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        2008-01-13        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(2)

○2日目

この日も、その大部分が参加者の作品に対するコメントに費やされた。

・宮沢賢治の文学作品をアニメーション化した作品に対し、ノルシュテインは文学作品の映像化に伴う困難さを述べる。文学作品においては、すべては言葉で表現されている。それを視覚的なものに変えることには、いつも困難が伴う。その一つの解決策となるのは、文学作品の中の一つの要素を、自分の想像力に刺激を与える触媒として利用するということだ。(文学作品の映像化については、後にまた語られることになる。)
・アニメーションとは、ゼロからある一つの自律した世界を創造しなければならない。その世界に説得力を持たせるにはどうすればよいか。その一つの答えが、エドゥアルド・ナザーロフの傑作『アリの冒険』(1983)である。ナザーロフはノルシュテインと同い年で、古くからの親友でもある。ナザーロフは、この作品を作るにあたって、虫について書かれたありとあらゆる本を読んだ。その結果として、生物学的に文句がない作品であるばかりでなく、芸術性も保持している作品が完成したのである。(話によれば、この作品は、虫についての教育用作品としても利用されているようだ。)つまり、ゼロから世界を創造するために、作り上げるものに対して、アニメーション作家はすべてを知っていなければならない。そして、先人の残した数々の偉大なる作品は、世界の仕組みを知る上での有益な教材となる。
・アニメーションを作るための手順というものがある。まずはアイデア。それからシナリオ。そして絵コンテ。シナリオは文学的なものであるので、絵コンテをつくることは必須である。絵コンテは、映像がどのようなものとなるかの見通しを立ててくれる。何度も繰り返されて言われることだが、芸術作品というのは、その構成要素のすべてが有機的につながりあっているものであり、そのためには細部の助けというものが必要になってくる。その細部を思いつくための一つの手段として、絵コンテは非常に役立つのである。シナリオが絵コンテに変わるとき、視覚的なものは言葉に対して優位に立つこととなる。
・CGを利用した作品へのコメントとして、ノルシュテインは再びコンピュータについて語ることとなる。コンピュータはあくまで道具として使われるべきであるとノルシュテインは考える。コンピュータは、もちろん、手作業では不可能なことをやってのける。作品を構成するすべての要素が有機的につながりあうことをノルシュテインは重要視するが、コンピュータは確かに手作業では無理な結びつきを生むこともできる。しかし、すべてのことをコンピュータにまかせるわけにはいかない。CGは確かに描写の不可能だったものを、あたかも現実に起こったことであるかのように描写する。しかし、芸術とはリアリズムの追求ではないので、コンピュータというものは反芸術的なものなのだ。
 ここで出されるのは『タイタニック』(1997)の例である。CGによるタイタニック号の沈没シーンは、発表当初は人々を驚かせていた。しかし、時間の経過による慣れは、人々の支持を失わせる。確かにCGは、発明された当初は、不可能を可能にするツールとして歓迎すべきものだったのかもしれないが、果たして現在、その存在意義というのはどこにあるのか。
 さらにノルシュテインはピクサーの記念碑的作品、短篇『ルクソーJr.』(1986)に言及する。電気スタンドの親子がボールで遊ぶ様子を描くこの作品を、ノルシュテインはとても気に入っているという。芸術というものは、制約が付けられたときに素晴らしいものになるということは、ノルシュテインが普段から語っている。CGは一般的に、不可能なものを可能にするツールとして使われているが、『ルクソーJr.』はそういった方向性に進まず、親子の電気スタンドがボールで遊ぶだけ、という限られた状況を描いていることをノルシュテインは評価する。描写自体も、調和のとれたものであるという。
 しかし、すべてを肯定的に捉えているわけではない。人間の子供がCGで描かれていることを、ノルシュテインは否定的に捉えている。その子供は、確かにCGの力によって写実的に描かれているように見えるが、実はまったく写実的ではない。どうして本物の子供を使わなかったのかとノルシュテインは語る。電気スタンドが遊ぶ様子はもちろんCGでしか描けないことであり、そこには必然性がある。しかし、子供をCGで描くことには必然性はないとノルシュテインは考えるのだ。
・この話と並行して、芸術とは「条件付き」「約束事」であるという話が出てくる。ロシア語の原語でいえば「ウスローブナスチ」というこの言葉は、英語で言えばコンヴェンションである。日本語にはぴったりとあてはまる言葉はないが、例えば、映画であれ演劇であれ、ある役者と、その役者が演じる役はまったく同じではない。それが「約束事」の上に成り立っていることを、観客はいつも意識している。ここには、ノルシュテインが、芸術とは「作り上げられるもの」であって、現実をそのままもってくるものではないという考えがあらわれている。ここからも、非現実をあたかも現実であるかのように見せかけるCGは反芸術的であるということが言えるのだ。
・表現したいことと実際に表現されていることの差について、ノルシュテインは何度も語っていた。作家は、作品が上映されるときに毎回居合わせて、意図を説明することはできない。ゆえに、作品においてすべてを語らなければならない。理解してもらいたい、という気持ちがあるだけでは充分ではなく、それを理解させるためにすべてを作品の中で表現しきらなければならない。
・芸術作品が何を語ったところで、世界が変わることなどない。一見、これは芸術に対する否定的な見解にも見える。しかし、そうではない。芸術家がどれだけすごい作品をつくったところで世界は変わらない。しかし、芸術家には、人々にある種の前向きな気持ちを起こさせることができるとノルシュテインは語る。たとえ世界が不条理であろうとも、どれだけひどいものであろうとも、芸術は人々を、勇気づけ、鼓舞することができる。そのためには、やはり、まずは身の回りに溢れるものへの眼差しが必要となってくる。ありふれた日常の中に、感動的な細部を見つけること、そしてそれを表現することが必要となってくる。

 すべての作品へのコメントが終わると、ノルシュテインは再び強調する。自分を取り囲む世界を注意深く観察せよ、と。内面の世界に閉じこもるな、自分の外に出ることを恐れるな、と。作品を作り上げるためには、すべてのものに対して興味深くあらねばならない。扱うテーマは限定されるべきではない。(ただしその表現の仕方は限定されるべきである。)そして、表現するためのその的確なやり方を身につけなければならない。

 この日の最後は、3日目への導入として、『狐と兎』(1973)について少し語られることとなる。『狐と兎』は同名のロシア民話を原作としている。その選択の基準は何だったか、という参加者の質問に対して、ノルシュテインは、単なる偶然であると答える。この話を映像化したいという欲求があったわけではなかったが、ノルシュテインは、その作品に、それまで30年近くも生きてきた自分のすべてをつぎ込んだと語る。
 では、この作品はどのようにしてできあがっていったのか。それが三日目に語られることとなる。

–––
(3)に続きます。

「年をとった鰐&山村浩二セレクト・アニメーション」[Amazon](ナザーロフ『アリの冒険』収録)
『トイ・ストーリー2』[Amazon](『ルクソーJr.』収録)

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