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        2011-12-30        2011年ベスト(2) スペシャル・メンション

今年のベスト作品3本に続いて、印象に残った作品をピックアップしていきます。

"Birdboy" (Pedro Rivero & Alberto Vázquez)
birdboy
原作は未読ですが短編アニメーションの枠内に収めることに失敗しており悪い意味でのダイジェスト感があるのは否めません。しかし、むしろそのぎこちなさ・強引さこそがこの作品にエナジーを与えている気もします。ネズミ人間たちの世界の傍らに暮らすバードボーイ。彼は鳥の言葉を理解するものの飛ぶことはできず、人間のような姿をしているけれどもネズミたちは彼を仲間とみなさない、徹底的に周縁の存在です。牧歌的な始まりを一挙に否定してかかる事故は制作時期を考えればもちろん関係ないですが日本の大きな事故をイヤでも思い出させます。シュトゥットガルトでこの作品を観たときには震えながらでした。すべてが変わってしまって、それでも日常を続けようとするときに仕方なく選ばれる虚飾の道とそれに耐えられない者。その両者が、鳥でもなくネズミでもない――つまり誰でもない――バードボーイに願いを託していく…都合の良い話です。しかし、バードボーイは単なる薬物中毒者なのか、それとも「どこか別のところ」へと連れていってくれる存在なのか、物語は答えを出さず、するとこの作品は、使命・天命についてのものへと変容していくのです。アウトサイダーが背負う天命。どこまでも孤独な物語なのです。

"Sleepincord" (Marta Pajek)
sleepincord
クレバーかつ見えにくいコンセプトを言葉を使わずビジュアルと音で展開できる才能は、プリート・パルン直伝のものです(ポーランド人ですがフィンランドのタルトゥ美大に通っていました)。複数化する「私」、それは気づかぬうちに伸びている産毛のようなもの。入眠は理性の境界をぼやかし、ロジックになっていないロジックとそれとをつなげます。すると見えてくるのは、私はひとりではないということ。でも多重人格とかそういう話ではなく、私は理性的な私、無意識の私、本能の私、さらにその埒外にある私であり、しかも私を支えてくれる両親や将来きっと現れるであろう伴侶でさえもやはり私を作り上げていることに気づくのです。自由連想の豊かさを象徴する白い糸、赤い滴。私を構成するかぎりにおいての無限の可能性。

"Who Would Have Thought?" (Ewa Borysewicz)
whowould
短編アニメーションでは非常に珍しい郊外ものです。たとえばハーモニー・コリンだったり、ハネケだったり、画面の隅々まであらゆることが終わってしまったような致命的な空気が漂っているアニメーション。"Sleepincord"が無限に広がっていく私であったとすれば、この作品にはそんなものはひとかけらもありません。地方都市におけるある男の消滅をめぐる証言集は、ヘタクソに見えることを恐れない大胆なビジュアルと優れたボイスオーバーによってコミカルなものとなりながら、最終的にひんやりとしたところへと私たちを連れていきます。消えた男は一体誰だったのか。もしかして神様? ここでもまた、「何者でもない存在」が大きな(空白の)中心を占めています。(そもそも、この作品のなかに何かしらの実質を伴った人間はいるのでしょうか?)なんらかの「雰囲気」がこの世界を支配しています。(1/22のイベント「A-AIRxCALF」にて日本語字幕&本人のプレゼンテーション付きで上映されます。)

『Scripta Volant』(折笠良)
scriptavolant
この素晴らしい作品についてはこのエントリを参照してください。個人的には、牧野貴作品が観客の脳に及ぼす創造的効果と同じものをもたらす作品だと感じました。アニメーションに対するこのアプローチ自体に、まだまだ掘り下げられていない無限の可能性が秘められています。

"Fly Mill" (Anu-Laura Tuttelberg)
flymill
あらゆるものが関連しあっているというシンクロニシティを信じる人は、物事をきっとひとつの平面でしか見ていない、もちろんその平面に強さがあればそれは表現となる――世界に対するそういったアプローチがある一方で、斜に構えて、俯瞰して、そういった人々、そして現象自体を眺める人もいます。プリート・パルンはもちろん後者で、パルンの新たな愛弟子のこの作家もまたそちらに属しています。しかしひとつ大きな違いがあるといえば、この作家の世代にとってもはや世界は当たり前のような無限の広がりを持っていて、理解できることは弱々しい「私」の平面のみ。シンクロニシティも持たせられないので、「私」を中心とした熱量で勝負するのみ。もしくは「私」を無限の領域へと逃していくのみ。巨大なゴールドバーク機械のようなセッティングのこの世界は、しかし「ウォレスとグルミット」の起床装置や「トムとジェリー」みたいなスラップスティックのような人間的・有機的全体連環から逃れ、より非人間的で機械的。『エクスターナル・ワールド』でいえば地球の外側につけられたトンボの外側のロジックを流れ込ませています。ハエと猟師たちが関係してみえるのは立体的な世界を平面的に眺めているからにすぎず、だからこそカモたちは遥か遠くの無限の領域へと(平面を眺める人の視線と同じ方向に、その視界から消えるくらいに遠くへ!)逃れていく。「適当さ」が発揮されたときに途方もない力が人形に宿るリホ・ウント的要素(投げやり感)も効いています。それにしても1984年以降(だいたい)生まれの学生作家たちはどことなく共通する世界観を持っているなあ。

"Body Memory" (Ülo Pikkov)
bodymemory
(twitterでのつぶやきをまとめながら…まだ答えが出ないのです)
「『ボディ・メモリー』はアニメーション部分が相当にパワフルだけれども、実写部分が機能していないように思えた。さっきウロ・ピッコフ本人に直接質問してみたけれども、彼が教えてくれたバックストーリーを聞いて、ようやく合点がいった。もう一度観てみたら機能しているように思えるだろうか?」
「ピッコフ『ボディ・メモリー』はソ連時代にシベリアに強制連行されたエストニア人の話。寒さで消耗する体力と故郷への愛着が糸人形の糸がほどけていくことによって表現される。自分の身体がほどけ、消えていくことに対して抵抗を試みるも無駄に終わる、恐ろしいアニメーション。」
「前後に実写パートが挿入されている。リンゴの木の枝に鉛筆がくくりつけられていて、風に揺れる枝がキャンパスに無数の線を残していく。この物語の設定としては、古くからそこにありつづける木が目撃したであろう光景を探るものとなっている。木は同時に、老人たちの筋張った身体のメタファーにもなる。」
「そんな意図が込められた実写パートなのだけれども、個人的には機能しているように思えず、作家本人に話をきいてみてようやく全貌が見えた。わかりにくいんじゃないかと思い切って質問してみたんだけれども、開会式でのオープニング上映で観た祖母は分かってくれたよ、と返された。」
「エストニア人の強制連行に対する距離感の違いが大きいということか。無知を恥じた。」
「以上が『ボディ・メモリー』の実写パート問題。充分な情報を得たうえで観る次の機会では機能しているように感じるだろうかなあ。」
アニメーション表現の強烈さと説得力、それが感じさせる本能的解釈と文字で起こされた解釈の違い。(ほどけていくことと、故郷に帰りたいと願うこと、そして命が消えていくことのあいだの関係など。)"Body Memory"は非常に悩ましい作品で気になって仕方ない。


相原信洋作品についても一言だけ。キャリアが長いのに、最晩年に至るまで最高潮をキープしつづけた奇跡の作家の死去を心から悼みます。相原さんには様々な伝説的エピソードがあり、そのなかには創作も含まれていたようですが、死ぬというエピソードだけが似合わない。自然事情・宇宙事情に精通した作品のスケール感。ハーツフェルトの新作と相原さん追悼上映を続けて観た12月の一週間は、何億光年もの精神的トリップをしたかのようでした。短編の醍醐味はここにある。

土居


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        2011-12-29        2011年ベスト(1) 今年の3本

短編アニメーションについて何かを語るときそれがある時代の熱気を帯びたものにならないことを個人的に少しもどかしく思っていますが、それは僕の書く力/見抜く力の不足である一方、そもそも短編作品自体がコンテンポラリーな気質に左右されにくい性質を持っているのではないかとも思っています(市場から見放された分野であることは関係しているかもしれません)。これから2011年のベストを挙げていくわけですが、これらの作品は、そしてこれらの作品について語る僕自身の言葉は、遠く離れた時代から眺めたとき、2011年らしさを感じさせるのでしょうか? 「2011年」で区切ることに何か意味を持たせることができるでしょうか? (去年のベスト作品のエントリは2009年-2010年で区切りましたが、それは短編作品の世界的なサイクルが映画祭の関係上2年くらいで一回りするからです。) 僕自身が今年のベストに一定の傾向を感じたとして、その傾向は表面的には時代とマッチしたものであるとはいえないかもしれませんが、もしかしたら、こんなふうに傾向を感じとったこと自体が、何か時代と共振しているのかもしれません。今から挙げる3作品に共通するのは、「ここ」と「彼方」をつなげるものであり、そのことが何ともいいようのないくらいに現実を強く感じさせるということです。

『マイブリッジの糸』(山村浩二)
muybridge
『マイブリッジの糸』は繰り返しの鑑賞が適切になるように作られているのが同時代の他の作品と一線を画するところで、僕なんかはインタビューをしてレビューを書くという特権を活かしてDVDをループ再生してそれこそ百回以上は絶対に観ているのですが、観れば観るほどにしっくりと浸透していき、止めることができなくなっていくのです。そして時間が絶対的に静止した世界にぽつりと留まったような感じになります。これは同時代のアニメーションとはまったく異なる鑑賞体験であり、時間感覚なのです。だから短編作品に対するリテラシーの中途半端な高さはこの作品のストレートな受容を阻害するかもしれません。少なくともこの作品は映画祭的鑑賞(つまり多数の作品の羅列のなかのひとつとして観る)ことに最適化されてはいません。しかし一方で、生きる時間に制約を持ち、一瞬前にさえ戻ることがない人間として生きているのであれば、必ず何かしらが存在の深いところに染み込んでくる作品でもあるのです。無限に繰り返されるものの一部としての私たち。そのことの安心感と孤独感。詳しいことはAnimation本ホームページのレビューとして、そしてインタビューとして語りそして語ってもらいましたのでそちらを是非ご覧になっていただいて、この極めて特殊かつ普遍的な作品が自分の手元で繰り返し繰り返し観られる日を今は待ちましょう。(東京以外に在住の方は公開自体がそもそもこれからですけど。)

It's Such A Beautiful Day (ドン・ハーツフェルト)
beautifulday

ドン・ハーツフェルト「きっとすべて大丈夫」三部作の完結編It's Such A Beautiful Dayは、前二作(『きっとすべて大丈夫』『あなたは私の誇り』)とは性質の異なるもののように思えました。あくまでビルに対して客観的でありつづけていたナレーションは、これまで以上にビルに寄り添い、時に感情を荒げます。かつては棒線画と背景の空白が観客に対して創造的補完を要求しその過程でビルの物語が「私たち」の物語としても機能するようになっていたとすれば、実写部分が増えることで背景の空白が消え棒線画のビルは周りの世界からひとり取り残されているように見えてしまうこの作品は、ビルの物語を紛れもないビルそのものの物語として体験することを要求します。つまりビルの物語は、もはや「私たち」の物語ではなくなっているのです。It's Such A Beautiful Dayを形容するとすれば、脳に致命的な病気を抱えたある男のドキュメンタリーであるとするのが最も正しい気がします。この作品は、三部作のなかでも一番「笑える」作品ですが、その笑いはひんやりとした感情を呼び起こさずにはいられません。一回目に観たときは腹を抱えて笑ったシーンも、二回目に観たときには「きついなあ」と笑えなくなりました。三部作のなかで最もビルの主観に寄り添った作品だと思いますが、それはむしろ、ビルと観客たち(そして作者)のあいだに横たわる溝がひどく深いからゆえのことです。ノルシュテインの未完の作品『外套』を思い出します。ほとんどのシーンがアカーキィ・アカーキエヴィッチというちっぽけな人間の一挙手一投足を追うことに専念されているあの作品は、アカーキィのうちに潜む宇宙的なスケールを観客に植え付けるものでありました。It's Such A Beautiful Dayは2011年版の『外套』なのかもしれません。みんなの物語から、ちっぽけな他人の生をがむしゃらなまでに肯定する話への転換が、ここではきっと起こっているのです。willという助動詞がとても重要だということを昔書きました。しかしまさか、このようなかたちでまたこの言葉が重要になってくるとは。みなさんはこの作品を観て、何を思うことになるのでしょう? わたし、でも、わたしたち、でもなく、わたしたちには想像も及ばない「誰か」の物語が、ここでは語られはじめています。そしてそれはおそらく、喪についての物語であるということにもなるのです。もしかすると死に潜む潜在的な可能性についてこの作品は語っているのかもしれません。もちろん、すべては推量にすぎないですが。「メランコリックな宇宙 ドン・ハーツフェルト作品集」は2012年3月31日からシアター・イメージフォーラムでレイトショー公開です。三部作目が日本に紹介されるかは、ここでの客入りにかかっているかもしれません。

『ホリデイ』(ひらのりょう)
holiday
ポップでドメスティックなものという日本の短編アニメーション界に最も欠けていたピースが不意に登場したわけです。コヴァリョフの血をドクドクと引き継ぎながらこんな作品ができてしまうとは…初見の驚きは半端なものではありませんでした。しかしコヴァリョフを強く感じたのは最初だけで、そんな文脈だけではない豊潤さをこの作品は滴らせています。ボップであることは作家本人がとても意識していて、ではポップをどのように定義しているかと訊ねてみれば、愛と熱量だと言っていました。人々が慣れ親しんだフォーマットをなぞることは重要ではないのです。『ホリデイ』はむしろそういう点からすると分かりにくい。しかし、愛と熱量が、この物語を他人事にはしないわけです。もちろん定型はあります。「ボーイ・ミーツ・ガール」に「バンドもの」、そして「青春もの」。しかしメタな視点に立つわけではなく、すべてが作品の熱量に直結しているという語りの素直さもまたあります。『ホリデイ』に関しては評論泣かせなところがあって、作家本人が書くあらすじが、まったくあらすじになっていないかわりに極めて優れた評論文になっているのですーー「ホリデイは、男と女の話しで、いない人、かたちのない存在を信じてみる話で、みえない愛を探り当てる話です。声や水分やそういったものに頼って大切な人にすがろうとする事です。好きな人の、留守電の記録や物にすがってその人の存在を信じる事です。夏の熱さで蒸発した多くの人間の汗が、梅雨の雨になって降ってくる。その水分のなかにきっとあの子の水分も混ざっているから愛おしい。」この作品がなぜ『ホリデイ』なのかといえば、消えてしまった彼女についてのひとつの時代が終わってしまった後の休息の期間を描いているからではないでしょうか。それは追憶の時間でも当然あるわけですが、追憶というのは悲しいものでリアルタイムに展開されていくわけで、生きている今そのものでもある。そうなると私たちは常に「ホリデイ」のなかに暮らしていることになります。私たちは当然私たちの視点からしか世界を眺めることはできず、他人についてはいくらがんばったところで本当のところはわからない。『ホリデイ』は物理的かつ精神的に遠くにいってしまった誰かについて考えることについての作品です。だから、私たちは繋がっている/わかりあえるという虚構のつながりの幻想はここで打ち砕かれます。僕なんかはそんな虚構のつながりの夢から覚めたくて短編アニメーションの世界に入ってきたわけですが、しかし、本当はバラバラなんだということを認識した後に、今度はやはり、本当はバラバラであることを認識したうえで、新たな関係性を築き上げていくことを願いはじめてくるわけです。『ホリデイ』が見せてくれた光景はまさにそれでした。過去は過去として終わってしまった。しかし、その過去は確かに私の一部となっている。血肉となっている。遠いものもまた然り。すべてがあなたでないかわりに、すべてがあなたであるという矛盾がここには成立していて、しかも実際には矛盾ではないのです。それに気づいたとき、わたしたちは休息時間をやめて、おそらく再びまた倒れるまでの新たなスタートを切れるのです。最後に跳ねるあの尻尾は、わたしたちに「さあまた立ち上がれ」と鼓舞しています。わたしたちはひとりであるけれども、まったくもってひとりではない。こんなに勇気の出ることがあるでしょうか。感動せずにいられるでしょうか。このビジョンなら、私たちはばらばらになりながら共有できるかもしれない。愛と熱量のこもったこのビジョンならば。わたしたちをとても深いところで規定するものについて、この作品は語っています。



次のエントリでは、今年観て気になった作品・作家について書きます。


土居

        2011-12-28        いろいろな国のアニメーション2011

今日は12月28日、2011年ももうすぐ終わりです。twitterの方を中心にしてしまったので、ブログの方がお留守になりがちでしたが、まあ今年もいろいろとありました。忘れてはいけない大きなことは忘れずにおきながら、ここではアニメーションのことだけを振り返っていきます。

今年は国内では「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」を全国4箇所で、こちらはCALFですが「和田淳と世界のアニメーション」も4箇所で公開できました。『マイブリッジの糸』と『緑子/MIDORI-KO』がほぼ同時期に公開されつつ、さらに『サヴァイヴィング・ライフ』まで重なり、そういえば『メアリー&マックス』(DVD・ブルーレイでてますよ)や『イリュージョニスト』(パンフレットがひどかった)の日本公開も今年なのでした。その他単発的な上映(「ポーランドアニメーション映画祭」と「DREAMS 追悼・相原信洋」が続けて公開されたシアター・イメージフォーラムはアツかった)も含め、いわゆる「アニメーション」の鑑賞環境としては、今年の東京はかなり充実していたのではないかと思われます。

個人的には今年は例年以上にいろいろな国にお邪魔して、それぞれの国にそれぞれの、アニメーションと社会との関わりがあるということを実感しましたので、今回のエントリではそこらへんのことを。ちなみに今年はニッポンコネクション(ドイツ・フランクフルト)、アニフェスト(チェコ・テプリツェ)、シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭(ドイツ・シュトゥットガルト)、アニメーター・フェスティバル(ポーランド・ポズナン)、CINDI映画祭(韓国・ソウル)、アニメ・コンヴェンション・ニューデリー(インド・ニューデリー)、アニメーテッド・ドリームス(エストニア・タリン)、ドン・ハーツフェルトの夕べ(アメリカ・サンフランシスコ)に行きました。(5月から12月上旬のほぼ6ヶ月のあいだに集中的に行ったので、さすがに疲れた。)

CALFの活動としては、今年はアニメーションというよりインディペンデント映画と交わった年だったと思うのですが、ヨーロッパ最大の日本映画専門映画祭ニッポンコネクションはまさにそのようなかたちでCALFを取り上げてくれました。(CALFの活動にいち早く反応してくれたのは、国内の映画・アニメーション専門のメディアではなく、インディペンデントを中心に日本映画を取り上げる海外の人たちだったということは個人的に興味深いです。)

アニフェストはニッポンコネクションとシュトゥットガルトの合間に訪問したので最後の2日間のみしか参加できませんでした。だからあまり全体像は把握できなかったのですが、なんとなく、元気がないようにみえました。長々としておどけた閉会式はクロク国際アニメーション映画祭を思わせて、旧共産圏のアニメーション・コミュニティ特有の心地よいがゆえに危険な自閉性がまだ生きていることを実感しました。相原信洋さんの訃報を知ったのもチェコでのことでした。パヴラートヴァに伝え、彼女は当然のことながらショックを受けていました。

シュトゥットガルトは歴史もあり規模もかなり大きいのに日本だと4大映画祭に隠れてなかなか注目を浴びませんが、個人的にはかなり刺激的な映画祭でした。ドイツ全体のアニメーション・シーンを理解できるほどの知見はないのですが、シュトゥットガルトから判断するに、ドイツではインディペンデントと商業シーンのギャップがあまりないように感じました。(それはこの映画祭を裏で牛耳るフィルムアカデミーの立ち位置から判断できるかもしれません。この学校は明確に、アニメーション産業用の人材育成を志向しているからです。)個人的にはASIFA的なアニメーション観(アニメーション=芸術かつアニメーションの正統主義)に少し閉塞感を感じはじめていたところだったので、ちょっとでもアニメーション技術が用いられていたり「アニメーションっぽさ」があればば問題なくコンペに入るこのフェスは新鮮でした。結果的に、ストーリーテリング/エンターテインメントとしての短編アニメーションという他の大きなフェスからは見えにくい短編の姿を見出すことができました。アヌシーが近いのかもしれませんがアヌシーはアニメーションに対してかなり保守的(米アカデミー賞と同じ)である一方、シュトゥットガルトは革新性も評価するというか、「なんでもあり」感が強くてそのフラットな見方が面白かったです。

個人的には2011年はポーランド・アニメーションを再発見した年でもありました。そしてその再発見はある程度準備されていたものでもあったのです。アニメーターフェスに参加して思ったのは(みなさん知らないと思いますけど、賞金がすごく高いから出した方がいいですよ)、ポーランドのアニメーションが他の共産圏とは異なるバックグラウンドを持っていること、そして、ポーランドは国産映画(アニメーションも含む)に対する支援と伝統の保持への志向が強いということでした。他の共産圏が巨大な国営スタジオの影響下のうちに「共産主義圏のアニメーション」という伝統を強く持っていた一方で、ポーランドではアニメーションに従事する人がもう少し異なる文化的背景を背負っていた印象があります。作品もそれを反映していて、一筋縄ではいかないものが多いです。(イメフォでの特集を観た人はよくわかるでしょう。)アニメーターフェスはフェスティバルディレクターがアメリカの実験映画シーンと関わりの強い人で、そこらへんの文脈も知れたのがとても良かったです。アメリカの状況も、ASIFA的な短編アニメーション観が支配的な日本ではなかなか見えてきませんが、おそらく構造としては日本とあまり変わらず、巨大なアニメーション産業の影に隠れて映画と混ざりあったインディペンデント・シーンと実験映画シーンの一部としてのアニメーションというものがあるのではないでしょうか。(インディペンデント映画・実験映画との交わりは、イギリスを除くヨーロッパ圏では希薄である印象があります。)アニメーターフェスでもメディアアートや音楽など、アニメーションを周辺領域とクロスオーバーさせる試みが意識的に(そしてある意味自然に)おこなわれており、アニメーションを広げようとする(というか元から境界をそれほど意識していない)意識を強く感じました。ポーランドが自国の映画芸術の伝統をきちんと伝えていこうとしているのは具体的に見えてきており、アンソロジーのDVDが出たり、歴史的な作家のDVDのリリースをはじめたり、若手の作品もきちんと紹介したり、当地のフィルム・インスティテュートの存在感が強かったです。これは日本にはまったくない構造なので、率直に言ってうらやましく思いました。

韓国のCINDIはデジタル専門の映画祭で、アニメーションが占めるプレゼンスは高くないのですが、短編作品のレビューを書かせてもらったこともあり参加しました。韓国のインディペンデント・アニメーションシーンについてはいまだに僕はあまりよくわかっていないのですが(すでに日韓に強いつながりがあるので、そういう場合は僕に話が回ってくることはないのです)、この映画祭自体は、韓国有数のシネコンを経営している企業が運営しており公的なお金がまったく入っていないうえに、賞を穫った作品には賞金もそうですが韓国国内の配給をサポートするなどこれもまた日本ではあまり見当たらないので面白いなあと思ったわけです。

インドのアニメコンヴェンションは名前が示すとおり日本の商業作品を紹介するイベントだったのですが、なぜかCALFがお呼ばれしました。その「なぜ」は現地に行ってすぐ解明したわけですけど、主催者は別にアニメだけを紹介したいわけではなく、比較的お金と人が動きやすいフレームを使いながら自分たちのやりたいことをやってしまうという「攻め」のイベント運営をやっていたのです。このイベントの主催のニテシが本当に意図しているのは、インドにおいてインディペンデント映画のプレゼンスを強め(インドでは映画=ボリウッドしか存在せず、インディペンデントはほぼないに等しいらしいのです)、また、デザインに対する意識を高くしたいということなのでした。だからCALFが呼ばれ、デザイン的に優れた日本作品が取り上げられるわけです。インド自体も衝撃的でした。国全体が「これからだ」という気運でした。昔の日本ももしかしたらこんな感じだったのかもしれません。イベント主催者たちはインドには未来の可能性があるから好きだと言っていました。自国を迷いなく好きだといえる若者に出会ったのも個人的にはここが最初だったので驚きました。アニメーションの学校がそこらじゅうにあるニューデリーの街を車で走りながら、しかし僕の頭のなかでは、韓国や中国でアニメーションを国策となったおかげでインディペンデント・シーンが意図せぬままに誕生したことが思い出されました。(産業の副産物としてのインディペンデント…実はどの国でも同じなんじゃないかと思ってます。アニメーションのインディペンデントは商業の副産物なのではないかと。)中国のインディペンデントシーンの充実をみて、次はインドなんじゃないかと少し思いました。(そういえばCALFのプレゼンには「私もCALFからDVDを出してほしい」という現地の美大の学生がいました。)

エストニアは旧共産圏において資本主義体制下で最もうまく伝統を保持できた国です。それは製作費の最大70%を国が負担してくれるというシステムがあるのに加え、ヨーニスフィルムにはロッテという国民的なキャラクターを擁する劇場版シリーズがあるからです。ロッテで稼いだ金をインディペンデント(映画祭向けと言っていましたが)作品に回すというサイクルがあるわけです。そしてインディペンデント作品については、採算を考えない。さらにエストニア美術大学でパルンとピッコフは後進を育てる…きちんとしたサイクルができあがっているわけです。もちろん問題はあります。ヨーニスフィルム以外のスタジオは立体部門のヌクフィルムも含め、資金繰りに苦労しているということ(市場がそもそも大きくないというのもあります)など。ヌクフィルムの監督やアニメーターたちの待遇はちょっとびっくりなレベルでした。一年中仕事があるわけではなく、「解散」している時期もあるそうです。アニメーテッド・ドリームスという映画祭に対する評価は結構難しく、審査員をやらせてもらったのでありがたく思ってはいますが、コンペみると学生やパノラマ作品が見れなかったり、みんなが帰った後にようやくエストニアのヤング作品をやるなどといった狂ったスケジュールの組み方はなんとかならんかなと。併設のアニマキャンパスは学生向けの講演&ワークショップイベントでしたが、こちらは個人的には結構面白かったです。旧ソ連圏の現状が知れたので(ソ連時代はモスクワの映画大学で勉強→自分の国の国営スタジオで製作というサイクルがあったのが、独立後はその伝統がぶったぎられ、アニメーション文化がかなり貧しいものになってしまうという共通点が中央アジアの旧共産圏には共通してあります)。

日本では学生CGコンテストの評価委員(一次選考をする人)をやらせてもらい、日本の学生作品の地殻変動を目の当たりにしました。わたくし語りでありながらわたくしを超越したりわたくしが消えてしまうほどのスケールを獲得していたり…日本のインディペンデント作品が最も苦手としていたドメスティックかつポップという作品のあり方を体現してしまったひらのりょう『ホリデイ』を始め、日本インディペンデントが新たなフェーズに進んだことを実感した一年でもありました。

つまり日本においてもドン・ハーツフェルトのような作家が登場しうるのではないかと予感したのです。新作が待ちきれず彼のツアー「ドン・ハーツフェルトの夕べ」@サンフランシスコに参加して、200弱のキャパですが一日二回の上映は満席になり入れない人もいる状況を目の当たりにして、身の丈にあった小さなマーケットを作り上げることは、インディペンデント・アニメーションにおいても可能なのではないかと改めて思ったわけです。ハーツフェルトの新作(つまりビル三部作の最終章)は、これまで以上に「アニメーションらしさ」から離れ、そして、「わたくし語り」からの完璧な離脱が成し遂げられていたという意味で、新しいアニメーションの姿を目撃した気がしました。

次のエントリでは、今年のベスト作品を書きます。ハーツフェルトの新作についても、少しだけ語ります。

土居

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