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        2009-08-25        日常の賢人――大山慶『HAND SOAP』

雪の降る冬の日に目覚めたときの空気感。いつもとなにかが違うあの感覚は、毎日生きているので飽きてしまったのか、いつの間にかその存在を忘れてしまう本当の生というものの姿を思い出させる。慣れ親しんでいるものにあまりに慣れ親しみすぎて、もしくは慣れ親しみたくなくて忘れていたものの存在を思い出させる契機になる。気付かなくても本当は問題ないはずのものに、もう一度、気付かせる。

親しんでいるのに忘れるもの。たとえば、冬のカサカサの肌はちぎれるように痛み、その下にじくじくとした血をにじませることを思い出す。そのなんとも言いようのない質感。乾いていて、そして湿っている。投げつけられたカエルの死体がこびりつかせる血は内臓を含んで赤なのか黒なのかわからない。それから、ニキビから出てくる膿。『ゆきちゃん』のような絶対的で美しくさえあるような死ではなく、生のだらしのない残骸であることをやめてくれない死としての膿。決して純粋ではなく、どろりとした粘液の存在感。すぐさまティッシュで拭き取ってしまいたくなってしまうようなこんな厄介な液体たちのドロドロ感。ハンドソープというタイトルはそんな質感によく似合う。けだるくてだらしのない、贅肉としての生のあり方。

『HAND SOAP』の中心となる家族もまただらしがない。いくつかのシーンはコヴァリョフの『ミルク』を思い出させもするが、『HAND SOAP』では、あれほど(あれよりもさらに!)劇的なことは起こらない。不倫などというのは『HAND SOAP』の父親にとっては夢物語でありあまりにリアリティがないので妻の大きなホクロを舐める。娘はつながらない(つなげられない)電話の存在を保留にしながら両親のセックスをみつめる(自分と彼が結ばれるなんて夢物語だから)。少年はAVを観て女子高生の太ももを夢見るだけ(彼は何かを夢物語と思うところにさえ辿り着いていない)。

『HAND SOAP』が描き出すのは、あまりにも見慣れてしまった散文的な世界。『HAND SOAP』がだらしないのはこの世界がだらしないから。『HAND SOAP』が汚らしいのはこの世界が汚らしいから。『HAND SOAP』が息苦しいのはこの世界が息苦しいから。『HAND SOAP』が得体のしれないものなのはこの世界が得体が知れないから。『HAND SOAP』が情けなくて同時に思わず笑ってしまうようなものなのは、この世界が情けなくて同時に思わず笑ってしまうようなものだから。『HAND SOAP』はこの世界のトートロジー。ちっとも形而上学的でなく、そこにある世界。普段自分たちが生きていると思い込んでいる世界のニセの表皮をべらりとめくり、自分たちが本当に生きている世界を見いださせる。そんな世界に生きていることをすっかり忘れてしまっていた世界だ。雪が世界を少しだけ変えることで気付く世界。

『ゆきどけ』の冒頭で少年が窓の外を懸命に見つめていた姿が象徴するように、大山慶は凝視する作家だ。決して俯瞰などはせず、近視眼的に見つめつづける。だから忘れていたり気付かないようになってしまったものに再びフォーカスがあてられる。しかしだからといって、彼に気付かれた世界が彼によって了解されているかといえばそれはまた別のお話。本当に生きている世界を見いだしたところで、それが了解できるかといえば、できないのだ。『HAND SOAP』のイジメられっ子の少年にとって世界はわからないことが多すぎる。あまりに多すぎて、わからないのかどうかさえわからない(もしくは気付いていない)。うじむしのような自分の性器もよくわからない。そこを中心になにかよくわからない力が自分を翻弄するのも感じてしまう。笑ったところでカエルはずっと投げつけられつづける。アイドルが歌う曲は、耳をホワホワして聴くと変に聞こえる。だから何というわけではないが。彼にとって響く世界だけでホワホワとする。それが耳にこびりつき、眠りに落ちる少年の夢と覚醒のはざまで、○○○の○○○として再び蘇る。それは彼にとって充分にリアルな世界。(そういえば、誰かにとっての散文的な世界の表現は、現代アニメーションにとって重要なトピックのひとつだった。)

主人公の少年は、かっこよくなくて、いじめられたりするような人間だけれども、彼はそれゆえに、この世界が自分の思い通りにならないものであることを知っている。この世界が自分のために存在しているのではないことを知っているのだ。つまり彼は賢人だ。『ゆきどけ』の最初と『HAND SOAP』の最後はともに窓の外を眺めるが、それは、この少年たちは、自分があくまで世界の断片であることを無意識的に知っているからだ。性であったり生の残骸のような死であったりいじめっ子であったり、理解することのできないそんな諸力が外から自分の世界に襲いかかってくることをわかっているからだ。

自分が起きようが眠ろうが関係なく降り注いでいる雪。それが感じさせるあの寒い日の絶対的な感覚は、世界自体がもつ掴みきれない手触りを持っている。人によってはそれは恐怖である。しかし『HAND SOAP』の少年は、そんな外の世界を眺めて微笑む。掴めないことなんてとっくに知っているから。自分の外に世界があるなんてとっくに知っているから。『ゆきどけ』の少年はよくわからない世界に襲われて叫び出したが、今はもうそうではない。『HAND SOAP』の少年は、自分の外に世界があること、そして自分の内側にもだらしがなくて厄介な生があることを知っている。そこにあるものをそこにあるものとして見つめている。ラストの少年の微笑みは、この世界のなんたるかをわかっている(そして同時に了解はできていない)賢人の笑みに近い。彼が微笑むその表情自体は正直ムカッとくる。でも同時に納得したりカタルシスさえ感じてしまうのは、僕らもまたみな、こんな世界に生きていることを、この少年と同様に知っていて、彼のように誰もみていないところで微笑むことがあるからだ。

微笑む彼が見つめる主観ショットは、大山慶史上最も壮大なショット。しかし結局、神の視点までは辿り着くことがないほどのもの。でも、それだけで充分に広い。それは彼にとっての世界全体だから。その世界全体で、差別という概念を知らない雪はあらゆるものに無差別に降り注ぐ。ゆきどけによって溶けて剥き出しになったものを再び覆い隠す。でももう問題はない。きれいな世界に生きたがる僕たちはきっとまただらしがなくて厄介な生の姿を忘れてコーティングするだろう。でも、その姿についてもう充分に思い出し、知っている。おそらく、『HAND SOAP』は大山慶という作家のひとつのサイクルを閉じるような作品だろう。雪が溶けたりまた降り始めたりする、そんな円環。ぐるりとひとまわりすれば、スタートとゴールは同じ位置だけど、以前とはもう違う。その道行きで出くわすものすべてを知っている。

ASK映像祭2009「Dプログラム 最新の実験映像セレクション」にて上映中(8/24-26)。

土居

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