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        2010-01-03        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(5):デイヴィット・オライリー「アイディアと物語、その3Dアニメーションへの適用」

 2009年のアニメーション・シーンの新星デイヴィッド・オライリーは、今回のLIAAでおそらく最も若い講演者だったろうが、彼はその若さという特権を最大限に活用するかのごとく、アニメーション界で無意識的に共有されている前提を疑いながら、制作に対する自らの信条をとにかく追求しつづける、早口でエネルギッシュなスピーチを展開した。(主催者側は今回のすべてのプログラムを録画しているのだが、オライリーは右へ左へと自在に動き回るので、カメラマンが非常に大変そうだった。)
 話の中心となるのは、Animations本ホームページにもアップした「アニメーション基礎美学」と被る内容だったが、実際に本人を目の前にして彼の話しぶりを目にしてみると、彼の興味関心の中心が一体どこにあるのかが浮き彫りとなっていた。それはこれに尽きる――人工的(アーティフィシャル)であることがアニメーションにおいて持つ未踏の豊かな可能性。
 かつては解剖学的に正確なヴィジュアルを好んでいたという彼は、池田亮司の音楽の影響から、一転、人工的な表現の追求を志向するようになったという。オライリーは基調講演でノルシュテインがコンピュータ・アニメーションが作り出す作品の魂のなさを指摘していたことをナイーブな見方だと批判し、コンピュータによって生成された「冷たい」イメージを用いたとしても、エモーショナルな作品は作りうると主張する。
 しかし、オライリーといえども、現実模写的な可能性にそれを見いだしているわけでもない。逆に、アナログ感を再現することに見いだすわけでもない。
 一般的に、アニメーションにおいては、人の手が入っているもの、人間的な温かみを案じさせるものが真正(オーセンティック)なものであるとみなされがちだと前置きをしたうえで、オライリーは、『プリーズ・セイ・サムシング』はそういった考え方への反抗だと語る。プレビュー用のレンダリングの画質で作られたこの作品が証明するのは、作品が真正でリアルな作品となる条件は、解剖学的にリアルであること(見た目がリアルであること)でも、人間の手が多く加わっていることでもなく、作品の内部の要素が互いにきちんと接続しあっていること(「アニメーション基礎美学」で「一貫性」とよばれているもののことだろう)である。それがあるからこそ、観客は作品世界に没入しうるし、作品と観客との間にはエモーショナルなやり取りが成立しうる。
 こんなふうな考えをバックグラウンドとして、オライリーは、『プリーズ・セイ・サムシング』という3DCGアニメーション作品においては、とにかく良い物語を語ることに重点を置く。アニメーションの魔術的な側面を強調するのでもなく、どんなふうに作られたのかという次元に注目させることでもなく(「粘土についた指紋を見るために観客は劇場に行くのではない」というようなことも言っていた)、物語を語り、そこに観客を引き込むために、一貫性を持って構築された世界を作り出す。(それによって、ラフな見た目であっても作品世界はリアリティを獲得する。)それは、3DCGアニメーションにおいて個人作家がなしうることについての、オライリーなりのひとつの回答である。
 彼の考えがかなり直接的に披露された今回の講演は、彼の作品の持つ何かしらの新しさの感覚がどこに端を発するかを少しばかりではあるが説明してくれるものであったようにも思われる。言葉を持つ短編アニメーション作家というのは今のところかなり少ない。しかし、オライリーはそれを持っている。しかも、彼の言葉は、曖昧で既視感に溢れたものになりがちな芸術家的な理念ではなく、かといって作品の貧弱さを隠すようなものでもなく、作品の豊かなバックグラウンドとなるような、実践に即したかたちでの理論を語る言葉だ。みなが優れた作品を観たときにモヤモヤと感じとることを、言葉というかたちにして語ることができる作家だ。それだからこそ、アニメーションに関わる者たちが無意識的に共有してしまうクリシェをひっくり返し、アニメーションに対する新たな考え方を芽生えさせる。
 この講演のなかで、オライリーは、『戦場でワルツを』に対する批判的なコメントをはっきりと語った。このドキュメンタリー・アニメーションについては、たとえば、アニメーション部分のアニメーションとしての貧弱さに対する批判はいろいろなところで耳にする。しかし、オライリーが語ったのは、それとはまた別の角度からのものだった。とある重要なシーンで実写映像を用いたことに対して、彼は「制作者たちは実写を用いないとドラマチックなものは作りえないと思っている。アニメーションの力を信じていない」というようなことを言うのである。
 個人的な意見を言わせてもらえば、『戦場でワルツを』の実写シーンはそれ自身としての根拠を持っている。(ハーツフェルトの近作が実写を用いるのと同じ使い方だ。)あれ以外のやり方はありえないと思う。オライリーの批判は、何ら根拠を持たない絵空事のようなものに思えてしまう。でも、なぜだか彼のこの言葉を聞いて、興奮を覚えてしまったのも確かである。この闇雲なまでに熱い男であれば、もしかしたらこれまで誰も用いることのなかったかたちでアニメーションを用いるやり方を発見し、途方もなくドラマチックななにものかを作り出してしまうのではないか、そんなほのかな期待感を感じてしまったのだ。少なくとも、LIAA全体で発せられた、最も勇気を与えられるコメントのひとつとして、深く心に残ったのは確かだ。

(続く:次回のエントリがLIAAレポートのラストです。)

土居

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