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        2009-08-29        『 外 套 』 第 一 部 完 成 ( ? )

ノルシュテイン来日のお話はしたばかりですね。

展覧会がある、という話はきいていました。

しかし、

http://www.junkudo.co.jp/event2.html

ここを見るとですね


>ゴーゴリ『外套』を題材にアニメーションに取り組んで29年――
>少年時代に読んで味わった恐怖心・・・・・・以来、我が身に主人公アカーキー・アカーキエヴィチを抱え『外套』のワンフレーズが映像に拡大・発展していく
>このたび第一部を完成させたロシア・アニメーションの神様に長年惹きつけられる『外套』の魅力、その制作秘話をきく!

「え?」と思いました。

>このたび第一部を完成させたロシア・アニメーションの神様に長年惹きつけられる『外套』の魅力、その制作秘話をきく!

>このたび第一部を完成させた
って書いてないですか?
気のせいですか?

気のせいならいいんですけど。

ロシアのアニメーション情報サイトにも書いてない情報ですから本当なのかわかりませんが

少なくとも上のサイトには

>このたび第一部を完成させた

って書いてありますよね?

できたできた詐欺に騙されつづけてきた僕ですから
慎重になりますけど

今回は信じていいんですか?

続報を待ちましょう。

ああ、上のトークセッション、僕はもう申し込んだんで、安心してお知らせできます。
みなさんも是非。40席ですからすぐ終わっちゃいますよ。
ああ、なんとなくジュンク堂で検索かけてみてよかった……!

10月5日~24日にムサビ内のギャラリーで
来年4月には神奈川県立近代美術館で
『外套』に関する展示があるみたいです。



で、『外套』第一部の日本公開はいつですか。
ロシアでもいいよ……行くから教えてくれよ……

いつですか。

土居

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        2009-08-25        ASK映像祭2009

大山慶『HAND SOAP』については長くなりそうだったので(実際長くなったので)別エントリにしましたが、ASK映像祭のその他についても少々。

Dプログラム、「最新の実験映像セレクション」から。
辻直之『エンゼル』は、近美の「ストーリーテリング」展、恵比寿映像祭に続いて三度目の鑑賞で、一度このブログでも少しだけ書いていますが、もう一度。前作の『影の子供』では脅威を感じさせたあの黒の絶対性・敵対性が、この『エンゼル』では今度はうってかわって、すべての感情を宿しているような母胎のようなスケールの大きさを感じさせました。天使たちのトランプから生まれたあの三匹の子供たちが、ハープを奏でる女性のもとで踊る息のあったダンス、あの多幸感は、切迫感と強迫観念的なものを与えつづけてきたこれまでの辻作品との対比において、余計に素晴らしいものとなりました。(ラストシーンの親子三人の構図と響きあいます。)これまでに比べて、より確かなものとなった描線の強さも含め、なんらかの手応えを感じることのできる作品であったような気がします。上甲トモヨシ『LIZARD PLANET』については以前書いています。

Eプログラム「2009年映像コンペティション作品」から、印象に残ったアニメーション作品をいくつか。
岩崎宏俊『Between Showers』は、中田彩郁やトッカフォンド、もしくはウェンディ・ティルビー&アマンダ・フォービスによるユナイテッドのCMを思わせるような、デザイン性の高いロトスコープ・アニメーションでした。植草航『向ヶ丘千里はただ見つめていたのだった』は、工芸大の卒制でみたときは少々身構えてしまいましたが、その後何度か観る機会があり、ようやく自分のなかで位置づけることができました。アニメーションや音楽は本質的に官能的な者なのだと思うのですが、この作家はそのことをとてもよく理解していると思います。冒頭の公園での暴れ回りシーンは何度観ても心地よいです。その後はシーンごとにかなりクオリティにばらつきがあるように思えますが、音との(文字通りではない)シンクロも含め、躁鬱の疾走感を堪能できます。今っぽい作品は数あれど、通俗性も含め今そのものを的確に切りとった作品は短篇アニメーションではなかなかみられません。さらにプラスして、得体の知れない作家自身のパッションのようなものも感じます。そういう意味で、非常に希有な作品だなあと思うようになりました。今津良樹『アトミックワールド』は冒頭30秒のスケールに圧倒されましたが、その後は結構ベタな諷刺性を身にまとってしまってダイナミズムが消えてしまったのが残念でした。水江未来『JAM』は今回の上映環境ではまともに評価できるような状態にはなっていませんでしたが、別の機会に高画質のものを観る機会があったのでそれに基づいて書きますが、今回の『JAM』は圧倒的な迫力はあるものの、すべてが足し算だけで出来上がっているような気がしてしまい、そこが残念な気がしました。(アニメーションはやはり変容でありかけ算なんじゃないかと思います。)かつての作品ではあった、キャラクターたちがなにか他の法則に取り憑かれてしまったかのような動きの官能性が消えてしまっているような気がしました。飯田千里『おまつりのよる』は、チャーリー・ブラウンのアニメーションに影響を受けている印象を受けました。日本の作品にはあまり例のないもののように思えるので新鮮でした。

ASK映像祭、毎年面白いのですが、今年は他の会場で観たことのあるものが多かったせいか、全体的に、上映会場が作品の要求する環境に達していないように感じました。映像を取り扱うことの多いギャラリーなので、なんとか改善してほしいなあ、というのが正直なところでした。

26日、明日までです。

土居

        2009-08-25        日常の賢人――大山慶『HAND SOAP』

雪の降る冬の日に目覚めたときの空気感。いつもとなにかが違うあの感覚は、毎日生きているので飽きてしまったのか、いつの間にかその存在を忘れてしまう本当の生というものの姿を思い出させる。慣れ親しんでいるものにあまりに慣れ親しみすぎて、もしくは慣れ親しみたくなくて忘れていたものの存在を思い出させる契機になる。気付かなくても本当は問題ないはずのものに、もう一度、気付かせる。

親しんでいるのに忘れるもの。たとえば、冬のカサカサの肌はちぎれるように痛み、その下にじくじくとした血をにじませることを思い出す。そのなんとも言いようのない質感。乾いていて、そして湿っている。投げつけられたカエルの死体がこびりつかせる血は内臓を含んで赤なのか黒なのかわからない。それから、ニキビから出てくる膿。『ゆきちゃん』のような絶対的で美しくさえあるような死ではなく、生のだらしのない残骸であることをやめてくれない死としての膿。決して純粋ではなく、どろりとした粘液の存在感。すぐさまティッシュで拭き取ってしまいたくなってしまうようなこんな厄介な液体たちのドロドロ感。ハンドソープというタイトルはそんな質感によく似合う。けだるくてだらしのない、贅肉としての生のあり方。

『HAND SOAP』の中心となる家族もまただらしがない。いくつかのシーンはコヴァリョフの『ミルク』を思い出させもするが、『HAND SOAP』では、あれほど(あれよりもさらに!)劇的なことは起こらない。不倫などというのは『HAND SOAP』の父親にとっては夢物語でありあまりにリアリティがないので妻の大きなホクロを舐める。娘はつながらない(つなげられない)電話の存在を保留にしながら両親のセックスをみつめる(自分と彼が結ばれるなんて夢物語だから)。少年はAVを観て女子高生の太ももを夢見るだけ(彼は何かを夢物語と思うところにさえ辿り着いていない)。

『HAND SOAP』が描き出すのは、あまりにも見慣れてしまった散文的な世界。『HAND SOAP』がだらしないのはこの世界がだらしないから。『HAND SOAP』が汚らしいのはこの世界が汚らしいから。『HAND SOAP』が息苦しいのはこの世界が息苦しいから。『HAND SOAP』が得体のしれないものなのはこの世界が得体が知れないから。『HAND SOAP』が情けなくて同時に思わず笑ってしまうようなものなのは、この世界が情けなくて同時に思わず笑ってしまうようなものだから。『HAND SOAP』はこの世界のトートロジー。ちっとも形而上学的でなく、そこにある世界。普段自分たちが生きていると思い込んでいる世界のニセの表皮をべらりとめくり、自分たちが本当に生きている世界を見いださせる。そんな世界に生きていることをすっかり忘れてしまっていた世界だ。雪が世界を少しだけ変えることで気付く世界。

『ゆきどけ』の冒頭で少年が窓の外を懸命に見つめていた姿が象徴するように、大山慶は凝視する作家だ。決して俯瞰などはせず、近視眼的に見つめつづける。だから忘れていたり気付かないようになってしまったものに再びフォーカスがあてられる。しかしだからといって、彼に気付かれた世界が彼によって了解されているかといえばそれはまた別のお話。本当に生きている世界を見いだしたところで、それが了解できるかといえば、できないのだ。『HAND SOAP』のイジメられっ子の少年にとって世界はわからないことが多すぎる。あまりに多すぎて、わからないのかどうかさえわからない(もしくは気付いていない)。うじむしのような自分の性器もよくわからない。そこを中心になにかよくわからない力が自分を翻弄するのも感じてしまう。笑ったところでカエルはずっと投げつけられつづける。アイドルが歌う曲は、耳をホワホワして聴くと変に聞こえる。だから何というわけではないが。彼にとって響く世界だけでホワホワとする。それが耳にこびりつき、眠りに落ちる少年の夢と覚醒のはざまで、○○○の○○○として再び蘇る。それは彼にとって充分にリアルな世界。(そういえば、誰かにとっての散文的な世界の表現は、現代アニメーションにとって重要なトピックのひとつだった。)

主人公の少年は、かっこよくなくて、いじめられたりするような人間だけれども、彼はそれゆえに、この世界が自分の思い通りにならないものであることを知っている。この世界が自分のために存在しているのではないことを知っているのだ。つまり彼は賢人だ。『ゆきどけ』の最初と『HAND SOAP』の最後はともに窓の外を眺めるが、それは、この少年たちは、自分があくまで世界の断片であることを無意識的に知っているからだ。性であったり生の残骸のような死であったりいじめっ子であったり、理解することのできないそんな諸力が外から自分の世界に襲いかかってくることをわかっているからだ。

自分が起きようが眠ろうが関係なく降り注いでいる雪。それが感じさせるあの寒い日の絶対的な感覚は、世界自体がもつ掴みきれない手触りを持っている。人によってはそれは恐怖である。しかし『HAND SOAP』の少年は、そんな外の世界を眺めて微笑む。掴めないことなんてとっくに知っているから。自分の外に世界があるなんてとっくに知っているから。『ゆきどけ』の少年はよくわからない世界に襲われて叫び出したが、今はもうそうではない。『HAND SOAP』の少年は、自分の外に世界があること、そして自分の内側にもだらしがなくて厄介な生があることを知っている。そこにあるものをそこにあるものとして見つめている。ラストの少年の微笑みは、この世界のなんたるかをわかっている(そして同時に了解はできていない)賢人の笑みに近い。彼が微笑むその表情自体は正直ムカッとくる。でも同時に納得したりカタルシスさえ感じてしまうのは、僕らもまたみな、こんな世界に生きていることを、この少年と同様に知っていて、彼のように誰もみていないところで微笑むことがあるからだ。

微笑む彼が見つめる主観ショットは、大山慶史上最も壮大なショット。しかし結局、神の視点までは辿り着くことがないほどのもの。でも、それだけで充分に広い。それは彼にとっての世界全体だから。その世界全体で、差別という概念を知らない雪はあらゆるものに無差別に降り注ぐ。ゆきどけによって溶けて剥き出しになったものを再び覆い隠す。でももう問題はない。きれいな世界に生きたがる僕たちはきっとまただらしがなくて厄介な生の姿を忘れてコーティングするだろう。でも、その姿についてもう充分に思い出し、知っている。おそらく、『HAND SOAP』は大山慶という作家のひとつのサイクルを閉じるような作品だろう。雪が溶けたりまた降り始めたりする、そんな円環。ぐるりとひとまわりすれば、スタートとゴールは同じ位置だけど、以前とはもう違う。その道行きで出くわすものすべてを知っている。

ASK映像祭2009「Dプログラム 最新の実験映像セレクション」にて上映中(8/24-26)。

土居

        2009-08-20        『屋根裏のポムネンカ』(イジー・バルタ)

遅ればせながら、イジー・バルタの新作長編人形アニメーション映画『屋根裏のポムネンカ』を観てきました。

社会主義時代の遺物の彫像フラヴァ率いる悪の帝国にさらわれた、アイドルであるポムネンカをガラクタたちみんなが救いにいくという物語です。

ただ、そのプロットが容易に想像させるような、「古いものに目を向けましょう」「人間は大切なことを忘れています」みたいなお説教臭いメッセージの込められた作品ではまったくありません。古さをナイーブに賞賛するのでなく、整っていて新しい世界もまた何の違和感もなく共存しています。人間が騒動を広げる原因になったとしても、ガラクタたちは「人間どもめ」などと言うこともなく、それがあたかも雨のような自然現象であるかのごとく、受け入れます。雑多なものが調和して、ひとつの有機的な世界観をつくりあげているのです。

雑多さの調和は技術的なところにまで及びます。基本的には人形アニメーションですが、使われている素材は実にいろいろです。手法もいろいろです。普通の人形も、粘土、うまいこと力の抜けたドローイングも、実写も、コンピュータ・エフェクトの加工も、考えうるかぎりのあらゆるアニメーションが投入されているのですが、驚くほどに違和感を感じさせません。

なぜこのようなことが可能になっているのかというと、それはバルタが、アニメーションが作り手と観客との約束事の共有による一種の「遊び」(ルールのあるゲーム)であることを存分に理解し、それを活かしたからだと思われます。巷では「アニメーションは自由だ」とよく言われますが、実際出来上がっているものの9割以上は、その自由を謳歌しません。アニメーションは「みなし」の芸術なのに、リアリティは流動的に多数共存しうるのに、なぜかひとつのリアリティで固定してしまうアニメーションが実際作られたものをみると多いです。バルタはこの作品で、アニメーション制作が陥りがちな、その無意識の呪縛の罠から抜け出し、アニメーションが(極端に言えば)一コマごとに約束事(みなし)の働きを変容させうることを存分に活用しています。だからこそ、バリバリの人形アニメーションも、緩いドローイング・アニメーションも(クマの夢のシーンは最高に気持ちいいです)、実写も(フラヴァの最期のダイナミズム! 『笛吹き男』やリホ・ウントを思い出します)、何の違和感もなく混じりあっています。「なんとアニメーションと実写が!」みたいに構えるのではなく、「ここはアニメーションでやるといいよね」「ここは実写だといいよね」ととてもさりげなく混ぜ混ぜしているのです。向こうがきちんとしたルールの世界を提示してくれるので、観客も困惑することなく、このような「実験的な」やり方を受け入れることができます。バルタは、「このシーンにはどんなアニメーションのやり方がふさわしいか」「この素材にはどんな動かし方がふさわしいか」、そんなようなことをきちんと考えています。まあ、それを考えるのは当たり前のことなわけですが、『ポムネンカ』のバルタがすごいのは、彼の出す答えがいちいちど真ん中ストライクだからです。『ポムネンカ』におけるバルタは、「ミスター正解」です。

この作品ではガラクタたちの暮らす世界やガラクタたち自身の生命感と魅力が素晴らしいですが、それは、彼らが生きる世界自体のルールもきちんと定められていて、滞りなく実行されているからです。ガラクタたちが暮らす世界は、装飾がときに平面のドローイングになっていたりして、食べ物も紙に描いたもののときもあったりして、実に適当です。しかし、当の本人たちがそれでオッケーならばいいので問題ありません。むしろ、ロマン・カチャーノフの作品を思わせるような意識的な背景の作りかたがされており、気にするところは気にするけど、気にしないところはとことん気にしない、というその曖昧さ具合が、近視眼的でそれゆえに愛らしいキャラクターたちの生きる「遊び」の世界をきちんと表現しきっています。

クラソンというマリオネットのキャラクターが、「信じることがわしたちの力だからな」という台詞を言うシーンがありますが、まさに彼らが自分たちが生きていると「信じる」世界を余すところなく描ききっているわけです。(バルタはインタビューで、「ポムネンカは”こわい”という感情を理解できない、無知のキャラクター」と言っていますが、つまりはそういうことです。)バルタはもうこの作品で充分に「ゴーレム」を作ってしまっているのではないでしょうか?(ご存知の通り、彼は20年近くものあいだ『ゴーレム』という幻の長編作品に取り組んでいます。)

悪役たちの気持ち悪さも必見です。笑える気持ち悪さで、「キモイ」という言葉がぴったりとあてはまります。ポムネンカの無限増殖や、時計の罠など、背筋をヒヤリとさせるようなシーンも多いです。

春の来日時のトークによれば、バルタ自身は『ポムネンカ』をそれほど積極的に作りたがっていたわけではなかったようですが、むしろそれくらいの距離をとったことが非常に風通しをよくしている印象がありました。「子どものために」「たくさんの観客に向けて」というはっきりとした目的意識が、バルタ生来の生真面目さとうまくマッチしたという感じでしょうか。(この生真面目さは、これまでの作品ではときおり息苦しさを生む原因となっていたと思います。ほとんど誰も語らない2006年のMagic Houseのオチは本当にひどかった……)

鑑賞後には、アニメーションらしいアニメーションを観たなあ、という充実感を得ることができるのではないでしょうか。『ポムネンカ』は、アニメーションの「遊び」としての側面をきちんと考え抜いた非常に軽やかな作品です。非常におすすめ!


……もうかなり長くなってしまいましたが、追記を。パンフレットのインタビューの後半部分は、ムサビでの講演でのQ&Aを採録したものだと思うのですが、その設問のひとつ、影響を受けた人物についてのところで、なぜか二つだけ名前が抜けていたのでここに書いておきます。パンフレットには、フェリーニ、ブニュエル(以上映画)、マイリンク、カフカ(以上文学)、ノルシュテイン、シュヴァンクマイエル、山村浩二(以上アニメーション)の名前が挙げられていてそこで終わりです。ムサビの講演では、さらにプリート・パルン、ピョートル・ドゥマラという名前を言っていましたので、Animations的にいちおうお知らせしておきます。抜かされてしまっている理由はなんとなく分かる気がしますが、それには屈しません。パルンもドゥマラもパンフに載っているほかの名前同様に一般常識として知られていておかしくないアニメーション作家ですから。

予告編


土居

        2009-08-14        「ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」初日決定!

ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」、
ついに東京での初日が決定しました!

9月19日(土)です!
映画館はライズX。面白い場所です。

公式ブログによれば、初日にはプレゼントもあるようで……

有名人コメントも、なんだか面白いメンツが揃ってきましたね……

東京以外も、今のところ四都市ほどで公開が決まっているようです。

是非とも足を運んでいただきたいです!

土居

        2009-08-09        無限へのベクトル――ノーマン・マクラレン・マスターズ・エディション発売記念に少しだけ

マクラレンは怖いというのが率直な感想である。例えば『数学あそび』を観て怖いと思う。『カノン』を観て怖いと思う。『つぐみ』でさえ怖いと思う。『櫂』を観て怖いと思う。なぜなら箍が外れているから。カメラの下で撮影されたこじんまりとした空間であるはずなのに、箍が外れて無限がみえてしまっているから恐ろしい。

無限とは限りがないことで、一般的にはポジティブな意味に捉えられると思う。普通人間は限りある場所に暮らしていて無限のことには気付かないので、それを気付かせてくれるという意味でのポジティブ。

しかしマクラレンが見せる無限は、限度がないこと、境界がないことは非常に恐ろしいことであるということを知らせる類いのものだ。『カノン』を再び観る。同じ原理の変奏が延々と繰り返される。短篇アニメーションは世界の原理を凝縮しうるが、その一つのやり方がベクトルを示すことだ。ベクトルは、適切に方向を示してしまえば、そしてその方向を追う気があるのならば、そのまま真っすぐ一直線に何の障害物もなく永遠に進んでいく。ある種の原理が本質を突いていれば、その原理は普遍的に適用可能になる。そんな類いのベクトル。

マクラレンのベクトルは迷いがない。
いや違う、迷っているかもしれないが、彼の身体性が、正しい方向を指してしまう。無限に、終わりない方向へ。無重力の宇宙を一定速度で飛ばされていくかのように。(そういえば『つぐみ』をはじめ、マクラレン作品にはよく宇宙が出てくる。)マクラレンは自分の作品が実験的で社会性がないことに悩み、明確なメッセージ性がこめられた『隣人』をお気に入り作品に挙げることが多かった。でも、彼の身体は、そんな悩みは実のところ彼にとっては本質的なものではないことを知っていた。

『パ・ドゥ・ドゥ』を観る。『ブラー・テスト』を観る。重ねることによって身体の境界線が消えていく。溶けていく。でもそれは気持ちよくない。心地よくない。むしろ居心地が悪い。境界が消えて心地よく思えるのは、溶けてなおそれを受け止めてくれる大皿があってのことだというのを実感する。

マクラレンの場合、無限へと向かうベクトルは、冷たい無の方に伸びていて、いつまでたっても底や境界に辿り着かないような気がする。絶対的なのだ。だからこそマクラレンは怖い。でもそれが、短篇アニメーションが辿り着きうる極北であることもまた間違いない。

今回の日本盤コレクターズエディションは、マクラレンのほぼ全作品が収録されている。
残念ながらドキュメンタリーの類いは、リマスターの際に制作されたテーマ別の短いものしか収録されていない。
でも、マクラレンのほとんどすべてが24000円で買えるなんてあまりにも安すぎる買い物。
だって一生ものだし、割引で買えば2万を簡単に切る。
手に入れましょう。

ジェネオンのDVD紹介ページ

「DVD-BOX ノーマン・マクラレン マスターズ・エディション」[Amazon]
「ノーマン・マクラレン 傑作選」[Amazon]


土居


        2009-08-08        ノ ル シ ュ テ イ ン 来 日 2 0 0 9

噂だけ先行していましたが、
ネットでちょっと検索してみたら、もう随分前に情報自体は出ていました。
ノルシュテイン、久しぶりの来日です。

情報元:ロシア文化フェスティバル2009

>30. ユーリー・ノルシュテイン「外套」原画展 (武蔵野美術大学&日本組織委員会)
>10月 5日(月)~24日(土) 武蔵野美術大学ギャラリー
>【講演会】
>10月 5日(月)
>⇒武蔵野美術大学 ホームページ

今のところ、武蔵野美術大学のホームページには詳しい情報は出ていないようです。
講演会、一般参加も可能だといいのですが……
前回は早稲田大学でも講演がありましたね。
今回もムサビ以外でさらにイベントがあればいいですね……

土居

        2009-08-07        オタワ2009

オタワ2009のコンペ作品が発表されました。

http://www.animationfestival.ca/index.php?option=com_oiaf&task=showselections&Itemid=821

長編部門はパルン&オルガの『ガブリエラ・フェッリなしの人生』、アダム・エリオットの『Marry and Max』、ヘンリー・セリックの『Coraline』など揃っているが、全体にはフェスティバル・ディレクターのクリス・ロビンソンが漏らしていたように、弱いセレクションとなっている。アジアの作品が目立つ学生作品にいいものがあるとの話だ。
日本からは、長編部門に片渕須直『マイマイ新子と千年の魔法』とショート・フォー・キッズにKOO-Ki『ぴったんこ!』が入選しているだけで、ナラティブとエクスペリメンタル、学生部門にも1本も入選なしでした。

個人的に注目するのは、プリート・テンダーの『Kitchen Dimensions』、カレン・アクアの『Twist of Fate』ぐらいだろうか。
インディーズ不況が続いている。

山村

        2009-08-01        8月~9月のイベント+α【追記】

8月9月は結構いろいろとあります。

イジー・バルタの長編、『屋根裏のポムネンカ』がユーロスペースにて始まっています。
『屋根裏のポムネンカ』公式サイト
その関連で、15日からバルタの短篇全作がレイトでやります。
イジー・バルタ短編集
10月にはチェコアニメ傑作選がK's Cinemaであるそうですよ。

もうすでに始まっているのは、「ウォレスとグルミット」最新作『ベーカー街の悪夢』。
アヌシーで一足先に観てきましたが、個人的にはちょっと厳しい出来でした。
とはいえ、シリーズのファンの方ならば充分に楽しめる内容となっているとは思います。
過去シリーズと同時上映ということなので、足を運ぶ価値は充分にあるでしょう。
ウォレスとグルミット『ベーカー街の悪夢』公式サイト

【8/5追記】
8/8-21、写真美術館ホールで、米アカデミー賞余波でしょうか、加藤久仁生の所属するアニメーションスタジオCAGE(ロボット内の分派的なスタジオ)の特集上映があります。
ROBOT ANIMATIONS WORKS 『つみきのいえ』とアニメーションスタジオCAGEの世界

ASK映像祭がすでに始まっていて、去年のグランプリ受賞者展はもう終わってしまいました。3日からは去年の入賞者の上映があります。そして24日~26日はプログラム上映。「最近の実験映像セレクション」プログラムでは大山慶『HANDSOAP』などの上映があります。
ASK映像祭2009

9月11日~14日はICAFです。まだ詳細はよくわかりません。今年は行けそうです。
ICAF 2009

9月19日からは毎年恒例のトリウッドでのカナダアニメーションフェスティバル。新旧ともにベーシックな作品が揃っています。シュヴィツゲーベルの新境地『リタッチ』、コーデル・バーカー復活作『大暴走列車』、サザランドの抽象ものの新作『フォーミング・ゲーム』は安定して非常に面白いです。『にわか雨』も良い作品です。クリス・ランドレス新作『背骨』は……字幕付きで観られるのを楽しみにしたいと思います。
第10回カナダ・アニメーション・フェスティバル

その関連で、NFBの有名プロデューサー、マーシー・ペイジと元マーケッター、エレーヌ・タンゲが来日します。藝大の現代映像プロデュース論での講演もありますし(9/21)、カナダ大使館での講演(9/24)もあります。
現代映像プロデュース論
CAF国際シンポジウム「カナダと日本のプロデュース力」

9月と言えばもちろん忘れてはいけないのが……
「ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」
ここでもう一つお知らせ。
この公開にあわせて、クリス・ロビンソンによるライアン・ラーキン本『やせっぽちのバラード』が太郎次郎社エディタスより出版されます。
まさか、という話です。
申し訳ないですが僕が翻訳しました。
クリス・ロビンソンが書いたものなわけですから、無味乾燥な伝記になるわけがありません。
以前のエントリで内容については紹介しています。
この翻訳の作業で、最近はくたばっていました。
一段落ついたので、久々にエントリしているわけです。
(でも、これから解説を書かなくてはならないのですが……)


あともうひとつ、興味深い雑誌が創刊されました。
「ecce1 映像と批評 特集:映像とアヴァンギャルディズム」
相原信洋論(佐野明子)が掲載されています。
今後も短篇アニメーションを取り上げてくれそうな匂いがする雑誌です。

まだなにかあったような気がする……
忘れてるものがあったら追記していきます。

あ、そうそう、今年の(自分内)大ヒット作『Please Say Something』のデイヴィッド・オライリーがU2のPVを監督したらしく、本人の公式ページで観れます。
『Please Say Something』的な作品世界ですが、今回は完全に人間キャラ。
やっぱりこの人すごいと思います。うまい。
ドン・ハーツフェルドといい彼といい、
きちんとアニメーションの伝統に揉まれつつ、
クロスボーダーに活動や影響を展開していける人たちがいるととても勇気が出ます。
短篇アニメーションは良い意味でも悪い意味でも時代に対して超越的にふるまう作品・作家が多いですから……

アヌシーレポはちゃんとしたかたちで書きます。(多分)
ウロ・ピッコフインタビューもちゃんと掲載します。(これは絶対)
いつかは。

土居

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