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        2008-05-03        イメージフォーラムフェスティバル プログラムA, C, R

アニメーションという同じ表現媒体であっても、違う言語で語りかけているような人たちがおり、ならばその違いを乗り越えて、相互理解を目指すべきなのですが、今の僕の力では残念ながらそれは無理です。今回の抽象アニメーションプログラムのようなものであるならば、特に優れたものであるとも思えないので、なんとも思わないのですが、優れた作品であると肉体的にはわかりながら、それが言葉として身を結んでこない一連の作品というものがあります。
現代美術の領域で利用されるアニメーションだったり、商業アニメーションもそうだったり。そして、実験映画系の文脈にある作品もまた、僕にとっては少々語るのが苦しい対象であります。

イメージフォーラム・フェスティバルは、僕にとってはそういう苦難の場でもあります。

プログラムAの石田尚志さんの作品は、確かな質をいつも感じさせてくれます。今回の『海の映画』も堪能させていただきました。しかし、どうしても言葉が沸いてこない……相原信洋さんも、田名網敬一さんとコラボをするときには(『CHIRICO』)いつも戸惑いを感じてしまって、なんだかただ傍観者でいることしかできないような、作品に共に参加できない寂しさを感じます。プログラムCの倉重哲二さんの作品『眺めのいい部屋』は、既視感のあるアイディアが生煮えのままたくさん投入されているような印象で、倉重さんの作品は、観ているといつも文字が頭のなかに浮かんできます。映像を観ること自体の快感というものがほとんどなくて、僕みたいな人間にとっては少々厳しい。今回は初めて部屋の外を舞台とした作品とのことですが、僕としてはもっと自由なものが観たいと思ってしまいます。でも、結局のところ、僕の思うアニメーションの素晴らしさというものも、ただ単に一面的なものでしかなく、他にもきっといろいろなアニメーションの可能性があるのでしょう。

逆にアニメーションでなくとも、もしかしたら同じ言語で話している可能性があるのかも、と思わされる作品があります。プログラムCの牧野貴さんの作品(『DIARIES』)は、ご本人がとても誠実そうな方なのが素晴らしいのですが、なによりも、その誠実さ・真面目さがきちんと作品として身を結んでいるのが感動的です。

プログラムRのトニー・コンラッド作品集。恥ずかしながら今回が初見でした。
フリッカーでてんかん症状を起こしてしまうのではないか……と本気で悩んでいたのですが、大丈夫でした。
ただ白と黒が明滅するだけで、特に何もこちらに押し付けてこない『フリッカー』は、スクリーンから一方的に、不可逆の長さを持ったものとして映写されているものなのに、その画面を眺めているといつしか直線的な時間の観念が消失して、ただ目の前の変容を見つめるだけの軽い瞑想状態のような感じに陥ります。テレビの砂嵐がただ流れるだけの『フリッカー伯爵の目』もそうだったのですが、日常的な時間からの解放を味わうことができ、何も起こらないにも関わらずまったく退屈せず、作品が終わるときにはむしろ「もう終わってしまうのか」と残念な気持ちで充たされてしまいました。テリー・ライリーとジョン・ケールの素晴らしい共演をバックに白黒のコマのフリッカーに縦と横のストライプが混ざる『ストレート&ナロウ』は、白黒の作品なのになぜか僕の目にはオレンジ色や緑色が本当に見えてきて、人間の知覚というのはいい加減なものだなあ(アニメーションを観るときにもいつも思いますが)と知らされます。コンラッドの作品は、映っていないものを観客が勝手に観てしまうようなものが多いです。どこか遠くの世界に頭が飛ばされてしまうこともそうですが、『フリッカー』であれ砂嵐であれ、なにかが見えてきてしまう。(僕には犬や巨大な赤ん坊が見えました。)人間っていうのは随分いい加減にできているのだなあ、とやはり不思議に思ってしまう。
「映画ってのは人間関係を描くものなんだ」と僕の友達が言っていましたが、映画はそうなのかもしれませんが、それは単なる一つの可能性。映像にはもっといろいろな可能性がある。僕が好むようなアニメーションは自分と世界との関係性を、一人称的に描くものが多いです。人間関係が成立する前の状態。だから必然的に瞑想的にも退行的にもなる。子どもの視線が多いのもそういう理由でしょう。アニメーションというメディア自体が、そういう表現に向いているような気もしますし。だから映画的でないアニメーションの可能性というものがある。
コンラッドの場合、さらに根源的なレベルの問いかけが発生してくるような気がします。人間の身体の仕組みの不思議さ。錯覚や知覚の書き込みなど、人間という生物種であるがゆえに持つ特徴の不思議さ。この段階ではもはやコミュニケーションさえ成立せず(だってみんながそれぞれ何が見えているかさえもう不確かなんだから)、ただ、自分の身体がこのようにできていることを感嘆することしかできない。(知的に、ではなくもっと肉体的な実感です。)これもまた映像の一つの可能性。
アニメーションというメディアを専門としているせいで一般的な映画からこういった実験的な作品までいろいろと観なければならず、それは冒頭に書いたような悩みを生み出しもするのですが、映像のいろいろな可能性を知らしめてもくれる。僕の人生的に考えたら、それはとても素晴らしいことなのかなとも思います。

そんなわけで、みなさんもコンラッド特集を観にいきましょう。5/5にまたあります。
(僕は今日、3DCG特集にいって、また冒頭のような苦しみを味わうことになるでしょう……)

土居

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