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        2009-01-02        僕らは内臓のことも宇宙のことも夢見る生き物――ドン・ハーツフェルドについて(2)

<あけましておめでとうございます。(1)の続きです>

 二、三日して、「Bitter Films 1995-2005」という初期作品集を観てみることにした。
 高校生のときに無邪気に制作されたという非常に暴力的な"Ah, L'amour"、うさぎのキャラクターを用いてジャンルの約束事を純粋に(少々ブラックに)展開していく"Genre"は、まあ、若者の微笑ましい作品、程度にみることもできるのだが、それでもそこには「なにか」があるように思えた。アニメーションに一通り精通している者ならば、その自己言及的な展開に、彼の国アメリカ自身の初期アニメーションのさまざまな特徴をみてとることができただろうし、そうでなくとも、どうも気になってしまう「なにか」があるのだ。
 "Lily and Jim"はカップルのぎこちないデートの様子を描く会話劇なのだが、会話自体のレベルが高い。マッチ棒式の単純な造形のキャラクターが実に有効に用いられているのだ。リズムもとてもよく、思わず吹き出してしまう。愛すべき小品である。
 だがブレイクスルーとして考えるべきなのは"Billy's Balloon"だろう。子供が風船に虐待されつづけるだけ。たったそれだけの内容。人によっては嫌悪感をおぼえてしまうだろう(俺自身も最初はそうだった)。でも、なぜか何度も観てしまうのだ。風船に殴られ、空から落とされ、飛行機に衝突され、首を締められる子供たちの様子を観ていると、そこに感じてしまうのは、なんといっていいか、悲しみの気持ちだった。
 イザベル・ファベの『アップルパイ』を思い出す。この非常によくできた群像劇は、キャラクターのひとりである犬に降り掛かる悲劇によって幕を閉じるが、その原因が周到に用意されているからこそ、たんなる残酷な話にはならず、観客がその悲劇を一種の運命として受け取ることができる。
 それと同じものを俺は"Billy's Balloon"には感じてしまった。BGMなしで暴力や風の音が無慈悲に響き渡るこの作品に、あやうく涙さえ流してしまいそうになった。ただ暴力が続くだけなのに。
 ハーツフェルド自身はこの作品に対して作家からの解釈をまったく提示しておらず、むしろ観客側の自由な意味付けを歓迎しているのだが、(たとえば『madame Tutli-Putli』の後半とは違って)この作品におけるその態度はまったくもって正当なものだろう。ここに描かれているのは単なる暴力ではない、それとは違う「なにか」であるように思えた。(たとえば俺はここに運命や因果といったものを感じとった。条理の込められた不条理。)
 "Rejected"は「制作したはいいが放映してもらえなかったお蔵入り作品」という体をした、教育番組やコマーシャルのクリシェをおちょくる作品で、そういた番組の異常なほどの潔さを告発し、暴力的なものとすることで笑いにかえる「だけ」の作品にみえないこともない。でもそうではない。単なるくだらないパロディ作品と片付けることができない「なにか」の存在を感じとってしまうのだ。ふわふわしたキャラクターが「My Anus is Breeding!」と叫びながら肛門から血を流しているだけなのに、単にかわいいキャラクターが残酷な目にあっているというだけのことではないように感じられてしまう。
 ラストでエピソードでは突如としてキャラクターたちの住む世界の約束事が崩れ、舞台装置が落ち、紙が縒り、穴が空き、そのブラックホールにあらゆるものが吸い込まれていく。この作品は立派な「世界の終わり」ものの一群に数え上げることができる。しかも、最良のうちの一本になっている。(ちなみに、"Rejected"はアカデミー賞にノミネートされ、『岸辺のふたり』に敗れている。アカデミーは常に間違った判断をするものだ。)
 しかし何よりも驚いてしまったのが、"The Meaning of Life"。4年間をかけて制作されたこの作品は、あらゆる意味でこちらの予測を超えていた。描かれているスケールが大きすぎた。冒頭の1分でわけのわからない生物が進化して人間になると、その後の3分間に続くのは、それぞれが頭の狂ったような独り言をつぶやきながら、たがいに関係性を結ぶことなくすれちがいつづけるたくさんの人々。本当にたくさんの人々。エコノミカルであるはずのマッチ棒型のキャラクターを用いて、こちらの情報受諾能力を超えた量の情報が投入されると、しかもそれぞれのキャラクターがそれぞれ「完璧な」技術力でアニメートされると、本当に頭が狂いそうになってくる。とにかく圧倒される。この冒頭の3分間だけに二年間がつぎ込まれたというが、それだけの労力のすべてが、適切に機能しながらこちらに迫ってくるのだ。恐ろしさを感じた。マクラレンに感じたあの「完璧さ」という恐ろしさ。
 その後に続くのは、またしても予想外の宇宙のシーン。恐ろしく美しい銀河。マッチ棒型のキャラクターのあとにこんなシーンがやってくるなんて本当に予想していなかった。宇宙旅行を経て再び地球に戻ってくると、今度は未来の人間たちがまたしても大量に行き交いはじめる。しかもどのクリーチャーもそれぞれにきちんとした背景を持って存在しているように思えてしまう。なんらかのプログラムに従った根拠ある存在のように思えてしまう。これは異常なことだ。そしてラストの展開は真の驚きだ。これほど迫力のある映像はなかなかない。映像だけで納得させられてしまう。しかもこれって、俺らが実際にあれを目にして圧倒させられる体験と非常に似通っている。そういうものを目にしたときには、ただ黙ってしまうことしかできない。(このことについてはまたあとで。)

 ハーツフェルドの作品は非常に厄介だ。暴力、コメディ、マッチ棒のキャラクター、単純なアイデア……などと作品に対する判断を停止させてしまうための罠がたくさん仕掛けられている。でもその罠にひっかかってしまうのはだいたいにおいて観ている側の責任なのだ。よく考えてみれば、鑑賞を繰り返してみれば、やはりこれ以外にはありえないかたちでどの作品も展開されているから。それを理解してしまえば、どの作品も実に自然にその情感を訴えかけてくる。教訓。作品はまず何の先入観もなく観るべきで、なんらかのクリシェに落とし込む作業は慎重に。自分の感覚を疑うことが時に必要なのだ。

 「なにか」がある。そんな言い回しをたくさん使ってしまった。でもハーツフェルドの作品を前にすればそうせざるを得ないし、それこそがハーツフェルド作品の正当な見方だと俺は思う。 
 彼の作品で問題となるのは、世界を見つめ、その「なにか」を感じとる視線なのだ。
 "Everything will be ok"(三部作の第一作。二作目の"I'm so proud of you"は去年完成したばかり。クリス・ロビンソンはこの作品に本当にショックを受けてしまったようだ。もちろん良い意味で。早く観てみたい……)は病気によって、無意識で惰性的に過ぎていく日常が次第に解体されていき、砕け、その狭間から新たな意味を得て蘇ってくる物語である。ラストのビルは明らかに、それまでとは違ったかたちで世界に接している。一方で"The Meaning of Life"で最後に微笑む少年は、明らかに世界にたいするなんらかの新しさを発見している。それがなんなのかはきちんと示されないままに。
 アニメーション自体、そもそも「なにか」を観客に発見させるメディアだ。そのことに関して、ハーツフェルドに一貫する主張がある。アニメーションは主観的な力なくしてはいかなる力も発揮しえないメディアであり、フォトリアリスティックな描画はアニメーションのそもそもの力を奪うと彼は考えている。
 あるアニメーターが彼に、マッチ棒のキャラクターを使って観客を泣かせるなんてすごいと言った。しかしハーツフェルドは奇妙に思った。なぜかといえば、「それこそがアニメーターがやることなんじゃないの?」。アニメーションに本物の人間の本物の生が展開されたことは一度もない。形式化・単純化された世界を観客が見つめ、そこに創造を付け加えることが常に必要とされる。(ノルシュテインはポール・ドリエセンの『ダビデ』を引き合いに出し、アニメーションはたった一本の線によって世界の原理を表現できると語っている。アニメーションが持つその素晴らしい力は、『話の話』の「永遠」というセピア色の単純な描画のシークエンスで発揮されている。)だからハーツフェルドをきっかけにアニメーションの常識をもう一度確認しなおさないといけない。

 ハーツフェルドは観客が持つイメージ喚起力を信じている。本当に全面的に信頼している。だからまったく押し付けがましいところがない。彼の作品には「なにか」があると俺が繰り返し語っているのも、彼の作品自体が、アニメーションと同じようにあらゆる「なにか」を喚起させるような原材料のようなものであるから。ハーツフェルドの作品はアニメーションの原理を純粋に展開するのだ。
 世界はただそこにあって、そこに「なにか」の意味を見いだそうとするのは人間の所作だ。その「なにか」を想像(創造)することは、アニメーション的な行為だと俺は思う。あまりに巨大な二作品についてもう一度。"The Meaning of Life"のラスト、「人生の意味って何?」と親に問うていた未来の人間の子供がじっと見つめるのは満天の星空だ。彼はそれを見つめ、少しだけ笑みを浮かべる。彼がそのとき思うのは何だろうか。同じことは"Everything will be ok"のラストにも言える。ただ降り注ぐ雨を見つめるビルの脳裏に浮かんでいるものは何だろうか。
 それぞれがその「なにか」をみつければいい。
 良質で誠実なアニメーション作品はいつも、人間の持つイメージ喚起の力、想像力であり創造力を呼び起こす。作品のコアだけをただ露出させ、観客にすべてをゆだねるドン・ハーツフェルドはきわめて誠実で正当で寛容なアニメーション作家だと俺は思う。彼が(いまのところ北米でだけだが)これだけのポピュラリティーを得ていることは俺にとっては非常に勇気が出る。

最後にハーツフェルドの素晴らしいアジテーションを引用してしまおう。
シンプルな自分の描画スタイルについて問われたときの答えだ。長いけどとても勇気の出る言葉なので全部読んでほしい。

――あなたのアニメーションのスタイル(たとえば棒線画など)は偶然の産物ですか、それとも意識的な決断でしたか。

うーん、これがそもそもの僕のスタイルだったから、意識的かどうかはわからないな……でも映画の内容にはとても合っていると思うし、このスタイルにはすごく価値があると思う。違ったふうにデザインされた僕の作品ってのは想像できないな、少なくとも。あとから考えると、このスタイルは誠実だと思う。キャラクターがいて、こんな風に見えて……ってふうになっていくと、なんだか嘘をついているような気分になるし、「目のお菓子」で注意を反らしてしまっているような気がする。物語に戻ろうぜ、っていうことだ。大きな絵を見て、脂肪分を取り払って、核心に迫ろうっていうこと。背景を使うのさえ、好きじゃないね。(……)表象的な芸術にはふさわしい場所がある。でもそれは僕のものではない。心理学としての表現、ある人間が世界を見る主観的なやり方の表現に僕は興味がある。僕は芸術のうちにあるちょっとした瑕が好きだ。なぜなら、人生に存在する瑕を反映しているから。僕は子供の絵が好きだ。そこに自由や想像力が発揮されているからじゃなくて、線を描こうとするのに苦心していることがわかるから。葛藤や緊張感が感じられる。どんな物語を語っているかというのに辿り着く前に、たくさんの豊かさと個性を味わうことができる。
 CGでのモデリングや完璧な静物画は冷たい気持ちにさせる。リアルで表象的な自転車の絵は、「自転車」としか言ってくれない。もし作品がそんな名詞以上のものでコミュニケートするなら、もっとたくさんのムードや心理がそこには加わるはずだ。アニメーションのフォトリアリアリズムが退屈で的外れなのはそのせいだよ。そういうのは名詞でしかないんだ。CGアニメーションの90パーセントは名詞でしかない。その向こうに、何も感じることができない。
 アニメーションっていうメディアの要点は、文字通りに何でもできるってことにある。今まで観たことがない驚くべきものを見せることができるんだ。僕はアニメーション作家たちが映画の言語を変えてしまうのを見てみたいんだ! 真面目な話、僕らにはそのための手段がある。シュルレアリストたちが写真に対してとった反応と同じ、野生的で新しい場所に、アニメーションを深く突っ込むんだ。クソッタレなボートを揺らすんだ! アニメーションから主観的な力を奪い取って、現実に見えるようなかたちで何かを見せようとするんだったら、実写映画を撮った方がいいんだよ。」

彼とともに戦うアニメーション作家たちがひとりでも増えることを願いつつ、
今日はこのへんで。(終わり)


ーーー

二回に分けて載せたこの文章はとりあえず「ドン・ハーツフェルドはすごい」と俺が思っていることをせめてこのブログを観てくれる人たちと共有したいがゆえに書いたものです。正直言ってぐちゃぐちゃの文章なのですが、勢いって大事だと思うので勢いあるうちに書いておきました。彼をなんらかのかたちでもっときちんと紹介できるようになったとき、ちゃんと書き直します。

DVDはここで買えます。
Bitter Films Shop

土居

コメント

新年から刺激的な記事をありがとうございます。
まだ映像は見てないですが、ほんとにこういう人がアニメーション界だけでなく、アート系、サブカルチャー系の雑誌などでも全く紹介されてなかったというのはびっくりですね。
この作家のブログ(?) 「don's journal」に上映ツアーの様子など出てましたが、これが個人作家の上映会なの?!というインパクトがありますね。
日本国内でもちゃんと紹介されるのを期待しています!

Re: タイトルなし

コメントありがとうございます。
僕としても本当にびっくりです。
彼に限らず、短編アニメーションという形式的な理由で、本来ならきちんと知られて然るべき作家たちが黙殺されていく状況はなんとかしないといけません。
Animationsとしてももっといろいろなことができるようにしたいものです。

Billy's Balloon

とりあえずWebで視聴できる作品をいくつか見てみましたが、やはりBilly's Balloonは印象に残ります。この作品では「痛み」がちゃんと表現されているのが良いと思いました。(”アニメ”に良く見られるグロテスクな暴力描写はその細部への興味を助長するだけで痛みを表していません。そこが絵による表現とアニメーション表現の違いなのかなとも思います。)
その暴力を自分に向けられたものと見ても他人に降り掛かるものと見ても、それについて考えさせてくれる作品ですね。

つながりがあるか分かりませんが、クレア・キッソン著『「話の話」の話』の中で、「話の話」の共同脚本執筆者ペトルシェフスカヤについて「冷酷非情な小説の作者」と紹介されていたのも思い出しました。

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