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        2009-12-23        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(2):ノルシュテイン「アニメーションと詩」

 開会式の後、全体の基調講演として壇上に上がったのはユーリー・ノルシュテイン。抽象的な彼の言葉は多くの観客を混乱に陥れたようだったが、会議全体を見渡してみると、話題になった重要なトピックのすべてがそこに含まれてもいた。
 ノルシュテインはまず、「アニメーションと詩animation and poetry」という与えられたタイトルに疑義を挟む。これからの話で正しいのは、「詩としてのアニメーションanimation as poetry」だと言うのである。そうなると、彼がここで言う「詩」とは何か、という話になる。その結論を先取りして言ってしまえば、ノルシュテインの言う「詩」とは、「全体性や永遠を感覚させること」であるとまとめられるだろう。(その詳細については後述していこう。)「詩としてのアニメーション」と言いながらも、ノルシュテインはアニメーションの独自性を説くわけではない。これまでの多くの芸術ジャンルがそのような成果を挙げていったのと同じように、アニメーションがいかにして「詩」となりうるか、その話がこの講演では展開されたように思われる。
 ノルシュテインが具体的な議論の始まりとして選んだのは、2008年に出版した『草上の雪』という本のタイトルだった。彼にとって(ロシアでは)初の大著に、なぜこのフレーズを選んだか。それは、彼が10月に降る雪が好きだからだという。寒いモスクワであっても、10月に雪が降ることはあまりない。その珍しい10月の雪の何が素晴らしいかといえば、植物の緑が残っていることだという。まだ匂いを漂わせる草の上に、雪が降り積もる。ノルシュテインはスキーが好きらしく、雪が積もるとすぐに板を抱えて外に飛び出していく。しかし、10月の雪は気温も高いし量も少ないので、スキーをしているとすぐに溶けてしまうし、地面もぐちゃぐちゃになってしまう。しかし、その泥の感じ、そしてそこから漂ってくる草の匂いをノルシュテインは愛し、『草上の雪』という本は、その感覚を抱きつつ書かれたものだという。
 ノルシュテインがLIAAにて行った二回の講義は共に、「アニメーションはいかにして全体性・永遠の感覚を表現しうるか」ということをめぐるものだった。それは換言すれば、短編アニメーション作品がいかにして短編であるという小さな境界を破り、視覚的に具体的なイメージを提示せざるをえないアニメーションにおいてその具体性から逃れるか、ということであり、ノルシュテインにとって、そのために一つ重要なのが、こういった「個人的な」愛着・記憶のディテールを抱きつづけ、それを作品の内部に投入することなのだろう。
 そして、この講義で言われた、もう一つの重要性は、表現を切り詰め、シンプルにすることである。(『草上の雪』という本を読んでみればわかるのだけれども、)ノルシュテインはアニメーションを作るにあたって、他の芸術を参照することを厭わない。今回、本から彼が引いてきた実例は、レンブラントの『キリストの磔刑(ロシア語では『三つの磔刑)』の習作と完成版である。両者を比べると、完成版では画面向かって右側の磔が、闇に紛れて見えなくなっている。レンブラントは、作品を効果的なものにするために、画面を構成する可視的な要素をあえて消し去るという判断を下したのだ。
 このレンブラントの判断は、アニメーションの大勢に反することだとノルシュテインは言う。彼が例として引くのは、CGアニメーションの現実模倣の傾向だ。(このような一般化は後にデイヴィッド・オライリーの反論を招くことになる。)まるで写真で撮影したかのようなリアルさを追求する傾向は、このレンブラントの判断からは遠いとノルシュテインはいう。それはアニメーションを「詩」となることから遠ざける。ノルシュテインが言うには、アニメーションと実写映画は具体的なイメージを取り扱うがゆえに、リアリティを追求する際には注意しなければならない。(ここでいう「具体的」とは、文学との関わりで考えればわかりやすい。文学において「椅子」と書かれたとき、その椅子の視覚的イメージは観客の想像に任せられる。その一方で、実写映画やアニメーションにおける「椅子」は、視覚的イメージを「具体的に」規定する。)光学的に記録されたものを模すことは、単に「表面」を模倣することでしかない。一方、アニメーションが「詩」となるためには、「魂」を失ってはならない。大事なのは、「表面」を達者にすることではなく、内的に「生きた」感覚を持ったイメージを作り出すことである。
 そして、繰り返しになるが、作品が「魂」となり「生きる」ためには、個人的な人生から採られたディテールとシンプルさ(非フォトリアル)が必要なのだ。作品が「表面」であることから逃れ、「生きた」ものとなったとき、そこに表現されるもの(観客が感じとるもの)は何かといえば、「全体性」であり「永遠」の感覚であるとノルシュテインは言う。短編アニメーションという制限されたメディアが、いかにして「全体」であり「永遠」になりうるか。いかにして作品の内部に描かれたものそれ自体から解き放たれ、より大きな世界を現出させるか。具体性(モノの世界)に端を発し、抽象的な世界(ノルシュテインは「メタファー」という言葉を使っている)へと解き放たれるか。もちろんここでいう「抽象的な世界」とは現実とは関係のない世界(フィッシンガーのアニメーションのような抽象性)のことではなく、逆に現実から出発して、「全体」であり「永遠」の一部としても捉えることのできるような抽象性のことだ。ノルシュテインにとって「草の上に降り積もる雪」は単に「草の上に降り積もる雪」ではない。彼にとってそれは「全体」であり「永遠性」へとつながっていく、抽象性を含んだ具体性である。
 「全体性」「永遠性」を描写するために、作家の実体験と結びついたディテールをシンプルさのうちに展開することを掲げるノルシュテインにとって、子どもの絵は理想の芸術である。彼は子どもの絵の重要性をさまざまな場所で述べ、『話の話』における「永遠」においてその原理を利用してもいる。ノルシュテインは、子どもの絵とは、彼ら彼女らにとっての「世界全体」であり「人生の意味」そのものであると考える。子どもが描く一本の線はただ単に一本の線であるというわけではなく、白い紙の上に一本の横線が引かれたとすれば、その一本の横線それだけで、線は地平線となり、上下の空白は空と地面とになる。かくして、一本の線によって世界のすべてがそこに現出するのだ。現実のリテラルな模倣から逃れ、シンプルさ(とそこへの意味の凝縮)へと向かうことにより、アニメーションは世界そのもの・人生そのものとダイレクトにつながっていく。(より正確にいえば、全体性・永遠の感覚を観客に喚起する。)フォトリアルではなく、抽象性へと広がっていくような具体的なイメージを描き出すことができたとき、アニメーションもまた「詩」となるのである。
 あまりに抽象的な議論の展開に少なからずの人が困惑を覚えたようだが、(繰り返しになってしまうけれども、)ノルシュテインが語っていたのは、アニメーションがいかにして「詩」になるか、つまり短編アニメーションという制限されたメディアがいかにしてスケール感を獲得するかということについての、極めて実践的な方法論なのである。
 アニメーションのこの「抽象性」については、他の作家たちの講義においてもたびたび議論の俎上に上がることとなる。(続く)

(注:まとめかたや言葉が粗いですが、ご勘弁を。このような話をきちんと伝えるのは非常に難しいです。感覚的に読まれることをおすすめします。)

土居

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