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        2008-11-26        リズムで語る伝統

二年前の広島で初めて観たミハイル・アルダシンの作品(たしか『シャーロックホームズ』だったか)にはびっくりさせられたものだ。個人的に「電子切り絵」と呼んでいる一群の作品は大抵、アニメーションの本質に対する無知の産物、動くことに対して少しのケアもおこなわないものなのだが、この作品はまったく違うものだった。話の内容はもちろん他愛のないものなのだが、特に内容を把握せずとも心地よくうきうきして観れた。『イワンのばか』もそうだった。電子切り絵に特有の均質でデジタル臭い動きをうまく調理してしまっている印象で、「これは新しいな」と感心したものだ。

でも今回クロックフェスに行って、この前抜粋を紹介したコヴァリョフのインタビューを読んで、ロシアで購入してきたピロットスタジオのDVDを観ると、それは別に新しいものでもなんでもなくて確固としたピロットの伝統に基づいたものなのではないかという気がじわじわと高まってきた。

厳密に言うとピロットの作品ではないのだが、タタルスキーとコヴァリョフが共同で監督し、「チェブラーシカ」シリーズの原作で有名なエドゥアルド・ウスペンスキーが脚本を担当した『コロボックル探偵物語』(とでも仮に訳しておきます)という4本シリーズがある。これが実に奇妙な作品で、日本で出ている「パイロットスタジオアニメセレクション」に入っている『リフト』を思い出してほしいのだが、あのような他愛もなく少し笑えるストーリー展開が、コヴァリョフのリズムで展開するのである。(特に3と4。)
("СЛЕДСТВИЕ ВЕДУТ КОЛОБКИ"この文字列で検索かけるといいことがあるかもしれない)
『コロボックル探偵物語』は1986-87のものなので、コヴァリョフの処女作よりは2-3年早い。でもコヴァリョフがパルンの『トライアングル』を観た後のこと(そしてあまりの衝撃に、実写映画の前座としてかかっていた『トライアングル』を観るためだけに何度もチケットを買った後のこと)ではある。

日本盤に入っている『リフト』からも少しうかがえるのだが、ピロット的なドローイングのスタイルというのは、実はその半分はパルンのスタイルを輸入したものなのだ。これについてはコヴァリョフ自らがインタビューで認めている。『コロボックル探偵物語』にはその影響がモロに伺える。(たとえば象の造形。)ともあれ、今ではだいぶ薄まっているのだが。

コヴァリョフがパルンから学んだもののひとつに、「動きのリズム自体が語ること」があったと思う。「何が動くか」ではなく「いかに動くか」が大事だとしたマクラレンの例を出すまでもなく、「ミッキーマウス」シリーズ以降のトーキー・カートゥーンのある一領域においてキャラクターたちは音楽とそのリズムを具現化させるような担い手(自分のものではないリズムに取り憑かれるイタコみたいなものか)であったことを思い出すまでもなく、アニメーションがリズムを刻むものであるということは、ある一定以上の水準の作品を作る人々にとっては意識的にも無意識的にも理解されてきていたように思える。
コヴァリョフにおける「リズムの語り」の特異性についてはもうちょっとちゃんと考えて言語化しなければいけないのだが、それに取り組むと今回の記事の本筋から逸れてしまうのでやめておくことにして(ブレッソンやタルコフスキーの映像のリズム論を参照する必要があおそらくある/ブレッソンがリズム論を残しているかどうかはわからないけど)、とりあえずピロットのリズムの語りについての話に戻ろう。
パルンがまざった原ピロット的スタイルは今ではかなり薄まっているが、それでもリズムで語る伝統は数人の作家によって引き継がれている。前述のアルダシンや『ジハルカ』のウジノフなどは、動きのリズムによって何かが語りうる(もしくは「働きかけうる」と言った方がよいのか)ことをきちんと理解していると思う。そこにはまだコヴァリョフ的な美意識の痕跡が残っていると理解することもできるのではないかとちょっと思ったことを書こうとしたらこんなに長くなってしまった上に肝心の結論部分が尻すぼみになってしまった。

まあ、リズムを意識することがどれだけ観客に働きかけうるか、ということについては、ソヴィエトロシアの大巨匠ヒトルークがノルシュテインによって「キング・オブ・リズム」と形容され彼のスタイルがソユズムリトフィルムを支配していったことからもわかるようにそもそもソヴィエトロシアの伝統でもあるのだ。クロックのレポート(俺のでも山村さんのでも)でも書いてあるけれども、ノルシュテイン作品には確実にヒトルークのリズムが染み通っている。
いやいや、ノルシュテインのアニメーションのリズムについて考えるには、当然のことながら、彼の理論的師匠であるエイゼンシュテインの映画についても考えないといけない。
彼が映画におけるリズムの重要性を説いたことは言うまでもない。
(エイゼンシュテインがディズニーのアニメーションの影響を受けつつ『アレクサンドル・ネフスキー』や『イワン雷帝』を作ったこと、そしてマクラレンがエイゼンシュテインの映画を観てフィルムでの表現に目覚めたことについても追記しておいていいかもしれない。ノルシュテインが『イワン雷帝』をアニメーションの原理に基づいて製作された映画だと言っていることも。)
最近いくつか観た70年代のアニメーション、週末に観た相原信洋(素晴らしかったので近日中になにか書きます)、久里洋二、ルネ・ラルーなどなど、ここらへんまでは確実にそのモンタージュリズムの思想が生きているのだよな。アニメーションがリズムを刻むためには別に必ずしもキャラクターをきちんと踊らせる必要はなくて、モンタージュによってもなんとかしうることを忘れてはいけない。(その点からいって、エリザベス・ホッブスは本当に素晴らしい作家だと思う。)川本喜八郎が「最近の若者はエイゼンシュテインも読んでない」と憤っているという噂もきいた。
『コロボックル探偵物語』は別にモンタージュによってなんとかしようとする作品ではないが、他愛のない内容であってもこれほど面白く観れるのは、やはり「いかに語るか」「いかなるリズムで語るか」というところの重要性をきちんと理解しているからではないか。アニメーションには様々な語り口があるのだ。そしてリズムがそのひとつであることは間違いない。

月曜日の山村浩二トークショーでの「自分はオリジナルなもの・個性的なものなど作ろうとしたことはない」という話、ロシア関連でのこの文化的継承の豊かさ(今は消えつつあるにしても)の実感、そういったことからの刺激とアニメーションの現状への危機感からとりあえずこの長文を書いてみました。

土居

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