『アオサギと鶴』において、ノルシュテインはまず図式を提示する。一本の直線が引かれ、その両端にはアオサギと鶴がいる。その直線上に、二人の間の様々なエピソードが絵で書き込まれていく。細部が組み立てられていき、観客の記憶に留められることにより、観客は作品の全体を意識することができる。この話は、「感動的な細部がない」という、参加者たちの作品に向けられた批判の言葉とも響きあう。すべてをわからせてしまうような細部が必要とされるのである。
 さらに、鶴の求婚とアオサギの拒絶のシーンを使って、「アニメーション作品がいかに組み立てられるべきか」が詳細に語られた。恐るべき細かさで組み立てられる「スコア」は、アニメーション作品にはいかなる偶然性も介在しないことを物語る。まずは音楽。このシーンのために、マーチとワルツの二曲が用意された。マーチは男性的なものであり、ワルツは女性的なものだ。それぞれ、鶴とアオサギの音楽として使われる。このワークショップで何度も繰り返されているように、作品を構成するすべての要素は有機的に結びつけられなければならない。どの要素が浮いてしまってもいけないのだ。ここで、「垂直のモンタージュ」という言葉が出てくる。ノルシュテインは、1964-71年にかけて出版されたセルゲイ・エイゼンシュテインの6巻撰集で映画制作を独学した。「垂直のモンタージュ」とはそのエイゼンシュテインの言葉である。これに対する言葉は「水平のモンタージュ」であるが、それは簡単に言ってしまえば編集で、映像を時間に対して水平方向に結びつけていく。「垂直のモンタージュ」は、そのモンタージュの対象を時間に対して垂直方向に結びつけていくものだ。内容、音、映像的な様子、演技、その他諸々の要素が、映画においては重層的に重なりあっているが、それらすべての要素は互いに相互関係を持つべきで、作家はそのすべてを把握していなければならない。ここで取り上げられている『アオサギと鶴』のこのシーンは、「垂直のモンタージュ」を利用したものであり、各要素の結びつきには何一つ偶然なものはない、とノルシュテインは語る。すべてが調和したものとなるように、綿密に計算が重ねられていったのである。ノルシュテインは、実際に図式を書きながら、いかにして作品を組み立てていくかを示していく。音楽、台詞、効果音、描画(色調、色彩が含まれる)、演技…どの一瞬にも、こういったすべての要素が重層的に重なりあっている。
 ノルシュテインは、音楽と台詞のリズムを合わせるために、メエローヴィチによって作られたメロディーに合わせて、ストップウォッチで測りながら自ら台詞を当て込んでいったようだが、最初からストップウォッチによって厳密に計算されるべきではないと語る。感覚がこぼれおちてしまうからである。ノルシュテインは、アニメーション制作が、感覚を数学によって綿密に組み立て、そうして組み立てられたものをまた感覚に戻す作業であると何度も語る。(ここにもエイゼンシュテインの情動に関する理論の影響がみられる。感覚→計算→感覚という図式である。
 「垂直のモンタージュ」の図式が作られると、作品の骨組みはできあがることになる。その骨組みに基づいて実際に撮影される際も、再び感覚が物を言うこととなる。感覚の点検がされる必要があるが、感覚さえしっかりしていれば、厳密な計算に基づく撮影とほぼ同様の結果が得られるようで、実際、ノルシュテインが自分の感覚に基づいて60秒の予定のシーンを撮影したとき、撮影されたものは59.5秒であったという。ノルシュテインの感覚の鋭さには圧倒させられる。
 三日目に示されたプロットの盛り上がりのラインも「垂直のモンタージュ」の図式の中に入れられる。二匹の鳥がダンスをするシーンは、作品の中で唯一、舞台が円形であり、色調は金色で、物語としても、ようやく幸せが訪れるかも、というシーンであり、一番の盛り上がりを見せる。このシーンにつける音楽の作曲は困難を極めたようであるが、結果として、二人の幸せな瞬間が、ささいな原因での再度のコンフリクトで終わりを告げられ、最終的にけんか別れに終わる展開にあわせ、優雅な音楽にロシアの罵詈雑言のリズムを付ける、という解決方法に落ち着いたようである。その後に続くのは、チェーホフ的な灰色の色調であり、結局幸せは最後まで得られないまま終わってしまう。
 作品が組み立てられていく際にはやはりコントラストが必要で、例えば、色調の図式では、灰色の散文的な色調には、空想シーンの青や緑の色調がコントラストを成す。二人の諍いとそれに続く別離の後、地面に散らばる赤い実は、赤を貴重とした花火とコントラストを成す。

 『アオサギと鶴』に関してもう一つ注目すべき発言があった。先ほど挙げられたダンスのシーンは、長回しのようにして撮影されているが、それは、コマ撮りアニメーションの物理的な特性である、分離性を意識させる必要がなかったからであると語られる。1秒24コマで構成されたコマ撮りアニメーションは、1秒の間に23個の分離を含んでいる。長回しを行うことは、コマ間の断絶を乗り越える作業であるのだろう。この話は、『狐と兎』が「様式的カット」をつないでいくという課題に基づいてつくられたことを思い出させるし、『話の話』において、約2分30秒にわたって長回しされる「永遠」のエピソードについても思い出させる。

 話は『霧のなかのハリネズミ』に移る。児童文学者であるセルゲイ・コズロフの原作に基づく作品である『霧のなかのハリネズミ』は、ノルシュテイン曰く、原作の哲学的発展による映像化である。単純な存在であったハリネズミは、霧のなかでの体験によって、霧から出てきた後には以前と同じものではいられない。
 この作品で、ハリネズミの心理は、ハリネズミを取り巻く環境との相互関係によってのみ描かれる。ハリネズミは、霧のなかで数度目を大きくする以外は表情を変化させない。変化させる必要はなかったのだ。
 『霧のなかのハリネズミ』は、心理と行為のグラデュエーションの図式を持っている。純粋であり単純であったハリネズミは、水たまりや井戸に好奇心を持ち、霧のなかで初めて恐怖し、見えないものの存在を感じ、注意深くなり、突然降りかかる恐怖に対してリアクションを取り、神秘的な感覚に満たされ、喪失の恐怖を感じ、パニックを起こし、自分の力ではどうにもならないカタストロフィに身を任せ、最終的に自分は孤独ではない、一人ではないことを実感する。こういったハリネズミの感情の変化は、少ない身振りと変わること表情によって、周辺の環境との相互関係のうちに理解される。ここにも調和の原理が働いている。

 技術的な話に入っていくと、ノルシュテインは再びCGに対する苦言を呈する。切り絵の素材を組み立てていく際、そこには、予期しなかったような何かが入り込んでしまうことがある。こういったものは観客の視線を惹き付けるものであり、内面に留まるものでとなるのだが、ノルシュテイン曰く、CGにはそういった未知の要素が入りこんでくることはなく、謎めいたものなど生まれるはずはなく、観客の眼差しも、どこに惹き付けられたらいいのかを見失って滑り落ちてしまう。
 そこから、自らの「アナログな」撮影装置に話は及ぶ。多層にガラスが重ねられた撮影装置は、撮影監督でありノルシュテインの盟友であったアレクサンドル・ジュコーフスキーとの協力によって、今まで存在しなかったようなものとなる。ガラスの各層は上下に可動になり、上部に備え付けられたキャメラも前後左右に動く。実写映像を投影する場合には、最下部に斜めにガラスが取り付けられ、そこに映像が装置外部から投影される。CGよりも遥かに豊かな効果を得ることが可能になるようだ。参加者からの質問で、『霧のなかのハリネズミ』でハリネズミの周りを回る葉と水は、生々しさに溢れているが本物を使用しているのかと問われたノルシュテインは、葉は写真であり、水は実際に撮影されたものを投影したものであると答える。その方が効果的であり、同時に、現実との接点の役割も果たすという。
 この日の大きなテーマであり、ここまでの講義の大きなテーマとなっているのは、「調和」という言葉であろう。アニメーション作家は、作品を構成するすべての要素、すべての細部を自分の計算の中にいれ、それらを有機的に結びつけていかなければならない。それには厳密な計算が必要であるが、それがきちんと行われた上で、非合理的な何かが生まれうるのだ。そのためには、作品は、それぞれの要素にバラバラになることなく、一つの塊となることが必要なのだ。

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(7)に続きます。

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