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        2011-12-29        2011年ベスト(1) 今年の3本

短編アニメーションについて何かを語るときそれがある時代の熱気を帯びたものにならないことを個人的に少しもどかしく思っていますが、それは僕の書く力/見抜く力の不足である一方、そもそも短編作品自体がコンテンポラリーな気質に左右されにくい性質を持っているのではないかとも思っています(市場から見放された分野であることは関係しているかもしれません)。これから2011年のベストを挙げていくわけですが、これらの作品は、そしてこれらの作品について語る僕自身の言葉は、遠く離れた時代から眺めたとき、2011年らしさを感じさせるのでしょうか? 「2011年」で区切ることに何か意味を持たせることができるでしょうか? (去年のベスト作品のエントリは2009年-2010年で区切りましたが、それは短編作品の世界的なサイクルが映画祭の関係上2年くらいで一回りするからです。) 僕自身が今年のベストに一定の傾向を感じたとして、その傾向は表面的には時代とマッチしたものであるとはいえないかもしれませんが、もしかしたら、こんなふうに傾向を感じとったこと自体が、何か時代と共振しているのかもしれません。今から挙げる3作品に共通するのは、「ここ」と「彼方」をつなげるものであり、そのことが何ともいいようのないくらいに現実を強く感じさせるということです。

『マイブリッジの糸』(山村浩二)
muybridge
『マイブリッジの糸』は繰り返しの鑑賞が適切になるように作られているのが同時代の他の作品と一線を画するところで、僕なんかはインタビューをしてレビューを書くという特権を活かしてDVDをループ再生してそれこそ百回以上は絶対に観ているのですが、観れば観るほどにしっくりと浸透していき、止めることができなくなっていくのです。そして時間が絶対的に静止した世界にぽつりと留まったような感じになります。これは同時代のアニメーションとはまったく異なる鑑賞体験であり、時間感覚なのです。だから短編作品に対するリテラシーの中途半端な高さはこの作品のストレートな受容を阻害するかもしれません。少なくともこの作品は映画祭的鑑賞(つまり多数の作品の羅列のなかのひとつとして観る)ことに最適化されてはいません。しかし一方で、生きる時間に制約を持ち、一瞬前にさえ戻ることがない人間として生きているのであれば、必ず何かしらが存在の深いところに染み込んでくる作品でもあるのです。無限に繰り返されるものの一部としての私たち。そのことの安心感と孤独感。詳しいことはAnimation本ホームページのレビューとして、そしてインタビューとして語りそして語ってもらいましたのでそちらを是非ご覧になっていただいて、この極めて特殊かつ普遍的な作品が自分の手元で繰り返し繰り返し観られる日を今は待ちましょう。(東京以外に在住の方は公開自体がそもそもこれからですけど。)

It's Such A Beautiful Day (ドン・ハーツフェルト)
beautifulday

ドン・ハーツフェルト「きっとすべて大丈夫」三部作の完結編It's Such A Beautiful Dayは、前二作(『きっとすべて大丈夫』『あなたは私の誇り』)とは性質の異なるもののように思えました。あくまでビルに対して客観的でありつづけていたナレーションは、これまで以上にビルに寄り添い、時に感情を荒げます。かつては棒線画と背景の空白が観客に対して創造的補完を要求しその過程でビルの物語が「私たち」の物語としても機能するようになっていたとすれば、実写部分が増えることで背景の空白が消え棒線画のビルは周りの世界からひとり取り残されているように見えてしまうこの作品は、ビルの物語を紛れもないビルそのものの物語として体験することを要求します。つまりビルの物語は、もはや「私たち」の物語ではなくなっているのです。It's Such A Beautiful Dayを形容するとすれば、脳に致命的な病気を抱えたある男のドキュメンタリーであるとするのが最も正しい気がします。この作品は、三部作のなかでも一番「笑える」作品ですが、その笑いはひんやりとした感情を呼び起こさずにはいられません。一回目に観たときは腹を抱えて笑ったシーンも、二回目に観たときには「きついなあ」と笑えなくなりました。三部作のなかで最もビルの主観に寄り添った作品だと思いますが、それはむしろ、ビルと観客たち(そして作者)のあいだに横たわる溝がひどく深いからゆえのことです。ノルシュテインの未完の作品『外套』を思い出します。ほとんどのシーンがアカーキィ・アカーキエヴィッチというちっぽけな人間の一挙手一投足を追うことに専念されているあの作品は、アカーキィのうちに潜む宇宙的なスケールを観客に植え付けるものでありました。It's Such A Beautiful Dayは2011年版の『外套』なのかもしれません。みんなの物語から、ちっぽけな他人の生をがむしゃらなまでに肯定する話への転換が、ここではきっと起こっているのです。willという助動詞がとても重要だということを昔書きました。しかしまさか、このようなかたちでまたこの言葉が重要になってくるとは。みなさんはこの作品を観て、何を思うことになるのでしょう? わたし、でも、わたしたち、でもなく、わたしたちには想像も及ばない「誰か」の物語が、ここでは語られはじめています。そしてそれはおそらく、喪についての物語であるということにもなるのです。もしかすると死に潜む潜在的な可能性についてこの作品は語っているのかもしれません。もちろん、すべては推量にすぎないですが。「メランコリックな宇宙 ドン・ハーツフェルト作品集」は2012年3月31日からシアター・イメージフォーラムでレイトショー公開です。三部作目が日本に紹介されるかは、ここでの客入りにかかっているかもしれません。

『ホリデイ』(ひらのりょう)
holiday
ポップでドメスティックなものという日本の短編アニメーション界に最も欠けていたピースが不意に登場したわけです。コヴァリョフの血をドクドクと引き継ぎながらこんな作品ができてしまうとは…初見の驚きは半端なものではありませんでした。しかしコヴァリョフを強く感じたのは最初だけで、そんな文脈だけではない豊潤さをこの作品は滴らせています。ボップであることは作家本人がとても意識していて、ではポップをどのように定義しているかと訊ねてみれば、愛と熱量だと言っていました。人々が慣れ親しんだフォーマットをなぞることは重要ではないのです。『ホリデイ』はむしろそういう点からすると分かりにくい。しかし、愛と熱量が、この物語を他人事にはしないわけです。もちろん定型はあります。「ボーイ・ミーツ・ガール」に「バンドもの」、そして「青春もの」。しかしメタな視点に立つわけではなく、すべてが作品の熱量に直結しているという語りの素直さもまたあります。『ホリデイ』に関しては評論泣かせなところがあって、作家本人が書くあらすじが、まったくあらすじになっていないかわりに極めて優れた評論文になっているのですーー「ホリデイは、男と女の話しで、いない人、かたちのない存在を信じてみる話で、みえない愛を探り当てる話です。声や水分やそういったものに頼って大切な人にすがろうとする事です。好きな人の、留守電の記録や物にすがってその人の存在を信じる事です。夏の熱さで蒸発した多くの人間の汗が、梅雨の雨になって降ってくる。その水分のなかにきっとあの子の水分も混ざっているから愛おしい。」この作品がなぜ『ホリデイ』なのかといえば、消えてしまった彼女についてのひとつの時代が終わってしまった後の休息の期間を描いているからではないでしょうか。それは追憶の時間でも当然あるわけですが、追憶というのは悲しいものでリアルタイムに展開されていくわけで、生きている今そのものでもある。そうなると私たちは常に「ホリデイ」のなかに暮らしていることになります。私たちは当然私たちの視点からしか世界を眺めることはできず、他人についてはいくらがんばったところで本当のところはわからない。『ホリデイ』は物理的かつ精神的に遠くにいってしまった誰かについて考えることについての作品です。だから、私たちは繋がっている/わかりあえるという虚構のつながりの幻想はここで打ち砕かれます。僕なんかはそんな虚構のつながりの夢から覚めたくて短編アニメーションの世界に入ってきたわけですが、しかし、本当はバラバラなんだということを認識した後に、今度はやはり、本当はバラバラであることを認識したうえで、新たな関係性を築き上げていくことを願いはじめてくるわけです。『ホリデイ』が見せてくれた光景はまさにそれでした。過去は過去として終わってしまった。しかし、その過去は確かに私の一部となっている。血肉となっている。遠いものもまた然り。すべてがあなたでないかわりに、すべてがあなたであるという矛盾がここには成立していて、しかも実際には矛盾ではないのです。それに気づいたとき、わたしたちは休息時間をやめて、おそらく再びまた倒れるまでの新たなスタートを切れるのです。最後に跳ねるあの尻尾は、わたしたちに「さあまた立ち上がれ」と鼓舞しています。わたしたちはひとりであるけれども、まったくもってひとりではない。こんなに勇気の出ることがあるでしょうか。感動せずにいられるでしょうか。このビジョンなら、私たちはばらばらになりながら共有できるかもしれない。愛と熱量のこもったこのビジョンならば。わたしたちをとても深いところで規定するものについて、この作品は語っています。



次のエントリでは、今年観て気になった作品・作家について書きます。


土居

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