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        2010-01-17        メディア芸術祭「アヌシー」「オタワ」「SICAF」上映作品リスト【1/19確定】

2月3日~14日に国立新美術館で開催の文化庁メディア芸術祭、最新の短編アニメーションを観ることができる数少ない貴重な機会です。Animations的には、受賞作品集はもちろんですけれども、アヌシーとオタワのプログラムにも大注目です。

講堂での上映日程についてはもうすでに発表されていますので、ここでも参考にしてください。アヌシーとオタワは各二回。
例年通りであれば、展示会場でもさらに上映があるはずです。
さらに例年通りであれば、上映作品リストは会場に行ったとしても手に入りません。
映画祭の公式ページなどを参考にすると、おそらくこれらの作品が流れるのではないでしょうか。
【1/19追記】※メディア芸術祭の公式ページにて上映作品がアナウンスされました。

○アヌシー サンフランシスコ国際アニメーション映画祭のプログラムから)→正式に発表されました。[1/19注記]
The Employment (Santiago Grasso, Argentina, 7 min) ※短編部門FIPRESCI賞
Ex-E.T.(Benoît Bargeton, Yannick Lasfas, Rémy Froment, Nicolas Gracia, France, 9 min) ※学生部門審査員特別賞
The Soliloquist (Kuang Pei MA, Taiwan, 6min) ※学生部門特別優秀作品
Chick (Michal Socha, Poland, 5 min) ※短編部門ベスト・ミュージック賞
Shrug (Alina Constantin, Norway, 7min) ※学生部門こども審査員卒業制作賞
Madagascar, Carnet de Voyage (Bastien Dubois, France, 12 min) ※短編部門コンペ外最優秀作品
Western Spaghetti (Pes, USA, 2 min) ※短編部門観客賞
Slaves (Hanna Heilborn, David Aronowitsch, Sweden, 16 min) ※短編部門アヌシー・クリスタル(グランプリ)、ユニセフ賞
The Man in the Blue Gordini (Jean-Chrisophe, France, 10 min) ※短編部門デビュー賞、子ども審査員短編映画賞
For Sock’s Sake (Carlo Vogele, France, 5 min) ※学生部門最優秀賞
Please Say Something (David O’Reilly, Germany/Ireland, 10 min) ※短編部門特別優秀賞
Log Jam: The Log, The Rain, The Moon, The Snake (Alexey, Alexeev, Hungary, 4 min) ※テレビ部門アヌシー・クリスタル(グランプリ)

○オタワ 公式ページから)正式に発表されました。[1/19注記]
OIAF 2009 Signal Film (Julian Grey, Canada, 0:45)
Love on the Line (G Melissa Graziano, USA, 5:00)
Mac the Horny Mac Daddy (Ian Miller, USA, 1:07)
Postalolio (Marv Newland, Canada & USA, 5:02)
Please Say Something (David OReilly, Ireland & Germany, 10:00) ※短編物語部門グランプリ
The Bellow's March (Eric Dyer, USA, 5:00)
Chick (Laska) (Michal Socha, Poland, 5:03) ※学生部門グランプリ
The Black Dog's Progress(Stephen Irwin, 3:15)
Magic Cube and Ping-Pong (Lei Lei, China, 4:07)
The Art of Drowning (Diego Maclean, 2:07) ※カナダ・アニメーション部門選外佳作
History of the Meat Packing District (Gary Leib, USA, 1:01)
MGMT 'Kids' (Christy Karacas & Ray Tintori, USA, 6:11)
The Terrible Thing of Alpha-9! (Jake Armstrong, USA, 5:45) ※学部学生部門最優秀賞
Madagascar, A Journey Diary (Madagascar, carnet de voyage) (Bastien Dubois, France, 11:30) ※依頼作品部門グランプリ、大人向けテレビ作品部門グランプリ、観客賞
Inherent Obligations (Kaasündinud Kohustused) (Rao Heidmets, Estonia, 10:00) ※インディペンデント短編部門グランプリ


アヌシーの方は受賞作品をきれいに並べていますが、オタワの方はそうでもないですね……驚いたことに、選外佳作というかたちでひっかかってさえいないさえ選ばれています。権利の関係上、「ベスト」プログラムへの選出を断る作家もいるらしく、そういった事情も少々はあるのでしょうが、選出作品をみるかぎり、クリス・ロビンソンの趣味が大きく影響している気がします。大学院生部門最優秀作品の"Lebensader"や短編部門選外佳作の"Kitchen Dimensions"を大画面で観るチャンスだと思っていたので、そこらへんは少々残念です。

Please Say SomethingやMadagascar、Chickは両方でかぶってます。PSS日本語版ですけど、どちらかのプログラムでは上映されると思います。Chickについては、両映画祭で高い評価を得ているにも関わらず、そういえばAnimationsではまったく取り上げていませんね。作品の質自体は、ヴィジュアル、音楽共にレベルは非常に高いです。でも僕の心には響きませんでした。だから取り上げていません。

アヌシーの方は、笑いありシリアスあり一発ネタあり(僕にとってはどうでもいい)ウェルメイドなだけの作品ありというバランスの取れた良いプログラミングになっていると思います。(というか受賞作品並んだだけですけどね。)どれも作品の質自体は高いです。去年と比べると雲泥の差だと思います。(プログラム全体の話ですよ。変な裏読み禁止。)

むしろオタワの方が今年のプログラムだとちょっと偏りすぎなのかもしれない……北米基準入りすぎというか。マーヴ・ニューランドの新作(手紙を用いた良作です)やThe Bellow's March(大画面で観る価値あり)が入っているのは嬉しいですけどね。The Art of Drawningも非常におすすめです。

両プログラムとも土日にも上映がありますので、勤め人の方々も問題なしですね。

【以下1/19追記/コメントをふまえてさらに追記】さらにSICAFのプログラムも発表されています。

SICAF
SICAF2009 Opening 1 (Abi Fejio, Portugal)
SICAF2009 Opening 2 (Rastko Ciric, Serbia)
Metropolis (水江未来、日本)※SICAF委託作品
I'll be Normal Tomorrow (Chang Hyung-yun, Korea) ※SICAF委託作品
The Bottle (LEE Yoon-Hee, SHIN Moon-Koung, CHA Yoo-Kyung, HEO Ji-Young,Korea) ※学生部門グランプリ
Shall We Take a Walk (KIM Young-Geun,KIM Ye-Young, Korea) ※学生部門審査員特別賞
Dust Kid (JUNG Yu-Mi, Korea, 10 min) ※特別賞
Entering the Mind Through the Mouth (Jinsung Choi, Korea, 23 min) ※観客賞

こちらは受賞作品から韓国の作品を揃えてきました。Dust Kidはおすすめです。Entering the Mind...はオタワでパルン夫妻の『ガブリエラ』と併映されていた作品。(位置づけとしてはパノラマ枠でした。『ガブリエラ』が長編にしては短いので併映というかたちになったのでしょう。)未見なので楽しみです。MetropolisはSICAFのオープニング&クロージング用に制作された作品とのことですが、唯一出所不明だったI'll be Normal Tomorrowもそうなのでしょうか……?

土居
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        2010-01-12        Talk こどもの城 昼間行雄さん

新春初の記事をTalkのコーナーにアップしました。
昨年末にインタビューをお願いした、こどもの城の昼間行雄さんの登場です。
全5ページわたるボリュームある記事になりました。
最後のページには、こどもの城のビデオライブラリー作品の抜粋ですが充実したリストも掲載しています。
廃盤になったVHSやインタビューなど貴重な作品が沢山ありますので、アニメーション研究者の方やアニメーションに興味がある方、ぜひ一度青山こどもの城へお出かけください。
大人だけでの入場も大丈夫ですよ。

山村

        2010-01-08        『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター)

ピクサーの前作『ウォーリー』についていきり立ったエントリした人間として『カールじいさん』についても一応書いておかねばならないかなと思うわけですが、正直期待はずれでした。

『ウォーリー』になぜあれだけ熱狂したかというと、その前章として『カーズ』が僕のなかではあったわけですが、車やロボットといった機械が主人公だったこの二作、あくまで個人的な感触としてですが、「アニメーションをみるぞ」という(無意識中の)意識を働かせなくても観ることのできる作品だと思いました。「アニメーションをみたなあ」という気分を全開にしてくれた『屋根裏のポムネンカ』と比較してみれば、この作品なんかは非常にチェコらしく、モノが生命を宿すということを前面に押し出しており、観客の方は動かないはずの人形とそれが動いてしまう状態の両方を受け止めることを当たり前とするわけですが、『カーズ』や『ウォーリー』では「動かないはずなのに」という次元がまったくないように僕のなかの無意識は意識したわけです。『カーズ』は観ている最中とても変な気分になりました。本来なら人間が行っているはずの行動が、車によって行われていることにムズムズしました。車が人に変わるだけで、すべては自然になるのに、と。

これは考えてみれば異常なことで、なぜそんなムズムズ感(必ずしも悪いことじゃないです)を感じたかといえば、それはやはり圧倒的なクオリティで描かれた背景としての世界のせいだと思います。『ウォーリー』ではそれが徹底されてましたよね。冒頭40分は、荒廃した地球と古ぼけたロボット、そして流線型のきれいなロボットというCG表現と非常に相性の良いものばかりが登場して、(僕が都会人だからかもしれませんが)すべてが実写で撮影されたとい言われてしまえば気付かない程度にまでそのハイクオリティが侵略していました。そこが僕の興奮した理由でした。「アニメーションである」という事実が観客にとって可能な限りに透明になり、不思議さを感じることがもはやない。これってディズニーがかつて夢みたことなんじゃないかと思ったわけです。もはや騙しの技術なくとも、作品空間のなかに自然に没入できる。ノルシュテインっぽく言えば、「約束事」の働いている世界ではない。これはもしかしたらアニメーションでさえないのかもしれない、と思わされたものです。(ラストのキスシーンでは、二人のロボットのクロースアップが、異様な情感を滾らせているように思えたことにも驚きました。)

そういった点に感動した僕からすると、いかにもアニメーション然とした『カールじいさん』は、非常に中途半端な出来に思えました。「さあアニメーションをみるぞ」というモードになることが必要で、それ自体はまあ全然構いません。ただ、デイヴィッド・オライリーが指摘するように、アニメーション世界がリアリティを獲得するためには一貫性が求められるわけなのですが、『カールじいさん』の場合、この世界のリアリティがどこに設定されているのかが最後までよく掴めなかった。冒頭のおじいさんとおばあさんの思い出のシーンはものすごく良かったです。でも、それ以外の要素が不協和音を……一観客として、これはどこまで戯画化された空間なのかというのがよくわからず、身の置き場所を定めることができませんでした。ピクサーの作品でこんなことを感じたことがなかったので、ちょびっと戸惑いました。

でも相変わらず人間以外のグラフィックはハイクオリティだと思いました。ピクサーの自然描写については誰かにきちんと語ってほしいものです。

『カールじいさんの空飛ぶ家』公式サイト

(このエントリの前半部分については、『読むアニメーション』01の山村さんのインタビューでも似たような話がされています、というか僕もインタビューの現場にいて、このことに関してはいろいろと外野から突っ込みを入れてたのですけど。)


土居

        2010-01-07        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(6):ギル・アルカベッツ「アニメーションにおけるストーリーテリングとドラマツルギーの特性」&まとめ

 フィルモグラフィーを見渡してみると、実に多様なグラフィックでさまざまなテーマの作品を展開していることがわかるアルカベッツ。自分の絵のスタイルにこだわらない短編作家でもあり、観客の知覚を揺さぶる系統の実験作品も多く作っている彼は、アニメーションという表現形態に対してかなり意識的に違いないし、アニメーションとは何かということについて考え抜いているはずの作家であるように思われたので講演にも期待していたのだけれども、見事にそれに応えてくれた。
 アニメーションと実写は何が違うのかという論点に沿って、いくつかの仮説を提示するという構成になっていたこの講演。アルカベッツが「アニメーションらしい」例としてまず選んだのは、ミハエラ・パヴラートヴァーの『ことば、ことば、ことば』。実際の言葉が話されるわけではなく、なんらかのかたちを取る吹き出しとして言葉が表現されていくこの作品。アルカベッツは、われわれは実生活においてこんなものを実際に目にするはずはないのに、それでも理解できてしまうという事実から、アニメーションはメタファー的な理解によって成立するものなのではないか、とまず考える。
 そこから発展して、アルカベッツはさらにアニメーションと実写との違いを挙げていく。実写映画においては、観客は登場人物がどのような人物であるのかその個別性を理解し、それに対して同一化する必要があるのに、アニメーションにおいては違う。アニメーションには(ある程度の生涯を重ねてきた)人物そのものではなく、記号が登場しうる。(パルンが二日目に語っていたのと同じ指摘だ。)登場人物に強烈な特徴がなくとも、それどころか何の特徴を持たない登場人物を用いても成立してしまうことを指摘するのである。
 それゆえに、アニメーションに登場するのは固有で取り替えのきかない誰かではなく、より一般的なイメージである。the man, the dog, the womanではなく、a man, a dog, a woman。きわめて抽象的で一般的な何ものか。このイメージの一般性(非特定性)は、悪い場合にはクリシェ(典型表現)になってしまうが、うまく使えば非常に強力に観客に作用する。
 アルカベッツが続いて挙げる例はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットの『岸辺のふたり』。この作品に登場するのはa fatherとa daughterであり、彼らは、どんな顔をしているのかが決してわからないように、特定の誰かではなく、父と娘の一般的なイメージだ。冒頭で父親が乗って去っていくボートも、決してボートそのものではない、もっと抽象的な何かであり、どこかへ行ってしまうこと一般のメタファーである。『岸辺のふたり』はこのように、一般的で抽象的で曖昧なイメージばかりが登場する作品なのに、それでも観客は自分の経験と照らし合わせることによって、この世界を充分に理解できるのである。(ノルシュテインがこの作品のそういった性質に、巨大なタイムスケールの凝縮の可能性をみていたこともついでに思い出しておこう。)
 最後の例として挙げられたのは、ガリ・バルディンの『アダージョ』。白と灰色と黒の折り紙で折られた非常にシンプルなキャラクターと舞台設定で出来上がっており、あまりに一般的かつ抽象的な世界であるのに、物語は観客によって広く共有されているものであるので、理解が可能になっている。(アルカベッツは同時に、人形アニメーションや3DCGアニメーションにおいては、このようなメタファー性は減少しがちだとも言っていた。バルディンは立体の作家だが、その思考や作品は立体としてはかなり特殊なのかもしれない。)
 アルカベッツは、こういった作品にみられる特徴こそが、アニメーションの可能性を真に活用したものなのではないかと結論づけて話を終わらせた。
 アルカベッツ自身が講演冒頭で話した通り、今回の話はあくまで大雑把な仮説であり、精緻な議論ではないこともあり、聴衆の質問とそれに対する答えが議論をさらに深めてくれることになる。アニメーションが象徴性を用いるという旨の話を観客と作り手との間のコードの共有として理解した聴衆からは、今回の話はすべてを身振りによって表現せねばならなかったサイレント映画にも言える話なのではないかとの質問があったが、アルカベッツはそれに対しては同意しない。何も知識を共有しない観客であっても、この種の「一般的な」登場人物を用いるアニメーションは理解しうることを考えると、ここで成立しているのはコードではないのではないか、というのが彼の答えだった。講演のなかでは観客の経験によるところが大きいと話していたアルカベッツだが、アニメーションの主な観客である子どものことを考えると(当然のことながら経験は少ない)、経験というもの自体がアニメーションの理解にあたってどれだけの比重を占めるのかはまだよくわからないというのが正直なところらしい。




 アルカベッツの話をレポートのラストにしたのは、最終日の出来事だったからというのもあったが、それ以上に、アルカベッツ自身の話の内容が、この国際会議を象徴するようなものであるように思えたからだ。すなわち、アニメーションに関してなんとなくみなが思っている、それでいてまだ精緻な議論がなされていない何ものかの指摘だ。アニメーションにおいて登場するのは何らかの実体を持ったものではなく記号であり、観客との間でその記号がうまく機能してこそ、アニメーションは強力な力を持ちうるという指摘は、パルンの講演でもなされたし、より大きな文脈で考えるとオライリーの講演もまた同じ列に捉えうる。記号を「そのものではないもの」として捉えれば、ディテールの選択などによって、そこには本来存在しないはずの全体性というものの表現を志向しようとするノルシュテインの考えもまた包括しうる。(『草上の雪』における「アニメーション=文学・演劇」論や『話の話』の「永遠」についての記述はアルカベッツの議論とストレートにつながってくる。)
 もちろん今回レポートする対象としてピックアップした講演以外にも、興味深いプレゼンテーションは多くあった。ジョルジョ・シュヴィッツゲーベルやノーマン・ロジェが自作を振り返る講演は、彼らの作品を理解するうえで非常に重要な「一次資料」として役立つものだっただろう。しかし、こういった話は映画祭の回顧上映の付録のトークでも聞ける。
 今回ピックアップした講演のすべては、「アニメーションとは何か」という非常に大きな問いに真っ向から答えようとする意志の感じられるものであり、こういった話は上映は最小限に留められとにかく言葉のプレゼンテーションを突き詰めていったこの場所でこそ可能になったものである。そういった講演の射程は広く、それぞれの作家たちの作品の分析のみに有効なのではない。(アルカベッツに至っては自分の作品については一言も触れなかった!)かといって曖昧な精神論や理念へと逃げ込むわけではなく、極めて実践的な理論を将来的に構築するのに役立つものとなる予感をひしひしと感じさせるものばかりだった。もちろん、議論は大雑把で使われる言葉はまだまだ感覚的だ。しかし、世界中の一流の作家陣が一堂に会し「アニメーションとは何か」ということについて自作を離れた射程を持った言葉が発せられたこのイベントは、アニメーションについて考える人々にとって、将来必ずや重要な第一歩として記憶されていくものとなるに違いない。
 今回の会議で語られた新しくもスタンダードな言葉は、アニメーションとはいったい何なのかについて、絵や無生物が動くだとか魂を吹き込むだとかそれに類するクリシェを更新する可能性をもったものである。アニメーションが真に重要とするものは何か。空想上の設定に基づいて具体的な人間の存在を移植したキャラクターやパーソナリティを動かしていくようなものはアニメーションのひとつの可能性にすぎない。アニメーションはより抽象的な何ものかが闊歩しうる領域なのだ。具体性を欠いていても、それでも観客はその世界を何らかのリアルなものとして感じうるし、むしろ他の芸術が持つ具体性の制約を軽々と飛び越え、より大きな何ものかを感覚させることができる。(ああ、この場にハーツフェルトがいたなら……)短編アニメーションという領域に関わる人を特別に集めたからこそ明らかになったアニメーションに対する理解。LIAAが最も未踏かつ最もエキサイティングな領域としてのアニメーションの姿を一瞥させてくれたのは間違いない。(終わり)

土居

        2010-01-03        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(5):デイヴィット・オライリー「アイディアと物語、その3Dアニメーションへの適用」

 2009年のアニメーション・シーンの新星デイヴィッド・オライリーは、今回のLIAAでおそらく最も若い講演者だったろうが、彼はその若さという特権を最大限に活用するかのごとく、アニメーション界で無意識的に共有されている前提を疑いながら、制作に対する自らの信条をとにかく追求しつづける、早口でエネルギッシュなスピーチを展開した。(主催者側は今回のすべてのプログラムを録画しているのだが、オライリーは右へ左へと自在に動き回るので、カメラマンが非常に大変そうだった。)
 話の中心となるのは、Animations本ホームページにもアップした「アニメーション基礎美学」と被る内容だったが、実際に本人を目の前にして彼の話しぶりを目にしてみると、彼の興味関心の中心が一体どこにあるのかが浮き彫りとなっていた。それはこれに尽きる――人工的(アーティフィシャル)であることがアニメーションにおいて持つ未踏の豊かな可能性。
 かつては解剖学的に正確なヴィジュアルを好んでいたという彼は、池田亮司の音楽の影響から、一転、人工的な表現の追求を志向するようになったという。オライリーは基調講演でノルシュテインがコンピュータ・アニメーションが作り出す作品の魂のなさを指摘していたことをナイーブな見方だと批判し、コンピュータによって生成された「冷たい」イメージを用いたとしても、エモーショナルな作品は作りうると主張する。
 しかし、オライリーといえども、現実模写的な可能性にそれを見いだしているわけでもない。逆に、アナログ感を再現することに見いだすわけでもない。
 一般的に、アニメーションにおいては、人の手が入っているもの、人間的な温かみを案じさせるものが真正(オーセンティック)なものであるとみなされがちだと前置きをしたうえで、オライリーは、『プリーズ・セイ・サムシング』はそういった考え方への反抗だと語る。プレビュー用のレンダリングの画質で作られたこの作品が証明するのは、作品が真正でリアルな作品となる条件は、解剖学的にリアルであること(見た目がリアルであること)でも、人間の手が多く加わっていることでもなく、作品の内部の要素が互いにきちんと接続しあっていること(「アニメーション基礎美学」で「一貫性」とよばれているもののことだろう)である。それがあるからこそ、観客は作品世界に没入しうるし、作品と観客との間にはエモーショナルなやり取りが成立しうる。
 こんなふうな考えをバックグラウンドとして、オライリーは、『プリーズ・セイ・サムシング』という3DCGアニメーション作品においては、とにかく良い物語を語ることに重点を置く。アニメーションの魔術的な側面を強調するのでもなく、どんなふうに作られたのかという次元に注目させることでもなく(「粘土についた指紋を見るために観客は劇場に行くのではない」というようなことも言っていた)、物語を語り、そこに観客を引き込むために、一貫性を持って構築された世界を作り出す。(それによって、ラフな見た目であっても作品世界はリアリティを獲得する。)それは、3DCGアニメーションにおいて個人作家がなしうることについての、オライリーなりのひとつの回答である。
 彼の考えがかなり直接的に披露された今回の講演は、彼の作品の持つ何かしらの新しさの感覚がどこに端を発するかを少しばかりではあるが説明してくれるものであったようにも思われる。言葉を持つ短編アニメーション作家というのは今のところかなり少ない。しかし、オライリーはそれを持っている。しかも、彼の言葉は、曖昧で既視感に溢れたものになりがちな芸術家的な理念ではなく、かといって作品の貧弱さを隠すようなものでもなく、作品の豊かなバックグラウンドとなるような、実践に即したかたちでの理論を語る言葉だ。みなが優れた作品を観たときにモヤモヤと感じとることを、言葉というかたちにして語ることができる作家だ。それだからこそ、アニメーションに関わる者たちが無意識的に共有してしまうクリシェをひっくり返し、アニメーションに対する新たな考え方を芽生えさせる。
 この講演のなかで、オライリーは、『戦場でワルツを』に対する批判的なコメントをはっきりと語った。このドキュメンタリー・アニメーションについては、たとえば、アニメーション部分のアニメーションとしての貧弱さに対する批判はいろいろなところで耳にする。しかし、オライリーが語ったのは、それとはまた別の角度からのものだった。とある重要なシーンで実写映像を用いたことに対して、彼は「制作者たちは実写を用いないとドラマチックなものは作りえないと思っている。アニメーションの力を信じていない」というようなことを言うのである。
 個人的な意見を言わせてもらえば、『戦場でワルツを』の実写シーンはそれ自身としての根拠を持っている。(ハーツフェルトの近作が実写を用いるのと同じ使い方だ。)あれ以外のやり方はありえないと思う。オライリーの批判は、何ら根拠を持たない絵空事のようなものに思えてしまう。でも、なぜだか彼のこの言葉を聞いて、興奮を覚えてしまったのも確かである。この闇雲なまでに熱い男であれば、もしかしたらこれまで誰も用いることのなかったかたちでアニメーションを用いるやり方を発見し、途方もなくドラマチックななにものかを作り出してしまうのではないか、そんなほのかな期待感を感じてしまったのだ。少なくとも、LIAA全体で発せられた、最も勇気を与えられるコメントのひとつとして、深く心に残ったのは確かだ。

(続く:次回のエントリがLIAAレポートのラストです。)

土居

        2010-01-02        東京国立近代美術館にて「ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」開催中

みなさんあけましておめでとうございます。
今年はいろいろとやろうと思っています。
広島はもちろんですが、日本の短編アニメーションの世界でもいろいろな動きが見れる年になりそうですよ。

LIAAのレポート中断していてすいません。年末年始は頭がどうもボケます。
忘年会続きで体調を崩したのもありますけど……

とりあえずお知らせです。

本日(1/2)から、東京国立近代美術館にて「ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」が始まっています。ケントリッジについてはいまさら説明もいらないでしょうが、Animationsで取り上げたことはないかもしれませんね。南アフリカ共和国の現代美術作家で、日本ではすでに「プロジェクションのための9つのドローイング」というアニメーションのシリーズが何度も紹介されていることもあり、かなり著名であるといえるでしょう。そんな彼の、日本での初めての大規模な個展です。

すでに京都国立近代美術館の開催は終わっており(東京の情報しかとりあげずすいません……)、僕はすでにそちらの方でみさせてもらっています。非常に骨太の展覧会で、行かなきゃ損です。東京の方がどうなっているのかは未確認ですが、「プロジェクションのための9つのドローイング」シリーズは、巨大な一部屋に9つの作品が集められていて壮観です。「音が混じっちゃうんじゃないの?」と危惧される方もいるかもしれませんが大丈夫です。無線レシーバーつきのヘッドホンが手渡され、それぞれのスクリーンの前で各自がチャンネルを合わせるようになっています。

今回の個展では、「プロジェクションのための9つのドローイング」以外の活動も網羅されています。メリエス、人形劇、影絵……などなど、アニメーション好きにとってはたまらないテーマの作品が揃っています。映像作品も豊富ですので、3時間ほど使うつもりで行かれるのがよいのではないでしょうか。

ちなみに、東京国立近代美術館のニューズレター「現代の眼」579号に、「定点観測――『プロジェクションのための9つのドローイング』について」という小論を寄稿させていただきましたので、こちらもチェックしていただければ嬉しいです。ミュージアム・ショップで販売中です。

東京会場をチェックしてまたレポートを書きたいと思っています。

美術館でのアニメーション関連の展示といえば、東京都写真美術館にて「躍動するイメージ。石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」が開催中です。こちらも未見ですが、近いうちに行く予定です。去年ビックフォードを紹介してくれた恵比寿映像祭、もうすぐですけど、こちらもまた楽しみです。アニメーション関連でいえば、『コピーショップ』『ファスト・フィルム』でおなじみのヴィルギル・ヴィードリッヒ作品の上映があるようです。

土居

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