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        2009-09-14        2008-2009に目立つものについて事後的に、そしてICAFについても少々

2008年から2009年にかけて制作された作品で、僕の心にガシッと刻まれたものの特徴について考えてみました。時代の流れに完全に身を委ねるのではなく、その流れに少しでも棹さすようなものです。キーワードは2つ、シンプルさの復権(あえて制限を設けること)と断片性です。

今年僕が熱をこめて書いたことがある作品は、Please Say Something(David O'reiley)、『HAND SOAP』(大山慶)、I'm so proud of you(Don Hertzfeldt)です。そこにさらに、たくさん書いてはいなけれど印象深いものはDialogos(Ulo Pikkov)とMadagascar, Carnet de Voyage(Bastien Dubois)と挙げられます。どれも単線的な語りを採用していません。すべての作品が小エピソードに分割されたものの集積です。Madagascarはスケッチブックの体裁をとっているので別ですが、その他の作品については、作品の全体像の想起が観客に委ねられます。

シンプルさへの回帰という点でいえば、Please Say Something, I'm so proud of you, Dialogosが挙げられます。作家自身が、自らに制限を加えたことを明言しています。

僕のなかでは両者は共通しています。「メタファー」としてのアニメーションの性質を再発見しているということです。想像や妄想をリテラルに映像化することで、実際には平凡な実写と同じものとなってしまっているように思える大多数の作品は、最近の僕の気分から言えば、アニメーションらしいアニメーションであるとは感じられません。(その方向性の究極が、もはやアニメーションであるかどうかは問題にならない『ウォーリー』です。その真逆が、『ポムネンカ』です。)インクがインクとしてそして同時にインクとしてだけではなく、エンピツの線がエンピツの線としてそして同時にエンピツの線としてだけではなく、「メタファー」として変容する契機を滾らせている作品。(ノルシュテイン氏や山村浩二さんがよく「メタファー」という話をしています。)そんな錯覚を観客の方に創造的に喚起させる作品に、僕はどうもビンビンに感じてしまうようです。
それはさらに飛躍して、外部へと無限に開かれたアニメーションというあり方でもあるように思えます。(広島コンペレビューのときにDialogosについて書いたことを参照してください。作品はきちんとそれ自身で世界を構築する。しかし、その構築された世界をつうじて、その外部の世界の知覚が無限に広がっていく、「突き抜ける」作品です。)

仮説ですが、現代的なアニメーションとして肯定されるべきなのは、外部へと作品自体がそして観客が開かれていくような作品なんじゃないかと思っています。

抽象的な話で申し訳ないですが、感覚的にでもわかっていただければ幸いです。

(ドキュメンタリー・アニメーションの話や、ブラックなリズムが基礎となる身体性の喚起が強い作品の話は以前しましたので今日は割愛です。)

こういった観点からすると、やはりICAFで上映された作品の大多数は、圧倒的に閉じていると思います。(日曜日のプログラムしか観れていないので、それだけで判断した話です。すいません。)アニメーションであることに流されていると思います。学生作品なんだから別にいいんですけど、やはり少々悲しい気がします。今日なんか300人近くお客さんが入っていたというのに、なんだかもったいないです。
土曜日のシンポジウムで吉良敬三さんがおっしゃっていた、「世界とまろやかな関係性を結んでいる作品が多い気がした」という言葉が思い出されます。確かに、そんな関係性を結べるのであればそれ以上に嬉しいことはないでしょう。でも、突き詰めて考えてみれば、世界との間に齟齬が起きざるをえないのが本当のところなのではないでしょうか。(ハンター・トンプソンのエッセイ集で、「息子が窓ガラスを割って困る」という相談を受けたトンプソンが、「窓ガラスでも割らないとやってられない世の中なんだから至極正常」というような返答をしていたことを思い出します。)

若い人による、戦うアニメーションがもっと観たいものです。
(60を超えたパルンが『ガブリエラ』でいまだに継続していることをみせてくれたものです。)

そんな話をしつつ、今日のICAFで印象に残った作品についていくつか挙げておきます。どれもなんらかのかたちで葛藤の痕跡を残しているものばかりです。

多摩美でいえば、『アニマルダンス』(大川原亮)は、『オーケストラ』の「お」三人組の一人の卒業制作ですが、これまでデジスタやYou Tubeで観たのと今回とではかなり印象が違いました。画面へと視線(そして視線を通じた身体)をググッと引きつけていく強度を持っています。観客は必然的に、生命の持つリズムや強度を作品と一緒に共有していくことになるでしょう。作者の方の過去の作品をつい最近観させていただく機会があったのですが、実に様々な過去のアニメーションの巨匠の作品が持つ感覚を吸収していることに驚きました。あ、これはあの人だ、あ、今度はこの人だ、というのを感じるのです。しかしこれは一寸たりとも悪口ではありません。元ネタ発見でもありません。自分の声を発するために、アニメーションの過去の遺産・スタイルを飲み込んでいく、そんなプロセスを感じることができるということです。もう一段階進化したとき、一体何が生まれるのか楽しみです。もしかしたら、山村浩二さんの正統な嫡出子は彼なのかもしれません。あくまで予感ですが。

ムサビは全体的に水準が高かったです。『Pencil』(牛腸卓人)や『80's ガール』(獄野甲子郎)の割り切り方には感心させられましたし、『目覚め』(徳井伸哉)と『アトミック・ワールド』(今津良樹)の質感は未知のものでした。(ただ、後者二作に関しては、素晴らしい冒頭以降は非常に説明的になって作品のもつ勢いが死んでいたのが残念なところです。)

東京造形大学は、アニメーションで表現するということに対して意識的な作品が多かったように思います。つまり、アニメーションというメディアとの葛藤です。初期アニメーションのせっかちさと慌ただしさを現代に蘇らせた『パーフェクトチャンス』(北澤知世)やアニメーションを「絵」として割り切って魅せる『河井ゆう美』(河井ゆう美)もなかなかよかったですが、お見事だと思ったのは『はらぺこねこねこ』(関根冬威・八木貴也)でした。一見、単なる歌ものギャグに思えるのですが、アニメーションだけではなく止め絵で効果的にみせる術をきちんと心得ていて、カット割りや反復と非反復、裏切りを交えた展開も見事。質の高いエンターテインメント作品が今後また生まれてくる予感を感じました。変な話ですが、『ポムネンカ』を観たとき同様の、アニメーションのメタファー力のようなものをビンビンと感じました。アニメーションをみたなあ、と。ラストの「八時だよ全員集合」的破壊のせいかもしれません。

工芸でいえば、『向ヶ丘千里はただ見つめていたのであった』(植草航)については以前書きましたが、これは非常に青春だと改めて思った次第です。冒頭とラストに凝縮される躁鬱ハイロー感はとてもゴージャスに「アニメーション」しています。流れゆく時間への抵抗です。最終的には負けてしまうんですが、それでいいんです。

原石や進行中のプロセスを発見できたとき、ICAFは非常に面白いです。

土居

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