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        2011-03-27        調和的世界観のその先へ

震災が起きました。そして、原発の危機・不安はまだまだ続いています。
(東京在住の身として、どうしても自分に降り掛かる可能性のあるものについて心が奪われてしまうことに、苛立ちを覚えます。自分中心の思考からいまだ逃れられない自分に対して。)

ダラダラとした日常は無効になりました。このような大災害や人災を前にして、少なからずの作家が、自分が作品を作ることの意味を自問自答したことでしょう。僕自身も、アニメーションについて語ること・考えることが何の意味を持つのか、かなり考えました。

作品が持つ意味が変わってくるのは確かでしょう。ただ、責任を持って作られ、その責任をきちんと果たすことのできた作品は、かわらずその価値を持ちつづけ、観客に救いや新たな客観性を与えつづけることでしょう。

しかし、そうではない作品は、これまで以上にその力を奪われるでしょう。自分の実感だけに基づいた、自分の世界だけにこもった、そんな作品はもしかしたら見向きもされなくなるかもしれません。自分が生み出したロジックを絶対視し(むしろ疑うことさえ思いつかず)、それがその作品の中でしか成立していないこと(もしかすると、作品の中でさえ)に無自覚な作品は、今まで以上に見る者のうちに苛立ちを募らせることになるでしょう。

3月は、たくさんの日本の短編作品を観る機会に恵まれるものとなるはずでした。藝大の修了制作展やTOKYO ANIMA!は、去年のクオリティの高さから、個人的にも非常に楽しみでした。(一部の作品についてはもろもろの事情により、もうすでに観ているのですが、それについてのコメントはまだやめておきたいと思います。)

ただ、中部地方にて行われたTAFF '11(武豊アニメーションフィルムフェスティバル)にて、いくつか作品が観れましたので、それについては少しだけ書いておきたいと思います。

水江未来『TATAMP』
TATAMP方式とでも言えるようなものが確立された作品です。ある音と、それにあわせて動く細胞的な模様(この作品ではすでに、細胞である意味はなくなっていますが、それは良い方に作用していると思います)。それらをある意味ではコラージュしていくかのようにして、画面が構築されていきます。『JAM』における「足し算」方式(以前批判しましたが)が極限にまで突き詰められています。(後半は一体どれだけのキャラクターたちが詰め込まれているのでしょう?)口惜しく思ってしまうのが、このメソッドに対して作家自身がまだ慣れているように思えないこと。一日一アニメーションという狂ったコンセプトの"Timbre"シリーズ(TATAMP方式ゆえに可能になった試みです)の後半や現在制作中のPV(武豊にてその予告編が流れました)での「おおっ」と思わせるような展開に比べると、『TATAMP』は丁寧すぎで、素直すぎるように思えてしまうのです。ヒュカーデ『愛と剽窃』という、同系統の強力な作品があったせいか、こういった作品であれば、もっと強引にでも「もっていって」ほしいと身体が欲求してしまうのは確かなのです。

石田祐康『rain town
これが大学の卒業制作なのか、というクオリティにまず驚愕しました。ゴブランの作品のような世界観、しかも映像のクオリティも負けていない……その驚きです。
アニメーションの大勢を占める、観客を優しく抱きとめているような調和的世界観、少々の痛み(もちろん本当の痛みではない)を含んだうえで構成されその世界(『岸辺のふたり』や『つみきのいえ』がその究極でしょうが)、そういったものに対する違和感が日に日に強くなっている僕のような人間としては、もちろん、諸手を上げて「素晴らしい!」とは言えません。
ただ、語られている物語に共感できない僕であっても(というか、どういう物語なのかあまり頭に入ってこない)、この作品は、いつの間にかに10分間を観終わってしまっている。その映像音響的な強度については、凄いと思います。このような日常の変容が起こったあとでも、それでも強度を持ちつづけているこの淡々としたペース。水というモチーフは、震災後、意味を違えてくるでしょうが、この作品はこの作品なりの水を持っている。(なんと心地よい水でしょう。)そのことも、かなりのものだと思います。

資質的にはコヴァリョフにかなり近いものを感じました。
(誤解を招きそうですけど。でも、『ミルク』と比較してみてください。)



アニメーションにおける調和的世界観。『rain town』でもまた強力に反復されているこの原理。僕はそれに対してyesと言えません。個人作家のアニメーションが、内へとこもっていく傾向があるのは確かです。ですが、僕がハーツフェルトに惹かれるのは、内にこもることで確かな(しかし偽りの)ベースを見つけ出すのではなく、世界のフライジャイリティに観客を晒させるようなものだからです。それは、観客の想定内かつ都合の良い過去や事実、真実に温かな光を当てるのではなく、存在の根本に揺さぶりをかけるような、非常にクリティカルな何かです。
今こそ、こちらを「壊す」ような、突き抜けんばかりのフィクションの力を見せつけるような作品が見たいと思います。(「壊す」という表現には語弊があるかもしれませんが、でも、惰性の産物としての今の世界を、このまま続けるわけにはいかないでしょう?)オライリー『ジ・エクスターナル・ワールド』のように、観客にベロを出しつつ、「芸術」とよばれるものの力を正面からぶつけてくるような(ラストのキャラクターたちのあの涙は、僕たちのそれぞれが程度の差はあれ一度は経験したことがあるような、芸術によって「壊される」体験によるものなのではないでしょうか?)、あんな作品が。(安易な物語化と、それへの同調による偽りの安心感の創出を描いているこの作品は、もちろん震災後も有効です。)

僕は今だからこそ、ノルシュテイン作品が提示する世界の厳しさをもう一度受け止めなおしたいと思っています。
ノルシュテインはなぜか日本では、調和的世界観を持った代表的な作家だと思われている節があります。でも違いますよ、ノルシュテインが作品内で調和を生み出すのは、「この世界には調和がなければいけない」という切迫した気持ちがあるからです。裏返せば、この世界に、自然的な獲得しうる調和なんてない、とノルシュテインが考えているということです。

「ところで私は詩人だ。目にしたもの、耳にしたものすべてが心の底から私を揺さぶる。感情が私を引き裂く。私は感情的な存在なのだ。私の仕事場は広場であり、通りであり、浜辺である。人々のいる場所だ。彼らは自分でも知らないうちに、テーマや、ときにはフレーズを丸ごと私に教えてくれる。(……)私はそれらを実物から書き写すのだ。
 だから私は広場に座っている。
 すでにいったとおり、ここが私の仕事場だからだ。
 居心地が悪くとも、それが何だ……
 とにかく私は詩人だ。私はあなたたちみんなを見ている。あなたたちの痛みは私の痛みだ。」

リュドミーラ・ペトルシェフスカヤが書いた『話の話』の脚本の一部ですが、
今だからこそ、この言葉をもう一度噛み締めたいと思います。
僕たちはみな、この「詩人」にならねばならないのです。

土居

コメント

「ノルシュテイン作品が提示する世界の厳しさ」をもう一度見つめなおす。その目でアニメーションの世界に対して批評とエールを送ることはとても大切なことだと思います。
今、被災地の人たちに訴える力を持つアニメーションを作るのは本当に難しいです。
現実を見て、活動を続けていってください!応援しています。

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