2009-12-15
ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(1)
(土居からの注:Animations本ホームページにアップする前に、草稿段階のものをレポートとして載せていきます。)
ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミーの第一回大会が2009年12月7日から11日までの四日間、ルツェルン市内の観光名所のひとつであるブルバキ・パノラマ館に併設されたシネコン型映画館ブルバキノの数スクリーンを会場として行われた。ルツェルンはスイス中部に位置するドイツ語圏の街で、スイスの主要都市チューリヒからは列車で一時間弱。街は市内中央に位置するルツェルン湖とロイス川を境として旧市街と新市街地に別れているが、規模自体はそれほど大きなものではなく、その気になれば数時間で主要なスポットを回ることができる。
ブルバキ・パノラマ館は旧市街側の北東部に位置し、そばには有名な「瀕死のライオン像」と氷河公園がある。映画館自体はとても新しく、地下一階に4つのスクリーンがある。同じ建物の一階にはカフェ・バーは夜になれば大勢の若者でごった返す。一角を借りてパーティーも頻繁に行われている。(スイス人は異様にパーティーが好きらしく、夜になれば街路に人影は消え、そのかわりに街中のバーが人でごった返す。)
この国際会議は、短編アニメーションにテーマを絞った、世界でも珍しいもので(唯一かもしれない)、しかし、いわゆる「作品」としての短編だけではなく、CMなどの依頼作品やゲーム映像のアニメーションなどまで幅広く含む。しかしアニメーション関連の国際会議としては珍しく、ディズニー関連の発表であったり、「アニメ」についての発表はない。
なぜこのルツェルンで、なぜ短編アニメーションに絞るのか? ルツェルンといえば、アニメーションを学べるスイス有数のデザイン学科があるルツェルン・ユニバーシティ・オブ・アプライド・サイエンス・アンド・アーツの本拠地であり、その世界の学生コンペを見渡してみても、シーンをそこそこ賑わしているような作品・作家の名前が散見される。なによりここで教授を勤めるオットー・アルダーは、ファントーシュを初めとして、フェスティバル仕掛人として名を馳せている人物であり、彼による新たな意義深い仕掛けが、このLIAAであると言えるのかもしれない。(アルダーは作家でもあり、研究者でもある。彼はフョードル・ヒトルークについてのドキュメンタリー、『スピリット・オブ・ジーニアス』の監督もしている。)
この国際会議は表向き、アニメーションについての議論を深めることを目的としているが、その裏には非常に切実かつ切迫したモチベーションもある。今回のテーマは、アニメーションにおけるドラマツルギー。換言すれば、短編アニメーションをどう組み立てるか、そして短編アニメーションでどのように語るか。なぜこのテーマが設定されたか? 開会式でのオットー・アルダーの言葉によれば、この国際会議は教育上の必要性に駆られて開催が決意されたものであったという。つまり、アニメーションをいかにして教えるか。裏を返せば、アニメーションをどう語るか、伝えるか。(大スタジオ亡きがほぼ全滅してしまった今、アニメーションの伝統を伝えるのはどこかといえば、学校以外にはありえないだろう。)
この国際会議のプログラムは、三本の柱でできあがっている。一つは作り手。一つは研究者。そしてもう一つは、世界各地のアニメーション学校のプレゼンテーション。スイスへと出発する前、個人的には、三つ目の柱の存在意義がよくわからなかった。しかし、実際にこの場に来てみて、アルダーをはじめとした主要なメンツの言葉を探ってみれば、この国際会議においてはこの三つが共存することが大事なのだということがわかる。この国際会議は、いかにしてアニメーション教育を成立させるのか、というモチベーションに貫かれたものなのである。ここには、短編アニメーションならではの状況が見えてくる。作り手も研究者も、現在、みなアニメーションを教えることがその中心的な活動のひとつとなっている(ならざるをえない)、ということだ。そして、アニメーションをいかにして教えるかというのは、日本に限らず世界中の学校で常に試行錯誤が繰り返されている非常に切実なトピックなのだ。閉会式でのジェーン・ピリング――彼女はアニメーション研究の分野において非常に貴重な仕事をしている先駆者の一人で、Animations Studiesという学術雑誌、そしてBritish Animation AwardsのDVD、特にDesire and Sexualityのシリーズを編纂していたのが彼女だといえば、その重要性はよくわかるだろう――の言葉は、その問題の切実さを最も率直に述べていた。「アニメーションを学ぶ学生にとって、彼ら/彼女らが卒業後に生きていくための唯一のプロモーション材料は、自分の短編アニメーション作品だけなのです。」この言葉が切実さのほとんどすべてを物語っている。
(ここは強く言っておきたいのだが、そのような催しに、アニメーションを学ぶこれだけたくさんの場所がある日本という国――つまり、責任を持つべき卒業生の数が諸外国に比べても非常に多い――からの参加者が自分を含めてたった二人――もう一人は、ASIFAの会長であり広島国際アニメーションフェスティバルのフェスティバル・ディレクターである木下小夜子――しかいなかったことに、個人的には強く疑念を抱いた。発表者を見渡してみれば、短編アニメーションという分野に関して、作り手も研究者も学校も、一流のメンツが揃っているのは間違いがないように思えるのに。最終日の「ルツェルン・ストーリー」と題された「アニメーションの教え方」についてのプレゼンテーションとその後の質疑応答で交わされた熱い議論を聞いて、その気持ちはさらに高まった。)
さらに、表立っては言われていないものの、参加者のなかのパッションとして共有されているテーマもあったように思われる。それが何かと言えば、アニメーションはいかに「負け犬」としての芸術から抜け出せるか、ということだ。(「負け犬」とは、数人の参加者の口から実際に聞いた言葉だ。)以前Animationsに掲載したクリス・ロビンソンのインタビューの発言を引けば、「芸術的なアニメーションというのは、非常に不思議な領域に属していると思うんですね。一般の人にとっては、芸術的すぎる。芸術家のコミュニティの人たちは、アニメーションを見下しているところがある」。一般人そして芸術の分野に携わる人々が抱くアニメーションに対してのイメージと、その実体の乖離。それが引き起こす数々のジレンマ。この会場にいる参加者以上に、この苦しみを知り尽くしている人たちはいない。その苦しみから抜け出すためには何が必要なのか。それは、言葉にすること。言葉にすることで、アピールすること。それ以外にはない。
このイベントは、アニメーション関連の国際的な催しにしては本当に珍しいことに(国際会議なのだから当たり前なのだが)、ほぼすべてがプレゼンテーションによって成り立っている。しかも、朝9時から夜0時近くまで。とにかく、ことば、ことば、ことば……(そういえば、この会議で最も多く言及された作家の一人がミカエラ・パブラートヴァだった。彼女の作品が「短編中の短編」であるという認識が世界的に共有されていることを知れたことも個人的には一つの収穫だった。)アニメーションについてよく言われることに、「言葉がないから国境を超える」ということがある。しかし一方で、なぜ諷刺画というものが発達したかといえば、「それがある一定の人々(権力者)にとっては読み取れないから」でもある。グラフィックというものは実は非常に曖昧なのだ。それに対して、言葉はそのコードさえ理解されてしまえば、万人へと伝わる真に普遍的である。それならば、そのツールを使って、ここから短編アニメーションの存在意義を、広く知らしめなければならない。この国際会議は、これまで「ナイーブ」だった短編アニメーションの世界が言葉の世界と手を結んだという意味でも、非常にエポックメイキングな瞬間だったように思われる。
それでは、この国際会議においていかなる言葉が交わされていったのか? 特に作り手側から、一般的な「トークショー」とは違ったかたちの体系的なプレゼンテーションという提示され、発せられていった言葉は、アニメーションというものに対してこれまで決してなされることのなかったものばかりであり、それが証明するのは、アニメーションが、未発達かつ未探求の分野であるがゆえに、今、最もエキサイティングなメディアである、ということだった。
(続く:次回は具体的な発表の内容をレポートしていきます。)
土居
ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミーの第一回大会が2009年12月7日から11日までの四日間、ルツェルン市内の観光名所のひとつであるブルバキ・パノラマ館に併設されたシネコン型映画館ブルバキノの数スクリーンを会場として行われた。ルツェルンはスイス中部に位置するドイツ語圏の街で、スイスの主要都市チューリヒからは列車で一時間弱。街は市内中央に位置するルツェルン湖とロイス川を境として旧市街と新市街地に別れているが、規模自体はそれほど大きなものではなく、その気になれば数時間で主要なスポットを回ることができる。
ブルバキ・パノラマ館は旧市街側の北東部に位置し、そばには有名な「瀕死のライオン像」と氷河公園がある。映画館自体はとても新しく、地下一階に4つのスクリーンがある。同じ建物の一階にはカフェ・バーは夜になれば大勢の若者でごった返す。一角を借りてパーティーも頻繁に行われている。(スイス人は異様にパーティーが好きらしく、夜になれば街路に人影は消え、そのかわりに街中のバーが人でごった返す。)
この国際会議は、短編アニメーションにテーマを絞った、世界でも珍しいもので(唯一かもしれない)、しかし、いわゆる「作品」としての短編だけではなく、CMなどの依頼作品やゲーム映像のアニメーションなどまで幅広く含む。しかしアニメーション関連の国際会議としては珍しく、ディズニー関連の発表であったり、「アニメ」についての発表はない。
なぜこのルツェルンで、なぜ短編アニメーションに絞るのか? ルツェルンといえば、アニメーションを学べるスイス有数のデザイン学科があるルツェルン・ユニバーシティ・オブ・アプライド・サイエンス・アンド・アーツの本拠地であり、その世界の学生コンペを見渡してみても、シーンをそこそこ賑わしているような作品・作家の名前が散見される。なによりここで教授を勤めるオットー・アルダーは、ファントーシュを初めとして、フェスティバル仕掛人として名を馳せている人物であり、彼による新たな意義深い仕掛けが、このLIAAであると言えるのかもしれない。(アルダーは作家でもあり、研究者でもある。彼はフョードル・ヒトルークについてのドキュメンタリー、『スピリット・オブ・ジーニアス』の監督もしている。)
この国際会議は表向き、アニメーションについての議論を深めることを目的としているが、その裏には非常に切実かつ切迫したモチベーションもある。今回のテーマは、アニメーションにおけるドラマツルギー。換言すれば、短編アニメーションをどう組み立てるか、そして短編アニメーションでどのように語るか。なぜこのテーマが設定されたか? 開会式でのオットー・アルダーの言葉によれば、この国際会議は教育上の必要性に駆られて開催が決意されたものであったという。つまり、アニメーションをいかにして教えるか。裏を返せば、アニメーションをどう語るか、伝えるか。(大スタジオ亡きがほぼ全滅してしまった今、アニメーションの伝統を伝えるのはどこかといえば、学校以外にはありえないだろう。)
この国際会議のプログラムは、三本の柱でできあがっている。一つは作り手。一つは研究者。そしてもう一つは、世界各地のアニメーション学校のプレゼンテーション。スイスへと出発する前、個人的には、三つ目の柱の存在意義がよくわからなかった。しかし、実際にこの場に来てみて、アルダーをはじめとした主要なメンツの言葉を探ってみれば、この国際会議においてはこの三つが共存することが大事なのだということがわかる。この国際会議は、いかにしてアニメーション教育を成立させるのか、というモチベーションに貫かれたものなのである。ここには、短編アニメーションならではの状況が見えてくる。作り手も研究者も、現在、みなアニメーションを教えることがその中心的な活動のひとつとなっている(ならざるをえない)、ということだ。そして、アニメーションをいかにして教えるかというのは、日本に限らず世界中の学校で常に試行錯誤が繰り返されている非常に切実なトピックなのだ。閉会式でのジェーン・ピリング――彼女はアニメーション研究の分野において非常に貴重な仕事をしている先駆者の一人で、Animations Studiesという学術雑誌、そしてBritish Animation AwardsのDVD、特にDesire and Sexualityのシリーズを編纂していたのが彼女だといえば、その重要性はよくわかるだろう――の言葉は、その問題の切実さを最も率直に述べていた。「アニメーションを学ぶ学生にとって、彼ら/彼女らが卒業後に生きていくための唯一のプロモーション材料は、自分の短編アニメーション作品だけなのです。」この言葉が切実さのほとんどすべてを物語っている。
(ここは強く言っておきたいのだが、そのような催しに、アニメーションを学ぶこれだけたくさんの場所がある日本という国――つまり、責任を持つべき卒業生の数が諸外国に比べても非常に多い――からの参加者が自分を含めてたった二人――もう一人は、ASIFAの会長であり広島国際アニメーションフェスティバルのフェスティバル・ディレクターである木下小夜子――しかいなかったことに、個人的には強く疑念を抱いた。発表者を見渡してみれば、短編アニメーションという分野に関して、作り手も研究者も学校も、一流のメンツが揃っているのは間違いがないように思えるのに。最終日の「ルツェルン・ストーリー」と題された「アニメーションの教え方」についてのプレゼンテーションとその後の質疑応答で交わされた熱い議論を聞いて、その気持ちはさらに高まった。)
さらに、表立っては言われていないものの、参加者のなかのパッションとして共有されているテーマもあったように思われる。それが何かと言えば、アニメーションはいかに「負け犬」としての芸術から抜け出せるか、ということだ。(「負け犬」とは、数人の参加者の口から実際に聞いた言葉だ。)以前Animationsに掲載したクリス・ロビンソンのインタビューの発言を引けば、「芸術的なアニメーションというのは、非常に不思議な領域に属していると思うんですね。一般の人にとっては、芸術的すぎる。芸術家のコミュニティの人たちは、アニメーションを見下しているところがある」。一般人そして芸術の分野に携わる人々が抱くアニメーションに対してのイメージと、その実体の乖離。それが引き起こす数々のジレンマ。この会場にいる参加者以上に、この苦しみを知り尽くしている人たちはいない。その苦しみから抜け出すためには何が必要なのか。それは、言葉にすること。言葉にすることで、アピールすること。それ以外にはない。
このイベントは、アニメーション関連の国際的な催しにしては本当に珍しいことに(国際会議なのだから当たり前なのだが)、ほぼすべてがプレゼンテーションによって成り立っている。しかも、朝9時から夜0時近くまで。とにかく、ことば、ことば、ことば……(そういえば、この会議で最も多く言及された作家の一人がミカエラ・パブラートヴァだった。彼女の作品が「短編中の短編」であるという認識が世界的に共有されていることを知れたことも個人的には一つの収穫だった。)アニメーションについてよく言われることに、「言葉がないから国境を超える」ということがある。しかし一方で、なぜ諷刺画というものが発達したかといえば、「それがある一定の人々(権力者)にとっては読み取れないから」でもある。グラフィックというものは実は非常に曖昧なのだ。それに対して、言葉はそのコードさえ理解されてしまえば、万人へと伝わる真に普遍的である。それならば、そのツールを使って、ここから短編アニメーションの存在意義を、広く知らしめなければならない。この国際会議は、これまで「ナイーブ」だった短編アニメーションの世界が言葉の世界と手を結んだという意味でも、非常にエポックメイキングな瞬間だったように思われる。
それでは、この国際会議においていかなる言葉が交わされていったのか? 特に作り手側から、一般的な「トークショー」とは違ったかたちの体系的なプレゼンテーションという提示され、発せられていった言葉は、アニメーションというものに対してこれまで決してなされることのなかったものばかりであり、それが証明するのは、アニメーションが、未発達かつ未探求の分野であるがゆえに、今、最もエキサイティングなメディアである、ということだった。
(続く:次回は具体的な発表の内容をレポートしていきます。)
土居
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