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        2009-12-26        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(4):プリート・パルン「物語の組み立て方――アイディアからシナリオまで」

 2008年の広島のフィンランド特集にて感じた違和感があった。絵のレベルに比べて、物語のレベルが異様に高いのである。普通、こういう絵を描く人たちはこんなに上手く物語を組み立てられない。テーマが陳腐であっても、何かしら「お」と思わせるものがあるのだ。そんな作品のエンド・クレジットをみてみると、「感謝」の欄には必ず「プリート・パルン」という名前があった。広島のパーティーにてそんな学生陣のひとりアミ・リンドホルム(The Irresistible Smile、The Year I Cut My Hair。特に後者は2008年最も印象に残った作品のひとつだった)と話したとき、パルンの教え方について、「とにかくアイディアを練る作業をたくさんさせられる」と彼女は言っていた。今年のアヌシーでも、エストニアからの学生二作品はどちらもレベルが高かった。ここには何か秘密があるに違いない。実際、LIAAでのパルンの講演は、ノルシュテインと好対照。ノルシュテインがあくまで実作に沿って具体性を失わないよう言葉を紡いでいくのに対し、パルンはとにかくスパリスパリと作品を切り裂き、抽象的なレベルでものを考えることを恐れない。
 プリート・パルンの教師としての経歴は非常に長い。フィンランド(タリンとヘルシンキは湖の対岸だ)の大学にて長年教鞭をとり、そしてここ数年は自ら設立に関わったエストニア美術大学のアニメーション学科にてウロ・ピッコフらとともに学生を教えている(エストニアの大学でのアニメーション教育については、ウロ・ピッコフのインタビューを参照のこと)。パルンの竹を割ったような教え方は、そんな彼の経歴に由来するものだとも思えたし、もしくは、パルンの作品それ自体がもつ奇妙さについても、もしかしたらこういう考え方からやってくるものなのかもしれないと思わされた。
 パルンの話は、アニメーション作品を作ったことがない学生にいかにして良い作品を作らせるかという問いからスタートする。彼が大きな問題として挙げるのは、学生が卒業制作作品を作るとして、脚本の作業が終わってから完成に至るまでに費やされる実作業の時間があまりに長いことである。その長期間の作業の間に、学生たちが自分の脚本に飽きてしまうという現象が起こってしまうのだ。ならばそれをどう解決するか。答えはシンプル。どれだけ時間が経っても飽きることがない面白いアイディアで面白い脚本を作ることである。(それゆえに講演のタイトルは「アイディアからシナリオまで」となっている。)
 そのためにはどうすればよいか。卒業制作までの時間が二年間だとして、パルンが自分の学生に、最初の一年はアニメーションを作らせないのだという。一年目で叩き込むのは、頭の使い方を覚えるためのエクササイズ。主な訓練方法は、カリカチュア(一コママンガ)を作ることだという。(パルン本人は「ワンフレームのアニメーション」「アニメーションなしのアニメーション」という言い方をしていた。)ルールと制限を設けて(完全なる自由を与えられると何もできなくなってしまうので)、とにかくアイディアを出させるらしい。また、発展形として、ワンショットのアイディアも出させるという。よく用いる問題例はこうだ。ある部屋に窓とテレビがある。最初は部屋の全景を映しているカメラを、テレビ以外がフレームアウトするくらいに画面いっぱいになるくらいまでズームインさせ、その後ズームアウトして全景に戻す。その間にフレームアウトしていた空間に操作を加え、驚きを与えることを目指させるのだという。この設定が優れているのは、窓とテレビという二つの「窓」の性質の違いだという。窓はそのフレーム内に存在できるものに制限があるのに対し(窓の外にあるものしか映せない)、テレビという「窓」は無制限である(放送内容によって何でも映せる)。ここに学生が創意工夫を働かせる余地が生まれてくるらしい。
 パルンは、優れた作品を作り出すためには二つの要素が必要だと語る。「制限付きの空想」と「数学的思考」(絶対的に論理的な冷たい思考)である。
 パルンによれば、空想とは作品を構成する(であろう)諸要素を結びつけ、化学反応を起こさせることだという。AとBという要素を用いるとして、単にA+Bにするのではなく、Cを生み出すこと。(この話を聞いたとき、パルン作品の多くが二つの異なる世界によって成り立っていることの理由がわかった気がした。)
 対して「数学的思考」は、そのアイディアをどう見せるのか、論理的・数学的に考えること。パルンは空想をいかにして観客に見せるかということを考えるためのツールとして、作品の時間の流れ(物語上の時間ではなく、観客が目撃する実際の時間)を一本の直線として考え、それを線分に分割することでシーンを組み立てていくことを推奨する。パルンの信じるところによれば、どんな作品であってもいくつかの要素に分けることができるので、それならば問題となるのはそれら諸要素をいかに組織化するかということなのであり、そのためには線分を用いる方法が優れているのだという。(たとえば作曲家などに作品のアイディアを説明するときも、このやり方だと伝わりやすいらしい。)
 講義の終盤では、その線分を用いて、パルンの実際の作品を分析する作業も行われた。材料となるのは、オランダ・アニメーション映画祭でプレミア上映されたばかりの新作Divers in the Rain(オリガ・パルンとの共同制作の二本目)。抽象的な次元で考えると、A(男)とB(女)が最初一緒に自宅におり、その後両者は別れ、AとBの世界が交互に展開される。両者は沈みゆく客船のシーンにおいて交差しそうになり、しかしそうならないままに、最終的にはまたAとBが一緒にいる自宅のシーンへと戻る。最初と最後はAとBが一緒にいるという点で共通するものの、意味あいは完全に違っている。ラストでは、AとBがそもそも一緒にいたのかどうかさえ、疑問に付される。その答えは観客一人一人に委ねられる。
 講義自体が、アニメーションに限らぬ映像作品一般について応用可能なものであった一方で、最後の質疑応答では、パルンのアニメーションに対する考えの一端が明らかにされた。なぜダイアローグ(言葉)のある作品が少ないのかという質問に対しては、アニメーションの映像自体に語らせることに重点を置いているからであり、言葉に頼ることによってアニメーションをイラストレーションにしたくないとパルンは答えた。学生にも、言葉なしの作品を作らせているらしい。(ただし、言葉を入れることによって作品がさらにパワフルになる場合があるので、パルン自身、そのルールに絶対的に従うわけではないという補足が、オリガ・パルンから入った。彼女は『1895』を念頭に置いているようだった。)
 アニメーションの独自性についてはもうひとつ興味深い発言があった。自分の作品に登場するのは、キャラクターではなく記号であるというものだ。パルンはロシアの記号学者ユーリー・ロトマンのアニメーションに関する議論に影響を受けており(邦訳あり)、実写の俳優を用いず記号を用いることこそが、アニメーションならではの強さにつながることを理解したようだ。(この点について、後日掲載のインタビューにて詳しく説明してくれている。また、最終日のギル・アルカベッツの講演でも同じテーマが語られた。)その点において、パルンは近年流行のアニメーションによるドキュメンタリーに懐疑的だ。アニメーション特有の力強さを消し、作品のヴィジュアルをイラストレーション化してしまうからである。
(続く)

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