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        2009-02-09        オタワプログラムはどのように素晴らしかったのか?

あとできちんと書く、といっていたオタワプログラムの魅力について、簡単に記しておきます。

キーワードとなるのは情動、つまりエモーションなのだと思います。
もっと簡潔に言えば、肉体的な喚起の力です。
"The Heart is a Metronome"や"The Traveller"といった作品に感じた、ゾクりとするような異質なリズム。
あれは、どうも最近の多くのアニメーションとは、身体の違う場所で反応してしまっている気がしました。
オタワのプログラムを観て、その正体がわかりました。
身体に効くんです。心も身体も丸ごともっていかれる感触です。
(アヌシーにはそのような作品は一本もなかったです。)
ロック("A Letter to Colleen")やダンス音楽("Sponge Ice")が使われているということが一つの理由にはなると思います。
それ以外にも、手触り感やコラージュ感に優れた作品が多かった。
フィルムに直接インクをベトベトと塗っていったり("Sponge Ice")、パンパンベタベタと貼付けていったり("The Mixy Tapes")。"I Slept with Cookie Monster"の自由奔放な質感。
優れたモンタージュ技術を見せていた"Cattle Call"もまた、貼付けの歓喜を感じさせました。
広島のレビューの際に、突き抜ける力を持った作品としてレビューしたウロ・ピッコフの"Dialogos"(ラピュタでやりますね)。これは残念ながらオタワのプログラムには入ってないですけど(審査員特別賞をもらっています)、フィルム・スクラッチでした。
ほんとに、突き抜けている作品ばかりです。

こういった作品は、単に「スタイル」として古き良き手法に回帰しているのではないと僕は思います。
単なる勘違いかもしれませんが、作家自身が自らの身体性を取り戻そうとしているかのよう。
極端なことをいえば、拡散し惰性に流され何も考えないままになんとなく日々を過ごして気付いたら取り返しのつかないことになってしまう現代の眠りに落ちた慣性的・意識への抵抗です。

アーケード・ファイアという僕の好きなカナダのバンドがあります。
彼らの曲は非常にエモーショナルです。まさしく身体ごと持っていかれる感覚がある。
音楽なんてなんでもそうだろ?と思わないでください。
その「持っていかれる」質の違いを意識してください。
彼らの存在は、僕にとってはなによりも身体を奮い立たせることに直結していて、
彼らの音は、惰性的な自分に対する反逆の音として響きます。
ファースト・アルバム『フューネラル』に「Wake up」という曲があります。
まさに「目を覚ませ!」ということです。
「Rebellion (Lies)」という曲もあります。つまり、嘘だ!と反逆することです。
「眠ることは屈服することだ」という歌詞で始まります。
彼ら自身がどう考えているかは知りませんが、
僕にとっては、惰性によって犯されている身体を救出するための反逆の音です。
(両方とも、今ならmyspaceで聴けます。今回のエントリのBGMにしてください。)

情動(エモーション)とは、感情などの精神的なものも含みますが、
それよりもさらに深層の、意識によっては制御できない身体的・肉感的な情感もまた含む概念です。
アニメーションがそこに働きかけることは確かなんです。
でも、音楽と同じように、その質自体をきちんと見分けないといけない。身体で。
『ウォーリー』は情動的に働きかけることによって無理矢理のハッピーエンドを成立させるわけですが、この場合、情動は物語に没入させ感情的に昂らせるために、つまり作品へと呑み込むために用いられています。もちろんこれは危険です。惰性的な身体を、それとは気付かないままにさらってしまうわけですから。眠りに落ちた人々は、眠りに落ちたまま。

オタワプログラムとそれに類するものとしてあげた「異質な」作品群、そしてアーケード・ファイアの音楽は、ただ単に身体性を喚起して、目覚めさせるだけ。
なぜならそれはなによりも、自らの覚醒のための創作行為であるから。

"The Heart is a Metronome"や"The Traveller"が黒人のダンスを扱う作品であることは、身体性に関する今回の話とはまったく無縁ではありません。

また、ハーツフェルドの"everything will be ok"。
あの作品は、(そうとは気付かないままに)惰性的に生きている主人公の日常に、脳の大病とその予兆によってヒビが入る作品です。
突然、世界がすべて変化するのです。
最終的には主人公は病気から回復し、あの感動的なラストシーンを迎えます。
ただ単に降り注ぐだけの雨が、圧倒的な質感・熱量を伴って押し寄せてくる。
世界のすべてが輝く。
この作品もまた、なによりも自らの覚醒を謳いあげるものなのであり、
当初の予定ではアーケード・ファイアの曲が用いられるはずだったのは、
これもまた偶然ではないのです。

自らへの反逆がまずなによりも必要とされる時代だと僕は思います。
とりあえずは、自らが身体を持った存在だということに覚醒することが大事です。
身体のポテンシャルを舐めてはいけない。
(大山慶や和田敦の作品が身体をテーマとしていることもまた、偶然ではないのです。)

アニメーションの新時代とは身体性への眼差し(目じゃないんだけど)なくしてはありえないと思います。
これがないのならば、いくら新しい手法を用いていても、惰性の川に流されていくだけなのです。
無批判的な内省で自らをまるごと抱きしめている場合ではないんです。
誰にとっても、自分とは反逆すべき最初の相手です。
作家も観客も、自らの交換不可能な身体性を意識して、惰性的な自分に反旗を翻し、それぞれ個として屹立することが求められていると思います。

いつの時代にも反逆的なアニメーションはありました。
しかし、身体の喚起がこれほどまでに明確なテーマとして浮上してきたことはなかったと思います。
知性ではなく、身体・情動によって抵抗するアニメーション。
アニメーションは新たなフェーズを迎えつつあると思います。
ワクワクします。
ただし、既存のアニメーションの文脈だけに頼っていてはもう無理でしょう。
ポップ・カルチャーや美術、映画の領域と衝突しながら、新しいアニメーションは生まれていくことでしょう。(おっと言及を忘れていた。ラン・レイクの新作や"Chainsaw"はその成熟したかたちです。ビックフォードは先駆的すぎたかもしれない。時代がようやく追いついた、といえます。)

オタワ・プログラムはこういったことを考える契機を与えてくれました。
ちなみに、オタワ・プログラムの身体性は北米的ユース・カルチャーと密接に結びついています。
だからダメな人にはダメかもしれないです。
でも、どうか自らの身体の声に耳を傾けながら、体感してください。
アヌシーとは違って、「今」を感じとることができるものであることは、間違いないです。

なぜオタワのプログラムが素晴らしいのか、説明義務は果たしたと思いますので、
あとはみなさんがどう思われるか。
というわけで、

オタワのプログラム、絶対に観にいってください。
2/12(木) 11:45-12:45
2/14(土)11:35-12:35


土日は入場制限かかっちゃうくらいに混むらしいので、
早めに会場入りした方がいいかもしれないです。
座れなくなることはないと思いますが、
そもそも会場に入れなくなっちゃうかもしれません。

あとは音のボリュームがもっと大きくなればいいんだけどなあ。

それにしても、オタワ、いいなあ……
ディレクターのクリスさんから伝え聞くところでは、ドン・ハーツフェルドをゲストで呼んでいるらしい。ドンくんも「行く」と言ってました。
俺も行きたい。

あ、ドンくんから許可をもらったので、
近いうちに彼のインタビューを翻訳したものをアップします。
面白いですよ。

土居

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