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        2008-12-09        唐突に日本の何人かの作家について考えが

別に何があったってわけでもないんですが、12月6日、日本の若手作家たちの作品についてふと思うところがあったので謎めいたかたちでメモしておきます。

9.11秒の長さを持ったある人形作品で気になってしまうのは、あたかも長編映画のクライマックス、ラスト20分ほどだけを見せられているような気分になってしまうこと。でも実際には9.11の長さしかないわけで、少々息苦しくなってしまうこと。短編には短編なりの、その長さが要求する語り方があるのではないか、と思ってしまう。ダイジェストを観ているような気分にもなるのは、あまりに急展開すぎるモンタージュのつなぎだろうか、と思ったりもしたが、そのときふと杉井ギサブロー氏の「カット割りは情感の長さの表現だ」という言葉がどこからか降ってきて、なるほど、と納得。

・立体作品の多くに共通する思想があると思う。「+」で考えるやり方。どういうことかといえば、アニメーションが「無」からの創造だとして、その虚構の世界を構築するのに、ヴォリューム感を持つ物体を「+」していくことのみで世界を作り上げるやり方。そういう作品は大抵、その「+」された部分以外の世界が存在しない。外側のない箱庭のような息苦しさが漂うことになる。(ある種の人形アニメーションが時にデジタル技術の3Dアニメーションと同じような雰囲気を持ち、「それならもう3Dでやればいいじゃん」と思ってしまうのは、この「外部のなさ」に一因があるのではないかとふと考える。)だが別にそれは必ずしも悪いことではなくて、その作品世界にきちんと没入させることができるのであれば、「この世界は関係ないや」と観客に感じさせるのでなければ、その作品は成功を収めるのだと思う。
アニメーションは二次元と三次元で根本的に違う。その違いをきちんと認識しないといけない。
二次元作品は、白紙を相手にするがゆえに、空白という「-」の部分に対して必然的に向き合う必要がある。そして、その「ー」を活かした作品がいくらでもある。空白を空白としてエナジーを充溢させるような。
三次元ものの場合、立体空間はわざわざ作り出さずとも所与のものとして存在する。「ー」の思想が抜け落ちがちになる。その点、ポヤルの『ナイトエンジェル』は本当に素晴らしい。人形アニメーションで世界の生成を表現するもの(「+」と「-」を共存させる例)として、カチャーノフ『ミトン』『ママ』と並んで例外的な作品。(『チェブラーシカ』シリーズは「+」しかないのであんまり面白くない。)

・この「+」「-」という考え方については、エイゼンシュテインの「ロダンとリルケ」という論文に多くを負っているのだが、残念ながら邦訳は出ていない。(いつか出ると思うけど。)エイゼンシュテインの著作にはアニメーションを作るうえで重要なことがたくさん書いているのだが、これまでの日本での紹介のされ方では残念ながらそのことは見えてきにくい。ノルシュテインを用いつつそこらへんをきちんと論じるのは、おそらく俺の使命だろう。

・それに関連して。どうしても気になってしまうのは、アニメーション作品に付けられた音楽。特に日本の学生作品に多いのだが、まったく空白のない(静寂のない)音楽をベタばりで使用しているものが多い。「+」の音楽。俗にエレクトロニカとよばれうるようなジャンルだったり、もしくはピアノを利用した作品に特に多い印象がある。これもまた息苦しい。そして大抵の場合、音楽が映像のリズムと合っていない。もしくは、映像が音楽と一緒にその息苦しい空間のなかに閉じこもっていく。当然ながら、映像自体にもリズムは内在されているわけで(それに気づいていない人は結構多い気がする)、音楽のリズムにきちんと従属させるか、映像のリズムを顕在化させるように音楽を付けるか、どちらかの道を意識的に選ぶ必要がある。

・つまり問題とすべきなのは、作品のなかにどういう要素が投入されるかについて考えるのではなく、作品のなかに投入された要素が観客のなかでどのような反応を起こすのかということ。クロックにて山村さんがロシアのメディアのインタビューに答えて、「ロシアのアニメーションの伝統は、観客の反応を考えていること」だと言っていた。その話は、ノルシュテインが言う「追体験」というタームに当然つながってくるし(『Foolish Girl』をノルシュテインが褒めたのもうなずける話だ)、そして彼の理論的師匠であるエイゼンシュテインの話にも、そしてエイゼンシュテインの映画を観て表現手段としてのフィルムを発見したマクラレンが言うあの有名な「コマの上ではなく、コマの間」という話にもつながってくる。
これは、メッセージを伝える、云々という話ではなく、きちんとしたアニメーションとして成立するかしないか、その根本的な次元に関わる話。アニメーションは本質的に没入と共創造(スクリーンと観客との)があって成立する。そもそも静止画を動かすためにはその二つが必要になる。仮にそうでない作品をアニメーションと認めるにせよ、つまらないアニメーションになる。(大部分の電子切り絵や現代美術作家のビデオ作品のなかにあるアニメーション技法。大雑把なくくりですみません。例外はたくさんあります。)

・珍しい素材(やり方)を用いることは構わないのだが、その素材(やり方)を用いていることが限界であったり制約であったり欠点を感じさせてしまうのはやはりまずいのだと思う。「この素材(やり方)でやってるから、しょうがないのかな」と納得はすれど、やはりもどかしく思ってしまう。(まさに『MUTO』に感じるものなのだが。)

・幼児虐待をひとつのモチーフとしたアニメーション作品について。この作品の作者は、「-」の重要性をよくわかっている。描かれない空間で起きることが、きちんと観客にも伝わることをわかっている。
それゆえにある一定の水準はきちんと超えているので、ここから先は、その作家の作家性への意見ということになる。(つまり対等な話し相手として。ブログだから一方的だけど。)
生身の身体に行われる暴力は、徹頭徹尾、画面の外の空間で起こる。それは、ラスト近辺における虐待が画面の中央で起きることと対をなし、後者の暴力性をいっそう高めることになる。この演出は見事だと思う。(観客の体はその暴力性をかなり直接的に受け止めることとなる。)だが、虐待の場面において、殴られる子ども自体の姿が映されないこと、そして、ラストに付けたしのようにして、子どもが成長して立派な大人になった姿が見せられること。このような救いの描写はいったい何のために行われているというのか。もしかして観客のため、観客の救いのためのものなのではないのか。そう考えた瞬間、幼児虐待というテーマはエンタテインメントのためにのみ、無責任に扱われているとしか考えられなくなり、倫理的に受け付けられなくなる。
先日、鈴木志保のトークを聞いた。彼女が、超大傑作『船を建てる』を描いていたころのこと。かわいいキャラクターたちがあまりに残酷な運命を迎える羽目になったとき、作家本人は「やめてー」と思いながらも、何かの力(本人はジョジョに倣って「スタンド」と呼んでいた)によって結局止められなかったという話をしていた。作品(やそのテーマ)が要求する本当のことは、やはり作者の都合の良いように歪められてはいけないのではないか。

長くなったので、この謎めいたメモは第二回に続きます。

コメント

参考になる事も多々あり、毎回とても楽しく拝見しています。
そしてこの件の前半は多分自分の事かなと思い、ちょっと書きます。
ラスト20分、ダイジェストという論評からすると、非常に正確に見ていただいていると思います。音楽のくだりもまさしく。
ただ一つ言うと、今までの論評は作品名を明記しているから、賛辞でも批判でも、たとえメモでも、そこをぼかした点は少し疑問です。何か理由があったのでしょうか。
引き続き、色々な作品に関する意見を拝見出来るのを楽しみにしています。

細川さん
コメントをいただき、ありがとうございます。
前半の件に関しては、細川さんの作品についてで間違いありません。参考になったと言っていただけるとこれほど嬉しいことはありません。
疑問の点に関しては、誤解を与えるような書き方をしてしまい大変申し訳ありません……このエントリ(次回も含めて)は某所での勉強会で観たものに関するコメントで、何が上映されたのかはっきり書いてしまうと各所に迷惑がかかりそうな気がしたので、こんな変な書き方をしてしまいました。
各所から「これはなんだ」という問い合わせをいただいております。勉強会のことにはまったく触れず、きちんと作品名と作家名を記して書くべきだったと反省しております……

これに懲りず、これからも読者でいていただけるとありがたいです。

追記

ご丁寧にありがとうございます。
ちょっと気になっただけなので、気になさらぬよう。こういった作品群を見られる場所は限られてきますから、色々と厄介な事もあるのでしょうね。しかしながら論評している方もあまりいらっしゃらないから、そういう目線での意見はとても大切だと思ってます。
正直「立体」は変な存在ですけど、時には座談会の方でも取り上げてください。一度ゆっくり話を聞きたい所です。ニアミスはしていると思いますが。
では。

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