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        2011-07-11        革新的な日本の若手2作品:折笠良『Scripta volant』と平野遼『ホリデイ』

2011年も半分が過ぎてしまいました。ブログで全然作品について書けていない……罪滅ぼしの気持ちも込めて、日本の若手2作品について少しだけ書いておきます。両極端なベクトルを持ち、それぞれに素晴らしい作品です。ふたりの「りょう」作品。

まず一つ目は折笠良『Scrpita volant』。藝大二期生の作品です。この作品は、「アニメーションとは何か?」という問いに真っ向から挑んでくるような作品です。そして、「アニメーションとはこういうものである」というひとつの答えを突きつけてもきます。オスカー・ワイルド『幸福な王子』の英語テクストが紙の上に刻まれていくだけのこの作品は、簡単に言ってしまえば、私たちはアニメーションを見るとき、描かれているものそのものだけを見ているわけではない、というアニメーションについての明快な一考察であるともいえます。
朗読とともに刻まれる英語テクストは、swallowが鳥となって飛び立つなど、ときに文字自体が想起させる「イメージ」へと変化していきます。文字とアニメーション。その両者の共通点についていつも語っているのはノルシュテインです。文字は単なる記号であるのに、言語の約束事を共有するものにとっては単なる文字列・記号ではない、それ以上の意味を帯びる。アニメーションもそれと本来同じように、約束事に基づいて、描かれているもの以上の何ものかを観客に伝えるはずなのです。『Scripta volant』はそのアニメーションの用い方によって、そのこと自身を映像化しているかのようです。
アニメーションとは基本的に、「内的なるもの」をリテラルに映像化するメディアとして発展しているので、そういった特質についてはあまり顧みられることはありません。つまり、観客が受け止めるべきものを、作り手はあらかじめ図像化してしまうやり方です。アニメーションがそういった道筋で発達してきたのは間違いありません。
『Scripta volant』は、その道を選びません。折笠良という作家はかつてから文字テキストや文学をモチーフに作品を作ってきましたが、純粋に文字だけを相手にしたこの作品において、彼は、「書いたもの」が「飛び去る」こと(Scripta Volant)、つまり、文字(アニメーション)が喚起するイメージの飛翔を、取り上げているのです。ただ文字として刻まれる部分とその文字が「飛翔」すること、その両方が非常に抑制の効いたバランスで展開されていくこの作品は、ハーツフェルトの棒線画における実践にも似た、アニメーションの新たな可能性の追求のはじまりといえることでしょう。
この作品におけるアニメーションは、描かれているものを通じてではなく、描かれているものを媒体・霊媒として、作り手(アニメーターであり原作者であり)と観客との脳をダイレクトに接続するようなものともなっており、観客に対して未知なるやり方で突き刺さってきます。
強力な作品です。

日本のインディペンデント界に希望を感じさせるもうひとつの作品は、ひらのりょう『ホリデイ』。僕にとっては予期せぬ嬉しい発見となりました。折笠良が普遍的で実験的な考察に向かおうとするなら、平野遼はアニメーションのローカル性とポップさを追求しています。
とにかく、作品全体に漂う日本の湿度に驚かされます。アニメーション、特に作家性の強い短編アニメーションは、どちらかというと冷たく凍った(逆に穏やかで温かな)、普遍的な時空間を立ち上げるものですが、『ホリデイ』が描くのは鄙びた行楽地の、ローカルな湿度なのです。しかも、この湿度、水っぽさがとても効果的に効いてくる。
裸の男、浴衣の女、そしてイモリの子ども。タイプの違う三者は、その見た目がすでに予告しているように、別離を運命的に控えています。その別離はオライリー『プリーズ・セイ・サムシング』とパルン『雨のダイバー』の別離を足して二で割ったような感じ、つまり、必然だが感情的未練は残るという湿っぽさを持っています。
音の響かせ方、そしてキャラクターたちの少し謎めいた動き、それらはコヴァリョフを思わせますが、作家のインタビューを読むに、実際にコヴァリョフの影響を受けているようです。物語の発想も、コヴァリョフ同様に、記憶のイメージや私生活の出来事がベースになっているとのこと。しかし、驚きなのは、日本はコヴァリョフ・チルドレンの多い国だと言えますが、平野遼におけるコヴァリョフの翻案は、非常にポップだということです。
『ホリデイ』におけるポップさをどのように特徴づけたらいいのか、僕はよくわかりません。別に物語が分かりやすいわけでもないし(むしろよくわからない)。でも、作品全体が持つ感覚として、ポップなのです。はっきりいってすごく悲しい物語です。作家本人による解説文が奮っています。「ホリデイは、男と女の話しで、いない人、かたちのない存在を信じてみる話で、みえない愛を探り当てる話です。声や水分やそういったものに頼って大切な人にすがろうとする事です。好きな人の、留守電の記録や物にすがってその人の存在を信じる事です。夏の熱さで蒸発した多くの人間の汗が、梅雨の雨になって降ってくる。その水分のなかにきっとあの子の水分も混ざっているから愛おしい。」この作品のポップさは、もしかしたら、この作品が全体として「愛おしい」というところに秘められているのかもしれません。別れた人は、別れてしまったけれども、実は偏在している。残滓でしかないけれども、思い出でしかないけれども、雰囲気でしかないけれども、ある。いる。そんな世界は、悲しいけれども、愛おしくもある。その両義性が、なんともいえずにポップなのです。うーん、うまく伝わっているだろうか。別れているけど、でも「信じている」。この根拠なしのポジティブさが素晴らしいのだと思います。だってそういった態度こそが、僕たちがこの世界を生きるために必死に辿り着く方法論でもあるわけですから。最後、おーいおーいと声を出すイモリの子ども。その声に、届け! 届け!と思わず手に汗握ってしまう体験。それ自体がポップだと思います。届くことに、それが別に何かにつながるわけでもないけれども、カタルシスがある。それは、ないかもしれないけど、あるかもしれないという、可能性を信じるということなのだと思います。とても生きる力が沸いてくる作品です。この作品を観て、勇気づけられる人、現実に立ち向かうことができるようになる人は、多いと思います。いま、この日本において、多くの人がわたしたちの物語だと感じることができるのではないでしょうか。良い意味のポップなのです。

ひらのりょうさんは現在DVDを作るためにreadyforを使って資金集めをしています。目標金額は達成されていますが、7月いっぱいはまだまだ受付中です。2000円でDVDがもらえると考えると、安いものです。
ひらのりょうの作品集ほしいひとー! お金ちょーだい!!

余談ですが、readyforをはじめとしたソーシャルファンディングは、これからインディペンデント界にとって非常に重要なツールとなっていくと思います。

ちなみにどちらの作品も、「CALF夏の短編祭」(9/3~9@ユーロスペース)にて上映されます。
アニメーションの新しい姿を是非とも目撃してください。

土居

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