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        2008-01-20        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(3)

○3日目
 この日の主なトピックは、ドラマツルギー、作劇法についてのものだった。
 二枚の絵さえあればプロットはできる。そして、アニメーションにおいてそのプロットを表現するには物理的に「時間」が必要である。時間が必要であるならば、動きも必要である。では、二枚の絵は、どのようにつなげられていくか。プロットはどのようにこなされていくか。
 話は、初の単独での監督作品である『狐と兎』についてのものとなるが、この作品はロシア民話を原作としている。ノルシュテインがまず語るのは、文学作品のアニメーション化は、その内容を文字通りに伝達するものと考えるとき最も困難な課題となるということだ。
 ではどのように文学作品は映像化されるのか。例として挙げられるのは絵本である。絵本のイラストは、文字テキストに沿うものでありながら、描く人の解釈を含んだものとなっている。となると、文学作品の映像化に際して問題となるのは、いかにして自分の考えを形作るのか、ということとなる。

 『狐と兎』の上映後、ノルシュテインは、原作とアニメーション作品との違いを述べる。原作では、兎の家を乗っ取った狐は、決して家から出ることはなく、内側から叫び続けるだけである。しかし、それをアニメーション化するためには、狐を家から出さないわけにいかない。狐の姿を見せなければならない。
 物語としては、初めは狼が、続いて熊が、そして牛が、狐を追い出そうと兎に手を貸す。そのすべての試みは狂暴な狐によって頓挫させられる。アニメーションになるためには、その見せ方が問題となる。
作品を観れば分かるように、それぞれの動物の場合において、描かれ方が変わっている。次第に表現は省略されていく。三匹目の牛に至っては、狐との衝突の場面も見せられていない。
 『狐と兎』に対しては、「ロシア民話に自分の意志を入れてけしからん」という批判もあったようだが、ノルシュテインは、実際には何も変えていないと語る。台詞は原作のテキストそのままであるし、映像化されたものも原作を裏切るようなものではないのだ。絵本の例同様、解釈と描き方の問題となってくるのである。ノルシュテインは語る。文学作品の映像化においては、「いかにして行われたか」を常に問い続ける必要があると。「兎は泣いた」。ではいかにして泣いたか。「熊は逃げた」。ではいかにして逃げたか。

 ここで話はシナリオを作る際の原則へと移る。ノルシュテインは一本のラインを描く。このラインは、物語の流れである。その途中には何個も黒丸が付けられる。その黒丸は、ロシア語で「ザビャースカ」と名付けられる、エピソードの発端である。
 ここでノルシュテインは、白い点と黒い点という抽象的なキャラクターを出して、シナリオがいかに作られるべきかを語る。左右に存在している白黒の点は、飛び跳ねて中央で出会う。この出会うところが黒丸である。ここからエピソードが始まる。
 エピソードの内部には、エピソードを本格的に始動させるコンフリクトがなくてはならない。対等の存在であった白の点と黒の点の間にはどのようなコンフリクトが生まれうるか。動きの制限された抽象的なものをキャラクターとして考えることは、このようなコンフリクトを考える上での有益なエクササイズとなる。ノルシュテインが出した一例は、白い点が偶然に高い地面に乗る、というものだった。これだけでもコンフリクトは生まれ、その高さをめぐってケンカが始まる。
 『狐と兎』に即して言えば、氷でできた狐の家が溶け、兎の家を奪おうと考える。それがザビャースカの一つとなり、その後の展開を生む。そして狐は兎の家へと出向き、春が来て浮かれ気分で外に出かける兎と入れ替わりに、家の主となる。これが一つのエピソードとなる。

 『狐と兎』という作品は、ロシアの民衆絵画から多くを得て作られたものであり、それは、画面が常に装飾の枠で囲まれているところからも窺える。紡錘に装飾として描かれた絵は、連続していくことである物語をつくり出している。
 それをアニメーションにおいて行ったのが『狐と兎』という作品だ。つまり、エピソードを絵画のように列挙していく。ザビャースカとなるのは民衆絵画の影響を受けた絵画的な構図を持ったカットである。(ノルシュテインは、その一つ一つを、作品をコマ送りして示していく。)
 それらの様式的カットの間をいかにして埋めるか。中割りの作業にも似たこの要求が、それがこの作品を成立させるための重要な問題となる。となると、すべての仕草は、その先にあるべき仕草を基本にして考えられる必要があり、その間を埋める作業には、「これが何についての映画か」という絶えざる問いが必要となる。

 民衆絵画は決して写実的なものではない。それはシンボル化された表現である。それと同様に、キャラクターの描き方も、ここではシンボル的な描き方となる。
 兎というキャラクターは、一体どのようにして作られていったか。
 兎は、いつも画面のこちら側を向いていて、着替えるときにもこちらの目を気にしてカーテンに隠れてしまう。ノルシュテインは、兎のキャラクターに対して道化師の性質を付与しており、それは服装にも現れているし、耳飾りのように長く垂れた耳にも現れている。
 サーカス、道化師というものは、「条件付き」の世界である。決して写実的なものではありえず、「約束事」の世界なのである。パントマイムも同様で、仕草の中に感情がシンボル化して現れている。(ノルシュテインは、当然のことながら、フェリーニが大好きである。)
 仕草はできるかぎりのことを語らなければならない。この作品に出てくるような単純化されたキャラクターの場合、詳細な感情表現は不可能である。その際、シンボル化された仕草は必須になり、それを利用して兎は身体全体で感情を表現する。例えば、兎が悲しむ仕草をみてみよう。その絶望の度合いは、座って泣く、木の柵にもたれかかって泣く、ニンジンを食べながら泣く、そして仰向けに寝転がって胸の前で手を組む、という順に次第に深刻になっていく。

 話は音楽と色彩について移っていく。単純なキャラクターによって詳細を表現するため、ノルシュテインは、キャラクターの心理や気分を音楽によっても表現する。ここでも必要となったくるのは、細部に対する配慮であり、色と音は関連しあっていなければならないし、音楽だったり、音だったり、台詞の響きだったり、そういったものは、イントネーションに至るまですべて計算され尽くされなければならない。
 作品の色調を決める際に、ノルシュテインは感覚の重要性を唱える。計算しつくすといっても、それは、例えば色のシンボル事典を参照するだとか、そういった計算ではない。
 ノルシュテインにとって、芸術作品というのは、ありとあらゆる要素が関連しあい、有機的に結び付いているものであると考えられるものであるが、その連結の原理とは一体何だろうか。その一つの答えとして考えられるのが、「調和」という言葉である。作品の中には、何一つ不自然なものがあってはならない。キャラクターを作り、動かす際のアドバイスとして、キャラクター自身やその仕草が、作品の中で不自然な感覚を呼び起こさないように、という事を語る。アレクサンドル・ドヴジェンコの『大地』(1930)は、調和に満ちた作品であり、そこでは、作品を構成するすべての要素が、凝縮・濃縮されることで映画史に残る傑作が誕生していると語る。
 『狐と兎』について今日述べられたことは、やはり、芸術が非合理的なものであるという結論へとつながっていく。芸術とは、謎めいたもの、説明しえないものへの到達であるのだが、そこに至るためには、できるかぎりの計算とできるかぎりの組み立てが必要となってくる。そして、その計算は、感覚に基づいて行われる。
 しかし、最後にこのような忠告もされた。自分の生み出した効果に溺れるな、と。一回目は新鮮な効果であっても、二回目になればそれは単なる技法となり、三回繰り返されると俗悪なものとなるのだ。

ーーー
(4)に続きます。

この日のノルシュテインが語る言葉を読んで、少し違和感を感じる方もいるかもしれません。あまりに古典的すぎないか、と。確かに、少々の距離感を保ちながら読んだ方がいい部分もあることも確かです。
ただし、ここで語られているのはあくまで『狐と兎』の制作においてなにが行われていたか、ということです。
(9日目への予告になりますが、)実際、『話の話』において、ドラマツルギーのラインを考えるこのような制作方法は、ノルシュテイン自身によって覆されることとなります。

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