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        2008-01-06        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(1)

土居です。僕自身がノルシュテイン研究からアニメーションに関わりはじめたことを考えると、Animationsでこれまでノルシュテインのことをほとんど取り上げずにいたことは自分でも不思議に思います。

ヒョードル・ヒトルークは、1981年に、『話の話』について以下のように言っています。
「『話の話』のプレミア上映のあと、何人かの同僚がこのように尋ねていた。”これは本当にアニメーション映画なのか?”と。彼らが結論付けたのは、この作品がいままで知られることのなかった何かしら新しい映画の形式を切り開いたということだった。そう、これは一般的に理解される形のありふれたアニメーションではまったくない。しかし、私の考えでは、この作品は、アニメーションが根本的な力を発揮した、もっとも明確な表現なのである。」

『話の話』はアニメーションなのかどうかという疑問。それは、馬鹿げたものであると同時に、納得されてしまうことでもあるでしょう。1981年でも、今でも。
「アニメーションとは何だろう?」と考えるAnimationsは、『話の話』をめぐるこの疑問について、考えていかねばなりません。

今年中には『外套』の第1部の完成版が観れることを願っています。今年は、ノルシュテインがアクチュアルな存在として再び帰還してくる年となるはずです。

ノルシュテインは、不本意ながらアニメーション制作に携わってしまったがゆえに、自分がアニメーションで表現することの必然性について、普通の作家以上に真剣に考えざるを得ませんでした。たくさんの言葉を費やさざるを得ませんでした。
そんな彼の言葉は、とても面白いです。
そこで2005年に行われた10日間ワークショップを、当時取ったメモをたよりにしていまさら振り返ってみたいと思います。
アニメーションで表現するとはどういうことか、その一つの答えが見えてくるのではないでしょうか。
(先月アップした、山村浩二インタビューとあわせて読まれることをお薦めします。)

-----

○初日
 10日間にわたって行われる今回のワークショップは、直接指導を受ける12人の作品を観るところから始まった。ノルシュテインは、一人一人の顔を確認し、名前を書き留めていく。
 12人の作品上映が終わった後、まずは総評。ノルシュテインは、ノルシュテイン大賞において、過去五年にわたって日本の若手アニメーション作家たちの作品を見続けてきたが、過去も今回も、作品から受ける印象は変わらないと言う。
 自分のイメージの世界の中に閉じこもっている。
 日本にはアニメーションを教える学校がないのではないか。作家が、自分の作った作品を理解していないのではないか。読書が足りていないのではないか。美術作品を鑑賞していないのではないか。日常に対する、自分の身の回りに溢れるものに対する観察が足りないのではないか。
なぜそう思うかといえば、作品に描かれた細部が感動的なものを呼び起こすことがないからだ。そのような細部のない作品は、観客の記憶から消えてしまう。作り手は、普段の生活の細部から、そして芸術体験から、物語を紡ぎ出すことができなければならない。そうノルシュテインは語った。

 その後、一人一人の作品に対して、作家への質問を交えながらコメントをしていった。(それは結局2日目の後半にまで及ぶこととなる。)
 印象に残った言葉を挙げてみよう。
・作者は自分の作品が何についての作品なのか、最小限の言葉で語れなければならない。語ることで、自分の作品を、誤解から守らねばならない。
・すべての登場人物について、すべてのことを知っていなければならない。例えば、ある人が寝ているのであれば、その人はなぜ寝ているのか。疲れたからなのか、腹一杯に食べたからなのか、答えられなければならない。(各キャラクターの仕草を描写する際にも、それができるかどうかが重要になってくる。10日間ワークショップに先立って行われたジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1934)についてのワークショップで、ノルシュテインは、冒頭の婚礼の行列に参加する人々について、一人につき5秒しか描写されていないのに、その単純な仕草が、その人物がどのような人間であるかをすべてを物語っていることに驚嘆する。それはジャン・ヴィゴが人々を詳細に観察していたからであり、現実生活を鋭い視線でもって見つめていたからである。)
・CGは、アニメートの技術を身につけることなしに動きを生み出せてしまうゆえに危険である。操作方法さえ身につけてしまえば、誰にでも動かすことができてしまう。CGが生み出す動きはプラグマティックなものであり、日常的な仕草がもつ幻想的なもの、詩的なものを生みだしえない。(日常から幻想を生み出すこと、これもまた、『アタラント号』について語られていたことだった。)身の回りにある小さなものを通じて、大きなものを描く。これが芸術の法則である。(こういった発言は、『話の話』の「永遠」というエピソードを思い出させるものだろう。セピア色の世界のなかで、人々は日常的な仕草を積み重ねていく。その日常的な「小さな」光景には、言葉で表現することのできないと、とてつもなく大きな何かが描かれている。)
・つくられたものと作者との間に結びつきが存在しなければならない。作品とは、作者の持つイメージが「具体」化されたものでなくてはならない。このキャラクターは誰かをモデルにしているのか、どこかで見かけたものなのか、何らかの芸術作品からとられたものなのか。自分が想定するイメージを表現するのに適切なものが選ばれねばならない。
(ノルシュテインの作品が、東西や時代を問わず、多様な芸術作品から様々な視覚的モチーフを利用している。ことは周知の通りだ。『外套』においては、アカーキィ・アカーキエヴィッチの表情一つをとってみても、ノルシュテインは、何人ものモデルを想定してその写真をみながら切り絵の素材をつくっていく。芸術体験・日常体験の膨大な記憶のなかから、すべてのキャラクターに対して根拠ある選択が行われていくのである。)
・キャラクターたちは、いや、キャラクターだけではない、アニメーションを構成するすべての要素は、それぞれに結びつきを持っていなければならない。すべての芸術とは、非合理的なものである。しかし、作り手にとっては、すべてのものが計算されつくしていなければならない。作り手がすべてのものを自分の手のうちに収めた上で、そこから溢れ出てゆらめくものこそが、芸術となる。すべてが合理性のもとに作られているがゆえに、そこから非合理的なものが現れてくる。それは、『アタラント号』にも言える。キャラクターの仕草であったり、音楽もチーフであったり、すべては詳細な計算のもとに作り上げられているなかに、美しい瞬間が現れてくる。突如として挿入される、岸辺で祈る親子の姿。灯りをともす家。そして、ラストシーンの空撮が写す川の水のきらめき。
・芸術家は、まずは「ドレミファソラシド」を身につけないといけない。ノルシュテインは、ロシアの画家、カンディンスキーの例を出す。カンディンスキーは、今でこそ抽象画の始祖の一人として有名であるが、初期の活動では、風景画を描いていた。絵画の技法をすべて学んだ上で、自分の表現へと向かっている。アニメーション作家は、まずはプロットを作れるようにならなければならない。単純な動きが説得力を持つようにしなければならない。日常生活の観察、芸術作品の鑑賞を通じて、つまり自分のすべての生活を通じて、考え・アイデアを蓄積しなければならない。

----

(2)に続きます。

以下二つは必携です。
「ユーリ・ノルシュテイン作品集」[Amazon]
『フラーニャと私』[Amazon]

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