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アニメーションズ、創作と評論


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        2009-01-27        neoneo坐短篇調査団 鬼の巻

http://www.neoneoza.com/program/shortfilm.html

1/28(水)、つまり明日、20:00から、
neoneo坐にて鬼が登場する短篇人形アニメーションが何本か上映されます。
告知しようと思っていたのに忘れてました……
僕は所用で行けないんですけど、良いセレクションだと思うので是非行ってみてください。

土居
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        2009-01-25        メディア芸術祭上映スケジュール発表

2/4~2/15にかけて国立新美術館にて開催される文化庁メディア芸術祭フェスティバルのフェスティバルガイドと上映スケジュールがダウンロードできるようになっています。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2008/information/
Animations的にはアヌシー、オタワのベストを確実にチェックです。
オタワはメインシアター(という名の野ざらし上映場)でしかやりませんので注意です。
アニメーション部門短編作品上映や学生CGコンテストももちろん観にいきましょう。
SICAFや中国国際アニメーション&デジタルアートフェスティバル(どんな映画祭かよくしらないですが)らへんもいいかもしれないですね。

手帳が一気に真っ黒になりました。回数券買わなきゃ。

メディア芸術祭が新美術館に移って二年目となりますが、
去年から判断するに、上映環境は断然悪くなりました。それは間違いないです。
講堂もメインシアターもひどかったです。
特にメインシアターは「こんなのでメインと名乗るのは勇気がいることなのではないか」と逆に感心してしまうような感じでした。
いや、今年になって改善されてるかもしれませんね。判断はまだ早いですね。
でも結果的に写真美術館では今年から恵比寿映像祭というかなり面白そうな催しが始まることになったのでよかったんでしょうかね。
ビックフォード上映されるみたいだし。
(アニメーションにおける「天然」の系譜について何か書こうかな……)

ちょっと愚痴ってしまってすいません。
でもメインシアター、ほんとに観にくいんだもん……
今年は改善されていることを願いたいものです。

土居

        2009-01-23        第81回アカデミー賞短編アニメーション賞ノミネート発表

ちゃんとしたエントリを書くのをしばらくご無沙汰していました。
ちょっと地下活動の方でいろいろとありましてそちらの方にエナジーをつぎ込んでいました。
二月・三月はイベント盛りだくさんですから、
嫌でもたくさん書くことになると思います。

今年のアカデミー賞のノミネートが発表されました。

Short Film (Animated)

候補作は
『つみきのいえ』(加藤久仁夫)
"Lavatory-Lovestory" (Konstantin Bronzit)
"OKTAPODI" (Emud Mokhberi and Thierry Marchand)
"PRESTO" (Doug Sweetland)
"This Way Up" (Alan Smith and Adam Foulkes)

全部、去年の広島で上映されたものですね。(ここに『プレスト』以外のレビューは書いています。)
日本からは『つみきのいえ』がノミネートです。
そもそもアメリカ最優秀カートゥーンを決める戦いのような場であったこの賞、
最近ではその色も薄くなっているようですが、
基本的な見方は変わっていないように思われます。
明快な物語のラインがあったり、笑わせようとしていたり、
即効性のあるものがどうも受けいれられやすいらしいです。
世界の短編アニメーション全体を見通せば、ここにノミネートされているものがものすごく「偏った」ものであることはわかると思います。
でもまあ、これがアカデミー賞の一般的傾向なのであり、それはどうしようもありません。


……しかし実際、
今の日本で短編アニメーションが一番大きく報じられる可能性があるのは、
やっぱりここなんですよね。(『つみきのいえ』も、大きくではないですが、
今朝出たいろんな記事で名前をみかけます。)
この乖離をどうにかできないものか。どうにかなりませんかねえ。

でも、それにしても、今回のノミネート・リストはちょっと偏り過ぎじゃないですか?

個人的には、Cartoon Brew(このサイトはなかなか面白いですよ。海外の熱心なファンも集まっています。名前通り、「カートゥーン」中心ですが短編を幅広く紹介しています)の管理人の一人、Amidさんのコメントに全面的に同意します。
「短編映画のノミネーションは実に不快だ。アカデミーは芸術的・テーマ的な長所を持ったあらゆる作品を見落として、山ほどのどうでもいい作品をノミネートさせている。彼らはアニメーションの最良の作品を紹介することによって、この芸術形態をサポートし、一般の人々にその存在を知らしめるという責任をまったく果たしていない。そのかわりに彼らは弱いセレクションをして、アニメーションが子供向けの考えなしの芸術形態であるという通念を不朽のものとしている。」
そこまでの責任を取る必要があるのかどうかも、僕にはあまりよくわかりませんが、
でも、もうちょっとマシな見識眼を持ってほしいとは、
過去のノミネートや受賞作品をみてつくづく思います。

一応言っておきますけど、
『つみきのいえ』はアヌシーでグランプリを取っていますし、
短編アニメーション界全体を見渡しても去年を代表する作品だったことは間違いないと思いますので、
ノミネートされるのはまったくおかしいことではないと思っています。
でも、賞は『プレスト』が取るのではないでしょうか?
良い出来でしたし。個人的には結構どうでもよい作品ですけど。

アカデミー賞と僕個人がアニメーションに求めるものは全然違っている、ということで。

外国語映画部門ノミネートの『バシールとワルツを』、
近年増えつつあるアニメーションとドキュメンタリーの混合手法ものらしいですが、
フィルメックスで見事に見逃しました。
是非受賞していただいて、日本で公開できるようになってほしいものです。

土居

        2009-01-14        ガブリエラ・フェッリなしの人生

lifewithout
Life without Gabriella Ferri (olga & Pritt Pärn 2008)

昨年再婚した奥さんオリガ・パルンと共同監督したプリート・パルン新作『ガブリエラ・フェッリなしの人生』を見た!!お二人からDVDが届いたのだ。
これは、かなり面白い。久しぶりのパルン節全開で最高に楽しめた。この所ナレーションの多い作品が続いていたが、『草上の朝食』、『ホテルE』やそれ以前の作品のようにナレーション無し、台詞らしくない台詞が2、3カ所あるだけで、文字情報は数回出てくる書き文字のテロップだけだった。上映時間より短く感じると言われるのはアニメーション映画への褒め言葉として僕は受け止めるが、これも44分とは思えない充実した内容で、半分以下の時間に感じた。
作品説明「愛、閉じられたドア、顔のない泥棒、傷ついたコウノトリ、消えたラップトップパソコン、ヴァーチャルな売春婦オッケイ姉妹といったものについてのドラマチックな物語。ガブリエラ・フェッリは出てこないけれども、ハッピーエンディングと言ってもいいようなものはある。」
を見る前に読んだときは何の事かさっぱり分からなかったが、見た後では確かにこういう内容で、それ以上言葉にしていしまうと作品からズレてしまうチープな内容しか書き起こせないだろう。中盤あたりは特にすごい展開になっている。
タイトルになっている「ガブリエラ・フェッリ」は、ローマ出身の歌手の名前で、作品中のモチーフのCDとして登場する。
Gabriella Ferri CD [Amazon]

同時代に素晴らしい作品が形に成った事を心から祝いたい気持です。大いに刺激され、早く自分も新作を作りたくなった。
この作品は、ラピュタアニメーションフェスティバルのエストニア特集で見れると思うので、これ以上は詳しく書きません。

一緒にエストニアのアニメーション作家7人(ヤンノ・ポルドマ Janno Põldma
、カスパル・ヤンシス Kaspar Jancis、ヘイッキ・エルニスツ Heiki Ernits、ウロ・ピコフ Ülo Pikkov、プリート・テンダー Priit Tender、プリート・パルン Priit Pärn、マッティ・キュット Mati Kütt)が、それぞれ自分の好きなエストニアの詩にアニメーションをつけたオムニバス映画『BLACK CEILING』(18'36"/2007)のDVD付きブックも届いた。こちらもパルンさんはオリガさんと共同監督をしていた。jüri üdiとう詩人の『ma kuklas tunnen (I feel a lifelong bullet in the back of my head)』を木炭で描いてアニメーションに仕上げている。パルンのドローイング作品では木炭で描いた作品が沢山あるが、アニメーションでは初めての技法だ。作品の中では、マッティ・キュットの『substantia stellaris 』が、なんだかすごい雰囲気だった。

山村

        2009-01-14        「イジー・バルタの世界」@武蔵野美術大学

今年の三月は大変です。
ラピュタアニメーションフェスティバルでエストニアのアニメーションが、
フィルムセンターでカナダのアニメーションが、
たっぷり観られるわけですから。
そこにさらに、東欧からの刺客の来日が決定したようです。

3/22 13:00-16:00 (12:30開場)
イジー・バルタの世界」@武蔵野美術大学 1号館第1講義室
バルタ作品の上映とイジー・バルタそしてプロデューサーのミロスラフ・シュミットマイエル両氏の講演があります。
詳しくは上記リンク先へ。
事前予約制となっていますので、お申し込みをお忘れなきよう。
3/9までです。

土居

        2009-01-09        シュトゥットガルトとアヌシー、エントリー〆切迫る!

ドイツの第16回シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭(5月5~10日)
16th Stuttgart International Festival of Animated Film
www.itfs.de

フランス、アヌシー国際アニメーション映画祭(6月10~12日)
ANNECY09
www.annecy.org
のエントリーの〆切が1月15日です。
皆さん奮ってエントリーしましょう!

山村

        2009-01-06        アニメーションズについて

皆様、遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

昨年アニメーションズの一年間の活動を通していろいろ考える所があり、今年からアニメーションズをより開かれた場として機能させるために、作家と評論家の限られたメンバーだけのグループとしての形態を一旦解体して、東京藝術大学大学院 山村浩二研究室の外部研究組織として、新たな運営方法を検討していく事になりました。グループではなく、研究所(Institute)の色を強くしていくつもりです。
抱負としては、より多くの人にアニメーションの可能性を知ってもらう、そして日本での短編やインディペンデントのアニメーションがより活性化するために、上映会や勉強会、出版物の発行も目指していきたいですが、まだまったく具体的ではないので、今後決まってきたら何かしらの形で徐々に皆様にお知らせしていきたいと思っています。とにかく今年一年かけてゆっくり新しいアニメーションズの形を模索していきます。

このサイトも一部リニューアル、Festivalsのコーナーも新設しました。重要なアニメーション映画祭の基本情報と受賞作のデータベースが中心です。
データベースも見ていくと色々な流れや変化が見えて面白いです。例えば、2000年のオタワ、ちょうど僕が『どっちにする?』で子ども向けの作品賞を受賞して現地にいたときですが、国際審査員にはプリート・パルンがいて、グランプリが、アンドレアス・ヒュカーデの"Ring Of Fire" 。その他主要な受賞作を見てみると、フレデリック・バック賞 最優秀カナダ作品が、ウエンディ・ティルビーとアマンダ・フォービスによる『ある一日のはじまり』、ASIFAカナダ観客賞とインディペンデント作品賞がマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット『岸辺のふたり』、最優秀ストーリー賞にヤンノ・ポルドマ『愛の可能性』、最優秀色彩賞にジョルジュ・シュヴィツゲベルの『フーガ』、ベストデザインにピョートル・ドゥマウァの『罪と罰』、最優秀アニメーションにイゴール・コヴァリョフの『フライング・ナンセン』、ユーモア賞コンスタンチン・ブロンジット『地球の果てで』、笑いの賞ポール・ドリエセン『三人のおとめ』と、アニメーションズ的にとてつもなく豪華な作品が揃っていた年だと分かります。
今後このページもより充実させていきたいと思っています。

本年も「アニメーションズ」をどうぞよろしくお願いします。

山村

        2009-01-02        僕らは内臓のことも宇宙のことも夢見る生き物――ドン・ハーツフェルドについて(2)

<あけましておめでとうございます。(1)の続きです>

 二、三日して、「Bitter Films 1995-2005」という初期作品集を観てみることにした。
 高校生のときに無邪気に制作されたという非常に暴力的な"Ah, L'amour"、うさぎのキャラクターを用いてジャンルの約束事を純粋に(少々ブラックに)展開していく"Genre"は、まあ、若者の微笑ましい作品、程度にみることもできるのだが、それでもそこには「なにか」があるように思えた。アニメーションに一通り精通している者ならば、その自己言及的な展開に、彼の国アメリカ自身の初期アニメーションのさまざまな特徴をみてとることができただろうし、そうでなくとも、どうも気になってしまう「なにか」があるのだ。
 "Lily and Jim"はカップルのぎこちないデートの様子を描く会話劇なのだが、会話自体のレベルが高い。マッチ棒式の単純な造形のキャラクターが実に有効に用いられているのだ。リズムもとてもよく、思わず吹き出してしまう。愛すべき小品である。
 だがブレイクスルーとして考えるべきなのは"Billy's Balloon"だろう。子供が風船に虐待されつづけるだけ。たったそれだけの内容。人によっては嫌悪感をおぼえてしまうだろう(俺自身も最初はそうだった)。でも、なぜか何度も観てしまうのだ。風船に殴られ、空から落とされ、飛行機に衝突され、首を締められる子供たちの様子を観ていると、そこに感じてしまうのは、なんといっていいか、悲しみの気持ちだった。
 イザベル・ファベの『アップルパイ』を思い出す。この非常によくできた群像劇は、キャラクターのひとりである犬に降り掛かる悲劇によって幕を閉じるが、その原因が周到に用意されているからこそ、たんなる残酷な話にはならず、観客がその悲劇を一種の運命として受け取ることができる。
 それと同じものを俺は"Billy's Balloon"には感じてしまった。BGMなしで暴力や風の音が無慈悲に響き渡るこの作品に、あやうく涙さえ流してしまいそうになった。ただ暴力が続くだけなのに。
 ハーツフェルド自身はこの作品に対して作家からの解釈をまったく提示しておらず、むしろ観客側の自由な意味付けを歓迎しているのだが、(たとえば『madame Tutli-Putli』の後半とは違って)この作品におけるその態度はまったくもって正当なものだろう。ここに描かれているのは単なる暴力ではない、それとは違う「なにか」であるように思えた。(たとえば俺はここに運命や因果といったものを感じとった。条理の込められた不条理。)
 "Rejected"は「制作したはいいが放映してもらえなかったお蔵入り作品」という体をした、教育番組やコマーシャルのクリシェをおちょくる作品で、そういた番組の異常なほどの潔さを告発し、暴力的なものとすることで笑いにかえる「だけ」の作品にみえないこともない。でもそうではない。単なるくだらないパロディ作品と片付けることができない「なにか」の存在を感じとってしまうのだ。ふわふわしたキャラクターが「My Anus is Breeding!」と叫びながら肛門から血を流しているだけなのに、単にかわいいキャラクターが残酷な目にあっているというだけのことではないように感じられてしまう。
 ラストでエピソードでは突如としてキャラクターたちの住む世界の約束事が崩れ、舞台装置が落ち、紙が縒り、穴が空き、そのブラックホールにあらゆるものが吸い込まれていく。この作品は立派な「世界の終わり」ものの一群に数え上げることができる。しかも、最良のうちの一本になっている。(ちなみに、"Rejected"はアカデミー賞にノミネートされ、『岸辺のふたり』に敗れている。アカデミーは常に間違った判断をするものだ。)
 しかし何よりも驚いてしまったのが、"The Meaning of Life"。4年間をかけて制作されたこの作品は、あらゆる意味でこちらの予測を超えていた。描かれているスケールが大きすぎた。冒頭の1分でわけのわからない生物が進化して人間になると、その後の3分間に続くのは、それぞれが頭の狂ったような独り言をつぶやきながら、たがいに関係性を結ぶことなくすれちがいつづけるたくさんの人々。本当にたくさんの人々。エコノミカルであるはずのマッチ棒型のキャラクターを用いて、こちらの情報受諾能力を超えた量の情報が投入されると、しかもそれぞれのキャラクターがそれぞれ「完璧な」技術力でアニメートされると、本当に頭が狂いそうになってくる。とにかく圧倒される。この冒頭の3分間だけに二年間がつぎ込まれたというが、それだけの労力のすべてが、適切に機能しながらこちらに迫ってくるのだ。恐ろしさを感じた。マクラレンに感じたあの「完璧さ」という恐ろしさ。
 その後に続くのは、またしても予想外の宇宙のシーン。恐ろしく美しい銀河。マッチ棒型のキャラクターのあとにこんなシーンがやってくるなんて本当に予想していなかった。宇宙旅行を経て再び地球に戻ってくると、今度は未来の人間たちがまたしても大量に行き交いはじめる。しかもどのクリーチャーもそれぞれにきちんとした背景を持って存在しているように思えてしまう。なんらかのプログラムに従った根拠ある存在のように思えてしまう。これは異常なことだ。そしてラストの展開は真の驚きだ。これほど迫力のある映像はなかなかない。映像だけで納得させられてしまう。しかもこれって、俺らが実際にあれを目にして圧倒させられる体験と非常に似通っている。そういうものを目にしたときには、ただ黙ってしまうことしかできない。(このことについてはまたあとで。)

 ハーツフェルドの作品は非常に厄介だ。暴力、コメディ、マッチ棒のキャラクター、単純なアイデア……などと作品に対する判断を停止させてしまうための罠がたくさん仕掛けられている。でもその罠にひっかかってしまうのはだいたいにおいて観ている側の責任なのだ。よく考えてみれば、鑑賞を繰り返してみれば、やはりこれ以外にはありえないかたちでどの作品も展開されているから。それを理解してしまえば、どの作品も実に自然にその情感を訴えかけてくる。教訓。作品はまず何の先入観もなく観るべきで、なんらかのクリシェに落とし込む作業は慎重に。自分の感覚を疑うことが時に必要なのだ。

 「なにか」がある。そんな言い回しをたくさん使ってしまった。でもハーツフェルドの作品を前にすればそうせざるを得ないし、それこそがハーツフェルド作品の正当な見方だと俺は思う。 
 彼の作品で問題となるのは、世界を見つめ、その「なにか」を感じとる視線なのだ。
 "Everything will be ok"(三部作の第一作。二作目の"I'm so proud of you"は去年完成したばかり。クリス・ロビンソンはこの作品に本当にショックを受けてしまったようだ。もちろん良い意味で。早く観てみたい……)は病気によって、無意識で惰性的に過ぎていく日常が次第に解体されていき、砕け、その狭間から新たな意味を得て蘇ってくる物語である。ラストのビルは明らかに、それまでとは違ったかたちで世界に接している。一方で"The Meaning of Life"で最後に微笑む少年は、明らかに世界にたいするなんらかの新しさを発見している。それがなんなのかはきちんと示されないままに。
 アニメーション自体、そもそも「なにか」を観客に発見させるメディアだ。そのことに関して、ハーツフェルドに一貫する主張がある。アニメーションは主観的な力なくしてはいかなる力も発揮しえないメディアであり、フォトリアリスティックな描画はアニメーションのそもそもの力を奪うと彼は考えている。
 あるアニメーターが彼に、マッチ棒のキャラクターを使って観客を泣かせるなんてすごいと言った。しかしハーツフェルドは奇妙に思った。なぜかといえば、「それこそがアニメーターがやることなんじゃないの?」。アニメーションに本物の人間の本物の生が展開されたことは一度もない。形式化・単純化された世界を観客が見つめ、そこに創造を付け加えることが常に必要とされる。(ノルシュテインはポール・ドリエセンの『ダビデ』を引き合いに出し、アニメーションはたった一本の線によって世界の原理を表現できると語っている。アニメーションが持つその素晴らしい力は、『話の話』の「永遠」というセピア色の単純な描画のシークエンスで発揮されている。)だからハーツフェルドをきっかけにアニメーションの常識をもう一度確認しなおさないといけない。

 ハーツフェルドは観客が持つイメージ喚起力を信じている。本当に全面的に信頼している。だからまったく押し付けがましいところがない。彼の作品には「なにか」があると俺が繰り返し語っているのも、彼の作品自体が、アニメーションと同じようにあらゆる「なにか」を喚起させるような原材料のようなものであるから。ハーツフェルドの作品はアニメーションの原理を純粋に展開するのだ。
 世界はただそこにあって、そこに「なにか」の意味を見いだそうとするのは人間の所作だ。その「なにか」を想像(創造)することは、アニメーション的な行為だと俺は思う。あまりに巨大な二作品についてもう一度。"The Meaning of Life"のラスト、「人生の意味って何?」と親に問うていた未来の人間の子供がじっと見つめるのは満天の星空だ。彼はそれを見つめ、少しだけ笑みを浮かべる。彼がそのとき思うのは何だろうか。同じことは"Everything will be ok"のラストにも言える。ただ降り注ぐ雨を見つめるビルの脳裏に浮かんでいるものは何だろうか。
 それぞれがその「なにか」をみつければいい。
 良質で誠実なアニメーション作品はいつも、人間の持つイメージ喚起の力、想像力であり創造力を呼び起こす。作品のコアだけをただ露出させ、観客にすべてをゆだねるドン・ハーツフェルドはきわめて誠実で正当で寛容なアニメーション作家だと俺は思う。彼が(いまのところ北米でだけだが)これだけのポピュラリティーを得ていることは俺にとっては非常に勇気が出る。

最後にハーツフェルドの素晴らしいアジテーションを引用してしまおう。
シンプルな自分の描画スタイルについて問われたときの答えだ。長いけどとても勇気の出る言葉なので全部読んでほしい。

――あなたのアニメーションのスタイル(たとえば棒線画など)は偶然の産物ですか、それとも意識的な決断でしたか。

うーん、これがそもそもの僕のスタイルだったから、意識的かどうかはわからないな……でも映画の内容にはとても合っていると思うし、このスタイルにはすごく価値があると思う。違ったふうにデザインされた僕の作品ってのは想像できないな、少なくとも。あとから考えると、このスタイルは誠実だと思う。キャラクターがいて、こんな風に見えて……ってふうになっていくと、なんだか嘘をついているような気分になるし、「目のお菓子」で注意を反らしてしまっているような気がする。物語に戻ろうぜ、っていうことだ。大きな絵を見て、脂肪分を取り払って、核心に迫ろうっていうこと。背景を使うのさえ、好きじゃないね。(……)表象的な芸術にはふさわしい場所がある。でもそれは僕のものではない。心理学としての表現、ある人間が世界を見る主観的なやり方の表現に僕は興味がある。僕は芸術のうちにあるちょっとした瑕が好きだ。なぜなら、人生に存在する瑕を反映しているから。僕は子供の絵が好きだ。そこに自由や想像力が発揮されているからじゃなくて、線を描こうとするのに苦心していることがわかるから。葛藤や緊張感が感じられる。どんな物語を語っているかというのに辿り着く前に、たくさんの豊かさと個性を味わうことができる。
 CGでのモデリングや完璧な静物画は冷たい気持ちにさせる。リアルで表象的な自転車の絵は、「自転車」としか言ってくれない。もし作品がそんな名詞以上のものでコミュニケートするなら、もっとたくさんのムードや心理がそこには加わるはずだ。アニメーションのフォトリアリアリズムが退屈で的外れなのはそのせいだよ。そういうのは名詞でしかないんだ。CGアニメーションの90パーセントは名詞でしかない。その向こうに、何も感じることができない。
 アニメーションっていうメディアの要点は、文字通りに何でもできるってことにある。今まで観たことがない驚くべきものを見せることができるんだ。僕はアニメーション作家たちが映画の言語を変えてしまうのを見てみたいんだ! 真面目な話、僕らにはそのための手段がある。シュルレアリストたちが写真に対してとった反応と同じ、野生的で新しい場所に、アニメーションを深く突っ込むんだ。クソッタレなボートを揺らすんだ! アニメーションから主観的な力を奪い取って、現実に見えるようなかたちで何かを見せようとするんだったら、実写映画を撮った方がいいんだよ。」

彼とともに戦うアニメーション作家たちがひとりでも増えることを願いつつ、
今日はこのへんで。(終わり)


ーーー

二回に分けて載せたこの文章はとりあえず「ドン・ハーツフェルドはすごい」と俺が思っていることをせめてこのブログを観てくれる人たちと共有したいがゆえに書いたものです。正直言ってぐちゃぐちゃの文章なのですが、勢いって大事だと思うので勢いあるうちに書いておきました。彼をなんらかのかたちでもっときちんと紹介できるようになったとき、ちゃんと書き直します。

DVDはここで買えます。
Bitter Films Shop

土居

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