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        2009-08-25        ASK映像祭2009

大山慶『HAND SOAP』については長くなりそうだったので(実際長くなったので)別エントリにしましたが、ASK映像祭のその他についても少々。

Dプログラム、「最新の実験映像セレクション」から。
辻直之『エンゼル』は、近美の「ストーリーテリング」展、恵比寿映像祭に続いて三度目の鑑賞で、一度このブログでも少しだけ書いていますが、もう一度。前作の『影の子供』では脅威を感じさせたあの黒の絶対性・敵対性が、この『エンゼル』では今度はうってかわって、すべての感情を宿しているような母胎のようなスケールの大きさを感じさせました。天使たちのトランプから生まれたあの三匹の子供たちが、ハープを奏でる女性のもとで踊る息のあったダンス、あの多幸感は、切迫感と強迫観念的なものを与えつづけてきたこれまでの辻作品との対比において、余計に素晴らしいものとなりました。(ラストシーンの親子三人の構図と響きあいます。)これまでに比べて、より確かなものとなった描線の強さも含め、なんらかの手応えを感じることのできる作品であったような気がします。上甲トモヨシ『LIZARD PLANET』については以前書いています。

Eプログラム「2009年映像コンペティション作品」から、印象に残ったアニメーション作品をいくつか。
岩崎宏俊『Between Showers』は、中田彩郁やトッカフォンド、もしくはウェンディ・ティルビー&アマンダ・フォービスによるユナイテッドのCMを思わせるような、デザイン性の高いロトスコープ・アニメーションでした。植草航『向ヶ丘千里はただ見つめていたのだった』は、工芸大の卒制でみたときは少々身構えてしまいましたが、その後何度か観る機会があり、ようやく自分のなかで位置づけることができました。アニメーションや音楽は本質的に官能的な者なのだと思うのですが、この作家はそのことをとてもよく理解していると思います。冒頭の公園での暴れ回りシーンは何度観ても心地よいです。その後はシーンごとにかなりクオリティにばらつきがあるように思えますが、音との(文字通りではない)シンクロも含め、躁鬱の疾走感を堪能できます。今っぽい作品は数あれど、通俗性も含め今そのものを的確に切りとった作品は短篇アニメーションではなかなかみられません。さらにプラスして、得体の知れない作家自身のパッションのようなものも感じます。そういう意味で、非常に希有な作品だなあと思うようになりました。今津良樹『アトミックワールド』は冒頭30秒のスケールに圧倒されましたが、その後は結構ベタな諷刺性を身にまとってしまってダイナミズムが消えてしまったのが残念でした。水江未来『JAM』は今回の上映環境ではまともに評価できるような状態にはなっていませんでしたが、別の機会に高画質のものを観る機会があったのでそれに基づいて書きますが、今回の『JAM』は圧倒的な迫力はあるものの、すべてが足し算だけで出来上がっているような気がしてしまい、そこが残念な気がしました。(アニメーションはやはり変容でありかけ算なんじゃないかと思います。)かつての作品ではあった、キャラクターたちがなにか他の法則に取り憑かれてしまったかのような動きの官能性が消えてしまっているような気がしました。飯田千里『おまつりのよる』は、チャーリー・ブラウンのアニメーションに影響を受けている印象を受けました。日本の作品にはあまり例のないもののように思えるので新鮮でした。

ASK映像祭、毎年面白いのですが、今年は他の会場で観たことのあるものが多かったせいか、全体的に、上映会場が作品の要求する環境に達していないように感じました。映像を取り扱うことの多いギャラリーなので、なんとか改善してほしいなあ、というのが正直なところでした。

26日、明日までです。

土居
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        2009-08-25        日常の賢人――大山慶『HAND SOAP』

雪の降る冬の日に目覚めたときの空気感。いつもとなにかが違うあの感覚は、毎日生きているので飽きてしまったのか、いつの間にかその存在を忘れてしまう本当の生というものの姿を思い出させる。慣れ親しんでいるものにあまりに慣れ親しみすぎて、もしくは慣れ親しみたくなくて忘れていたものの存在を思い出させる契機になる。気付かなくても本当は問題ないはずのものに、もう一度、気付かせる。

親しんでいるのに忘れるもの。たとえば、冬のカサカサの肌はちぎれるように痛み、その下にじくじくとした血をにじませることを思い出す。そのなんとも言いようのない質感。乾いていて、そして湿っている。投げつけられたカエルの死体がこびりつかせる血は内臓を含んで赤なのか黒なのかわからない。それから、ニキビから出てくる膿。『ゆきちゃん』のような絶対的で美しくさえあるような死ではなく、生のだらしのない残骸であることをやめてくれない死としての膿。決して純粋ではなく、どろりとした粘液の存在感。すぐさまティッシュで拭き取ってしまいたくなってしまうようなこんな厄介な液体たちのドロドロ感。ハンドソープというタイトルはそんな質感によく似合う。けだるくてだらしのない、贅肉としての生のあり方。

『HAND SOAP』の中心となる家族もまただらしがない。いくつかのシーンはコヴァリョフの『ミルク』を思い出させもするが、『HAND SOAP』では、あれほど(あれよりもさらに!)劇的なことは起こらない。不倫などというのは『HAND SOAP』の父親にとっては夢物語でありあまりにリアリティがないので妻の大きなホクロを舐める。娘はつながらない(つなげられない)電話の存在を保留にしながら両親のセックスをみつめる(自分と彼が結ばれるなんて夢物語だから)。少年はAVを観て女子高生の太ももを夢見るだけ(彼は何かを夢物語と思うところにさえ辿り着いていない)。

『HAND SOAP』が描き出すのは、あまりにも見慣れてしまった散文的な世界。『HAND SOAP』がだらしないのはこの世界がだらしないから。『HAND SOAP』が汚らしいのはこの世界が汚らしいから。『HAND SOAP』が息苦しいのはこの世界が息苦しいから。『HAND SOAP』が得体のしれないものなのはこの世界が得体が知れないから。『HAND SOAP』が情けなくて同時に思わず笑ってしまうようなものなのは、この世界が情けなくて同時に思わず笑ってしまうようなものだから。『HAND SOAP』はこの世界のトートロジー。ちっとも形而上学的でなく、そこにある世界。普段自分たちが生きていると思い込んでいる世界のニセの表皮をべらりとめくり、自分たちが本当に生きている世界を見いださせる。そんな世界に生きていることをすっかり忘れてしまっていた世界だ。雪が世界を少しだけ変えることで気付く世界。

『ゆきどけ』の冒頭で少年が窓の外を懸命に見つめていた姿が象徴するように、大山慶は凝視する作家だ。決して俯瞰などはせず、近視眼的に見つめつづける。だから忘れていたり気付かないようになってしまったものに再びフォーカスがあてられる。しかしだからといって、彼に気付かれた世界が彼によって了解されているかといえばそれはまた別のお話。本当に生きている世界を見いだしたところで、それが了解できるかといえば、できないのだ。『HAND SOAP』のイジメられっ子の少年にとって世界はわからないことが多すぎる。あまりに多すぎて、わからないのかどうかさえわからない(もしくは気付いていない)。うじむしのような自分の性器もよくわからない。そこを中心になにかよくわからない力が自分を翻弄するのも感じてしまう。笑ったところでカエルはずっと投げつけられつづける。アイドルが歌う曲は、耳をホワホワして聴くと変に聞こえる。だから何というわけではないが。彼にとって響く世界だけでホワホワとする。それが耳にこびりつき、眠りに落ちる少年の夢と覚醒のはざまで、○○○の○○○として再び蘇る。それは彼にとって充分にリアルな世界。(そういえば、誰かにとっての散文的な世界の表現は、現代アニメーションにとって重要なトピックのひとつだった。)

主人公の少年は、かっこよくなくて、いじめられたりするような人間だけれども、彼はそれゆえに、この世界が自分の思い通りにならないものであることを知っている。この世界が自分のために存在しているのではないことを知っているのだ。つまり彼は賢人だ。『ゆきどけ』の最初と『HAND SOAP』の最後はともに窓の外を眺めるが、それは、この少年たちは、自分があくまで世界の断片であることを無意識的に知っているからだ。性であったり生の残骸のような死であったりいじめっ子であったり、理解することのできないそんな諸力が外から自分の世界に襲いかかってくることをわかっているからだ。

自分が起きようが眠ろうが関係なく降り注いでいる雪。それが感じさせるあの寒い日の絶対的な感覚は、世界自体がもつ掴みきれない手触りを持っている。人によってはそれは恐怖である。しかし『HAND SOAP』の少年は、そんな外の世界を眺めて微笑む。掴めないことなんてとっくに知っているから。自分の外に世界があるなんてとっくに知っているから。『ゆきどけ』の少年はよくわからない世界に襲われて叫び出したが、今はもうそうではない。『HAND SOAP』の少年は、自分の外に世界があること、そして自分の内側にもだらしがなくて厄介な生があることを知っている。そこにあるものをそこにあるものとして見つめている。ラストの少年の微笑みは、この世界のなんたるかをわかっている(そして同時に了解はできていない)賢人の笑みに近い。彼が微笑むその表情自体は正直ムカッとくる。でも同時に納得したりカタルシスさえ感じてしまうのは、僕らもまたみな、こんな世界に生きていることを、この少年と同様に知っていて、彼のように誰もみていないところで微笑むことがあるからだ。

微笑む彼が見つめる主観ショットは、大山慶史上最も壮大なショット。しかし結局、神の視点までは辿り着くことがないほどのもの。でも、それだけで充分に広い。それは彼にとっての世界全体だから。その世界全体で、差別という概念を知らない雪はあらゆるものに無差別に降り注ぐ。ゆきどけによって溶けて剥き出しになったものを再び覆い隠す。でももう問題はない。きれいな世界に生きたがる僕たちはきっとまただらしがなくて厄介な生の姿を忘れてコーティングするだろう。でも、その姿についてもう充分に思い出し、知っている。おそらく、『HAND SOAP』は大山慶という作家のひとつのサイクルを閉じるような作品だろう。雪が溶けたりまた降り始めたりする、そんな円環。ぐるりとひとまわりすれば、スタートとゴールは同じ位置だけど、以前とはもう違う。その道行きで出くわすものすべてを知っている。

ASK映像祭2009「Dプログラム 最新の実験映像セレクション」にて上映中(8/24-26)。

土居

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