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        2010-05-01        イメージフォーラムフェスティバル2010 JQプログラム

今日もイメージフォーラムフェスティバルに行ってきました。楽しみにしていたプログラム2つです。

一つ目はバリー・ドゥペ『ポニーテール』。二~三年前のフェスで作品を観て、ゾワッとしたことがありました。(これです。)アニメーションの概念を拡張しようと日々努力するイギリスのanimate projectのホームページで観れる最新作『Whose Toes』も新鮮でした。『ポニーテール』はそんなドゥペの2008年制作の初長編。率直に言って、びっくりするほどに良かったです。ちょっとした衝撃が走りました。

バグッたようなCGによってぐちゃぐちゃになった登場人物たちのフォルム同様に、物語自体もきちんとした体をなしてはおらず、人々の名前は入れ替えられ、繰り返し探されるジェニファーという女性はついぞ見つかりません。最初から最後まで、とことん壊れたままのこの作品、しかし支離滅裂ではまったくなく、一貫するロジックに貫かれており、物語などは理解できないものの、何が語られているのかはわかります。

冒頭で鳴り響くカセットラジオが流す「遠くへ、遠くへ」と歌う歌。それぞれの人生に空虚を抱えた女たちは、水平線の彼方にある時間のとまった場所(ユートピア)をとにかく希求します。しかし冷静に考えてみると、彼女たちが囚われ、逃げ出したいと願う現実自体が、バグったCGの浮遊感覚に象徴されるように、すでに時間の流れを失った場所になっています。自分たちが希求する場所に、もうすでにいる女たち。彼女たちは繰り返し身体の中にある空虚を埋めようとしますが、求めている場所にすでにいて、そのことにさえ気付かない彼女たちの空虚が満たされることはありません。「ジェニファー」は決して見つからないのです。

一方で男たちはこの作品では常に群れて登場し、そうではない場合でも女性たちに依存しています。彼らはくだらないおしゃべりを積み重ねながら、その言葉の節々から感じられるのは、世界が彼らのために出来上がっているかのような錯覚を抱いてるということです。空虚さを嘆き埋めようとする女たちに対して、男たちは頻繁に中身を溢れさせます。(男性器と女性器のモチーフがその事態を端的に表しています。)

冒頭で歌われる歌は「火の玉のように、いや、ハトのように」遠くを目指す歌ですが、この作品では鳥が非常に重要なモチーフになっています。最も印象的なシーンのひとつ、浜辺の発砲のシーンでは、海の向こうへと飛んでいこうとするハトが、銃弾によって繰り返し撃ち落とされます。巻き戻して何度もやり直すのに、そのたびごとに撃ち落とされます。(本当に何度も何度も。)この世界の登場人物たちには、彼方へと辿り着くという夢を叶える可能性が残されていないかのように。

空虚で満ちたこの世界から逃げることができないこの世界の女たち・男たちは有限な存在です。しかし、それは彼らの話に留まりません。ラストに語られるナポレオンの寓話――色盲だったナポレオンは、流される血を見て植物が育っていると勘違いしていた――は、長々と続けられるこの物語と接続されることによって、人間そのものに備わっている有限性――誤解と推測なしでは世界を捉えられない――の告発へとつながっていきます。浜辺の人間はいつしか緑と赤の塊となり、繰り返し飛び立とうとした鳥は透明で不可視になり、しかしそれでも、銃(火の玉)によって撃ち落とされて血をほとばしらせます。不可視の可能性さえも潰してしまう事態。そういえば、ナポレオンの寓話に至る前、同じく浜辺の人物たちは、人間が有限性のなかでしか物事を考えられないことをまた異なる表現で語っていました。文章にはピリオドがあり、人体の先には頭があり、茎の先には花がある。つまり、人間にまつわるなにごとにも、endがある、ということです。(この映画では、登場人物たちはしばしば自分たちの行動の目的endを見失います。)それに対して、「宇宙は無限」。『ポニーテール』は明確に、有限であるがゆえに完全なフォルムを描くことなく崩壊してしまっているこの世界そのものにまつわる寓話であるように思えます。

とりあえずつらつらと言葉を並べてみましたが、一回しか観てないので間違ってるかもしれません。その可能性は高いです。でも東京会場では今日一回しか上映がないんですよ。残念なことに。

容易な理解と登場人物への一体化をはばむこの作品、アニメーションにどっぷりの人には逆にキツいかもしれません。観客に対して要求する距離感が違いますから。しかし、アニメーションにはこういう可能性もあっていいと思います。かなり重要な作家だと思います。

さて、メインイベントのハーツフェルトの上映もありました。思うことはたくさんあるのですが、ドゥペの件でもうすでに長くなってしまっているので、またの機会に。ただ、『三次元は休憩』『オヤシラズ』になぜか字幕がついていなかったこと、『なにもかも大丈夫』『あなたは私の誇りよ』の字幕が翻訳の強調ポイントを間違っていて、本来伝えるべきところを取りのがしていた箇所が多かったこと、ビデオ上映なので細部が潰れていて彼のペンや鉛筆の息づかいが伝わってこなかったこと(『人生の意味』では結構致命的です。ビデオ上映になってしまうこと事態は仕方ないのですが……)、そういったことは残念でした。『人生の意味』も、一箇所だけ字幕を入れないといけない箇所があるのですが、スルーされていました。まあ、どの作品も何十回も観ている人間の細かいこだわりですので、無視してください。

土居

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