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        2011-12-30        2011年ベスト(2) スペシャル・メンション

今年のベスト作品3本に続いて、印象に残った作品をピックアップしていきます。

"Birdboy" (Pedro Rivero & Alberto Vázquez)
birdboy
原作は未読ですが短編アニメーションの枠内に収めることに失敗しており悪い意味でのダイジェスト感があるのは否めません。しかし、むしろそのぎこちなさ・強引さこそがこの作品にエナジーを与えている気もします。ネズミ人間たちの世界の傍らに暮らすバードボーイ。彼は鳥の言葉を理解するものの飛ぶことはできず、人間のような姿をしているけれどもネズミたちは彼を仲間とみなさない、徹底的に周縁の存在です。牧歌的な始まりを一挙に否定してかかる事故は制作時期を考えればもちろん関係ないですが日本の大きな事故をイヤでも思い出させます。シュトゥットガルトでこの作品を観たときには震えながらでした。すべてが変わってしまって、それでも日常を続けようとするときに仕方なく選ばれる虚飾の道とそれに耐えられない者。その両者が、鳥でもなくネズミでもない――つまり誰でもない――バードボーイに願いを託していく…都合の良い話です。しかし、バードボーイは単なる薬物中毒者なのか、それとも「どこか別のところ」へと連れていってくれる存在なのか、物語は答えを出さず、するとこの作品は、使命・天命についてのものへと変容していくのです。アウトサイダーが背負う天命。どこまでも孤独な物語なのです。

"Sleepincord" (Marta Pajek)
sleepincord
クレバーかつ見えにくいコンセプトを言葉を使わずビジュアルと音で展開できる才能は、プリート・パルン直伝のものです(ポーランド人ですがフィンランドのタルトゥ美大に通っていました)。複数化する「私」、それは気づかぬうちに伸びている産毛のようなもの。入眠は理性の境界をぼやかし、ロジックになっていないロジックとそれとをつなげます。すると見えてくるのは、私はひとりではないということ。でも多重人格とかそういう話ではなく、私は理性的な私、無意識の私、本能の私、さらにその埒外にある私であり、しかも私を支えてくれる両親や将来きっと現れるであろう伴侶でさえもやはり私を作り上げていることに気づくのです。自由連想の豊かさを象徴する白い糸、赤い滴。私を構成するかぎりにおいての無限の可能性。

"Who Would Have Thought?" (Ewa Borysewicz)
whowould
短編アニメーションでは非常に珍しい郊外ものです。たとえばハーモニー・コリンだったり、ハネケだったり、画面の隅々まであらゆることが終わってしまったような致命的な空気が漂っているアニメーション。"Sleepincord"が無限に広がっていく私であったとすれば、この作品にはそんなものはひとかけらもありません。地方都市におけるある男の消滅をめぐる証言集は、ヘタクソに見えることを恐れない大胆なビジュアルと優れたボイスオーバーによってコミカルなものとなりながら、最終的にひんやりとしたところへと私たちを連れていきます。消えた男は一体誰だったのか。もしかして神様? ここでもまた、「何者でもない存在」が大きな(空白の)中心を占めています。(そもそも、この作品のなかに何かしらの実質を伴った人間はいるのでしょうか?)なんらかの「雰囲気」がこの世界を支配しています。(1/22のイベント「A-AIRxCALF」にて日本語字幕&本人のプレゼンテーション付きで上映されます。)

『Scripta Volant』(折笠良)
scriptavolant
この素晴らしい作品についてはこのエントリを参照してください。個人的には、牧野貴作品が観客の脳に及ぼす創造的効果と同じものをもたらす作品だと感じました。アニメーションに対するこのアプローチ自体に、まだまだ掘り下げられていない無限の可能性が秘められています。

"Fly Mill" (Anu-Laura Tuttelberg)
flymill
あらゆるものが関連しあっているというシンクロニシティを信じる人は、物事をきっとひとつの平面でしか見ていない、もちろんその平面に強さがあればそれは表現となる――世界に対するそういったアプローチがある一方で、斜に構えて、俯瞰して、そういった人々、そして現象自体を眺める人もいます。プリート・パルンはもちろん後者で、パルンの新たな愛弟子のこの作家もまたそちらに属しています。しかしひとつ大きな違いがあるといえば、この作家の世代にとってもはや世界は当たり前のような無限の広がりを持っていて、理解できることは弱々しい「私」の平面のみ。シンクロニシティも持たせられないので、「私」を中心とした熱量で勝負するのみ。もしくは「私」を無限の領域へと逃していくのみ。巨大なゴールドバーク機械のようなセッティングのこの世界は、しかし「ウォレスとグルミット」の起床装置や「トムとジェリー」みたいなスラップスティックのような人間的・有機的全体連環から逃れ、より非人間的で機械的。『エクスターナル・ワールド』でいえば地球の外側につけられたトンボの外側のロジックを流れ込ませています。ハエと猟師たちが関係してみえるのは立体的な世界を平面的に眺めているからにすぎず、だからこそカモたちは遥か遠くの無限の領域へと(平面を眺める人の視線と同じ方向に、その視界から消えるくらいに遠くへ!)逃れていく。「適当さ」が発揮されたときに途方もない力が人形に宿るリホ・ウント的要素(投げやり感)も効いています。それにしても1984年以降(だいたい)生まれの学生作家たちはどことなく共通する世界観を持っているなあ。

"Body Memory" (Ülo Pikkov)
bodymemory
(twitterでのつぶやきをまとめながら…まだ答えが出ないのです)
「『ボディ・メモリー』はアニメーション部分が相当にパワフルだけれども、実写部分が機能していないように思えた。さっきウロ・ピッコフ本人に直接質問してみたけれども、彼が教えてくれたバックストーリーを聞いて、ようやく合点がいった。もう一度観てみたら機能しているように思えるだろうか?」
「ピッコフ『ボディ・メモリー』はソ連時代にシベリアに強制連行されたエストニア人の話。寒さで消耗する体力と故郷への愛着が糸人形の糸がほどけていくことによって表現される。自分の身体がほどけ、消えていくことに対して抵抗を試みるも無駄に終わる、恐ろしいアニメーション。」
「前後に実写パートが挿入されている。リンゴの木の枝に鉛筆がくくりつけられていて、風に揺れる枝がキャンパスに無数の線を残していく。この物語の設定としては、古くからそこにありつづける木が目撃したであろう光景を探るものとなっている。木は同時に、老人たちの筋張った身体のメタファーにもなる。」
「そんな意図が込められた実写パートなのだけれども、個人的には機能しているように思えず、作家本人に話をきいてみてようやく全貌が見えた。わかりにくいんじゃないかと思い切って質問してみたんだけれども、開会式でのオープニング上映で観た祖母は分かってくれたよ、と返された。」
「エストニア人の強制連行に対する距離感の違いが大きいということか。無知を恥じた。」
「以上が『ボディ・メモリー』の実写パート問題。充分な情報を得たうえで観る次の機会では機能しているように感じるだろうかなあ。」
アニメーション表現の強烈さと説得力、それが感じさせる本能的解釈と文字で起こされた解釈の違い。(ほどけていくことと、故郷に帰りたいと願うこと、そして命が消えていくことのあいだの関係など。)"Body Memory"は非常に悩ましい作品で気になって仕方ない。


相原信洋作品についても一言だけ。キャリアが長いのに、最晩年に至るまで最高潮をキープしつづけた奇跡の作家の死去を心から悼みます。相原さんには様々な伝説的エピソードがあり、そのなかには創作も含まれていたようですが、死ぬというエピソードだけが似合わない。自然事情・宇宙事情に精通した作品のスケール感。ハーツフェルトの新作と相原さん追悼上映を続けて観た12月の一週間は、何億光年もの精神的トリップをしたかのようでした。短編の醍醐味はここにある。

土居


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