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        2008-11-30        イメージフォーラム・シネマテーク「動夢」

イメージフォーラム卒業者を中心にして企画された上映イベント「動夢」に行ってきました。

いつものように個別の作品をレビューしていくことはしないです。

全体の印象として、
作品の内容を運ぶためのメディア(切り絵とか人形とか物語の担い手)がもつ物質性・マチエールにきちんと対峙せぬままに作られている作品が多いなあ、と思いました。
紙でも切り絵でも泥でもなんでもその素材を用いるからにはその素材がどのような印象を観客に与えるかということは考慮に入れる必要があるし、その素材自体がいかなる歴史的な厚みを持ったものなのかということについて考察をめぐらせるだけでも作品の出来は全然違ってきます。というか、そういったことをきちんと考えないとどうもつらいような気がします。

その点でいえば、今日観た作品のなかでは『dorothy (ragged film #4)』(島田量平)と『もよう』(宮下広将)は、素材自身にきちんと語らせていて素晴らしいと思いました。(後者は後半の展開にズッコケてしまいましたが……)両者とも、純粋な意味でのアニメーションではないのが悲しいところですけど。
基本的に面白くないアニメーション(ええい、映像って言っちゃえ)作品は、映像自体にリズムが内在されていることを分かっていないものが多いですが、『dorothy』の方はそれをきちんと理解した上で制作されている印象で、非常に好感を持ちました。今日のプログラムのなかでは頭ひとつふたつ突き抜けていました。

他には『雪』(田村るみ)と『東京ミンチ』(アラマキ)に少々ひっかかりました。
前者は何があったのかははっきりとは分からないものの、雪が降り注ぐなか、シルエットの少女にただ歩かせるだけで非常に残酷な事実(世界は少女の存在に関係なく進んでいくということ)をひしひしと感じさせるというなかなか高度なことをやっていたような気がします。少女の内的空間(想起)を瞬間的にきらめく影として可視化するというアイディアも素晴らしい。説明しない。描かない。でも「わかる」。短編の作り方としてひとつの正解であることは間違いないです。
後者はときにトッカフォンドを思わせる質感で、東京の騒音と群衆をミンチされた肉塊というメタファー(というより運動性)として提示した、非常に納得のいく作品。
二つの作品とも、技術的には稚拙なところが多々見受けられましたが、光るものはあるなあ、と思いました。

明日(というか今日か)もあります。いつもぎりぎりのレビューですみません。

土居
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        2008-11-28        プリート・パルン新作『ガブリエラ・フェッリのいない生活』が観たい!!!



エストニアの映画祭Animated Dreamsで、プリート&オリガ・パルンの展覧会が12/7まで開催されている。見たいけど無理。

『ガブリエラ・フェッリのいない生活』は、オランダに続き、Animated Dreamsでもグランプリを受賞して、ますます期待が高まる。

ドローイングが夫婦のような絵なので、オリガ・パルンは新しい奥さんの様な気がするけど、確か写真をやっている人だと聞いた。娘さんもいるので、その可能性もあるが、まだ未確認。

今年はパルンの画集も発売される(された?)様だし、日本での本格的な紹介をなんとかしたい。

山村

        2008-11-28        プリート・パルン新作『ガブリエラ・フェッリのいない生活』が観たい!!

lifewithout

「知られざる」でも名前が出ていましたが、プリート・パルンの5年ぶりの新作(ちょっとした仕事は除く)Life without Gabriella Fellaのスチールを観たら辛抱たまらんようになってしまいましたわ。
近年の作品が少々下降気味であるような印象はどうしても拭いきれないのですが、
特に根拠も何もなく、この作品は傑作なのではないかと思い込んでいる今日このごろです。
ワールド・プレミアは11月のモスクワ、「アニメーション大映画祭」。クロックで友達になったロシア人チョーマに大プッシュして観にいってもらいました。
「すごく変な映画だった。オリジナリティあるユーモア、エロティックな要素、シュールさが満載だった」
とのことでした。
パルン史上最長の45分。
共同監督のオリガ・パルンは新しい奥さんでしょうか?
作品説明。
「愛、閉じられたドア、顔のない泥棒、傷ついたコウノトリ、消えたラップトップパソコン、ヴァーチャルな売春婦オッケイ姉妹といったものについてのドラマチックな物語。ガブリエラ・フェッリは出てこないけれども、ハッピーエンディングと言ってもいいようなものはある。」

ラピュタさん、どうですか?
今度のフェスでやってくれませんかね?

懸念がひとつ。来年3月17日から29日には「カナダ・アニメーション映画名作選」がフィルムセンターでやるわけですが、ラピュタフェスがそれとかぶりませんように……

土居

        2008-11-27        11月末から12月にかけての上映イベント【情報追加】

11月22、23、29、30日
動夢 ~オムニバス・アニメーション~」@イメージフォーラム・シネマテーク
もう先週末にもあったわけで告知が遅れてしまい申し訳ないんですが、
イメージフォーラム系の若手作家たちによる上映プログラムです。
イメフォではクエイ新作とゼマンレトロスペクティブも上映中。(後者は28日で終わっちゃいますけど。)

11月29日(土)
第13回アートフィルムフェスティバル」@愛知芸術文化センター
15:00~ 「愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品  新作プレミエ」
Animationsの大山慶の新作『HAND SOAP』が世界初公開されます。その他にも、『NAMI』、 『ゆきどけ』、『診察室』、『ゆきちゃん』など過去作品もまとめて上映、監督も来場ともあり、これを逃す機会はないですね(『NAMI』は上映されること自体レアです。理由は観ればわかります)。しかも無料なんですよ?
アニメーション関連でいえば、前日の28日に同じく愛知芸術文化センターオリジナル作品として石田尚志 『フーガの技法』 と 辻直之 『影の子供』も上映されます。

11月30日~12月13日
第8回飛騨国際メルヘンアニメ映像祭」@飛騨・世界生活文化センター
12月6日(土)は良さげです。
岡本忠成特集上映(噂のDVDはいつ出るんでしょ??)、授賞式&受賞作品上映があります。
受賞作品は『つみきのいえ』、『オーケストラ』、ドリエッセンの新作『7 Brothers』、『こどもの形而上学』などなど豪華な面々です。
期間中はずっと「岡本忠成アニメーションの世界」という展示も開催。
タケカワユキヒデのLIVE&TALKもあるのか……
豪華だけれども、東京からだとちょっと遠くそして高い……

12月6日(土)18:00~20:00
ワカサカ第2回」@アート・アニメーションのちいさな学校
「一般の方も参加可能」とのことでお知らせします。テーマは「たくさん見る!」とのことで、たくさん見るらしいです。若手作家同士の意見交流の場だとのことですから、特に若手の作家の方々は突入してみてはいかがでしょうか?参加申し込みなどは上記のリンク先を参照ください。

他にもなにかあったらそっと教えてください。

土居

        2008-11-26        リズムで語る伝統

二年前の広島で初めて観たミハイル・アルダシンの作品(たしか『シャーロックホームズ』だったか)にはびっくりさせられたものだ。個人的に「電子切り絵」と呼んでいる一群の作品は大抵、アニメーションの本質に対する無知の産物、動くことに対して少しのケアもおこなわないものなのだが、この作品はまったく違うものだった。話の内容はもちろん他愛のないものなのだが、特に内容を把握せずとも心地よくうきうきして観れた。『イワンのばか』もそうだった。電子切り絵に特有の均質でデジタル臭い動きをうまく調理してしまっている印象で、「これは新しいな」と感心したものだ。

でも今回クロックフェスに行って、この前抜粋を紹介したコヴァリョフのインタビューを読んで、ロシアで購入してきたピロットスタジオのDVDを観ると、それは別に新しいものでもなんでもなくて確固としたピロットの伝統に基づいたものなのではないかという気がじわじわと高まってきた。

厳密に言うとピロットの作品ではないのだが、タタルスキーとコヴァリョフが共同で監督し、「チェブラーシカ」シリーズの原作で有名なエドゥアルド・ウスペンスキーが脚本を担当した『コロボックル探偵物語』(とでも仮に訳しておきます)という4本シリーズがある。これが実に奇妙な作品で、日本で出ている「パイロットスタジオアニメセレクション」に入っている『リフト』を思い出してほしいのだが、あのような他愛もなく少し笑えるストーリー展開が、コヴァリョフのリズムで展開するのである。(特に3と4。)
("СЛЕДСТВИЕ ВЕДУТ КОЛОБКИ"この文字列で検索かけるといいことがあるかもしれない)
『コロボックル探偵物語』は1986-87のものなので、コヴァリョフの処女作よりは2-3年早い。でもコヴァリョフがパルンの『トライアングル』を観た後のこと(そしてあまりの衝撃に、実写映画の前座としてかかっていた『トライアングル』を観るためだけに何度もチケットを買った後のこと)ではある。

日本盤に入っている『リフト』からも少しうかがえるのだが、ピロット的なドローイングのスタイルというのは、実はその半分はパルンのスタイルを輸入したものなのだ。これについてはコヴァリョフ自らがインタビューで認めている。『コロボックル探偵物語』にはその影響がモロに伺える。(たとえば象の造形。)ともあれ、今ではだいぶ薄まっているのだが。

コヴァリョフがパルンから学んだもののひとつに、「動きのリズム自体が語ること」があったと思う。「何が動くか」ではなく「いかに動くか」が大事だとしたマクラレンの例を出すまでもなく、「ミッキーマウス」シリーズ以降のトーキー・カートゥーンのある一領域においてキャラクターたちは音楽とそのリズムを具現化させるような担い手(自分のものではないリズムに取り憑かれるイタコみたいなものか)であったことを思い出すまでもなく、アニメーションがリズムを刻むものであるということは、ある一定以上の水準の作品を作る人々にとっては意識的にも無意識的にも理解されてきていたように思える。
コヴァリョフにおける「リズムの語り」の特異性についてはもうちょっとちゃんと考えて言語化しなければいけないのだが、それに取り組むと今回の記事の本筋から逸れてしまうのでやめておくことにして(ブレッソンやタルコフスキーの映像のリズム論を参照する必要があおそらくある/ブレッソンがリズム論を残しているかどうかはわからないけど)、とりあえずピロットのリズムの語りについての話に戻ろう。
パルンがまざった原ピロット的スタイルは今ではかなり薄まっているが、それでもリズムで語る伝統は数人の作家によって引き継がれている。前述のアルダシンや『ジハルカ』のウジノフなどは、動きのリズムによって何かが語りうる(もしくは「働きかけうる」と言った方がよいのか)ことをきちんと理解していると思う。そこにはまだコヴァリョフ的な美意識の痕跡が残っていると理解することもできるのではないかとちょっと思ったことを書こうとしたらこんなに長くなってしまった上に肝心の結論部分が尻すぼみになってしまった。

まあ、リズムを意識することがどれだけ観客に働きかけうるか、ということについては、ソヴィエトロシアの大巨匠ヒトルークがノルシュテインによって「キング・オブ・リズム」と形容され彼のスタイルがソユズムリトフィルムを支配していったことからもわかるようにそもそもソヴィエトロシアの伝統でもあるのだ。クロックのレポート(俺のでも山村さんのでも)でも書いてあるけれども、ノルシュテイン作品には確実にヒトルークのリズムが染み通っている。
いやいや、ノルシュテインのアニメーションのリズムについて考えるには、当然のことながら、彼の理論的師匠であるエイゼンシュテインの映画についても考えないといけない。
彼が映画におけるリズムの重要性を説いたことは言うまでもない。
(エイゼンシュテインがディズニーのアニメーションの影響を受けつつ『アレクサンドル・ネフスキー』や『イワン雷帝』を作ったこと、そしてマクラレンがエイゼンシュテインの映画を観てフィルムでの表現に目覚めたことについても追記しておいていいかもしれない。ノルシュテインが『イワン雷帝』をアニメーションの原理に基づいて製作された映画だと言っていることも。)
最近いくつか観た70年代のアニメーション、週末に観た相原信洋(素晴らしかったので近日中になにか書きます)、久里洋二、ルネ・ラルーなどなど、ここらへんまでは確実にそのモンタージュリズムの思想が生きているのだよな。アニメーションがリズムを刻むためには別に必ずしもキャラクターをきちんと踊らせる必要はなくて、モンタージュによってもなんとかしうることを忘れてはいけない。(その点からいって、エリザベス・ホッブスは本当に素晴らしい作家だと思う。)川本喜八郎が「最近の若者はエイゼンシュテインも読んでない」と憤っているという噂もきいた。
『コロボックル探偵物語』は別にモンタージュによってなんとかしようとする作品ではないが、他愛のない内容であってもこれほど面白く観れるのは、やはり「いかに語るか」「いかなるリズムで語るか」というところの重要性をきちんと理解しているからではないか。アニメーションには様々な語り口があるのだ。そしてリズムがそのひとつであることは間違いない。

月曜日の山村浩二トークショーでの「自分はオリジナルなもの・個性的なものなど作ろうとしたことはない」という話、ロシア関連でのこの文化的継承の豊かさ(今は消えつつあるにしても)の実感、そういったことからの刺激とアニメーションの現状への危機感からとりあえずこの長文を書いてみました。

土居

        2008-11-19        コワリョーフとタタルスキー、幻の長編『列車の到着』

ロシアの月刊映画雑誌『映画芸術』2007年12月号に、タタルスキーについて語るコヴァリョフの記事が載っていました。(ネットで読めるんですけど。)
この二人はロシア初の私営アニメーション・スタジオにして、現在もロシア最大でありつづけるピロットの創始者です。Animationsのホームページの読者にはこの二人が誰かなんて説明不要でしょうけど。

非常に面白いというか、
クロックでタタルスキーのドキュメンタリーを観たときに感じた、あの重苦しく悲劇的な感覚が蘇ってきて、少々胸が苦しくなりました。
ピロット・スタジオを訪問したとき、タタルスキーの遺影が至るところに飾ってあって、
死してもなおあまりに大きな影響力を及ぼしている彼自身に少々恐ろしくなったのですが、
(今年の広島も、言い方は悪いですが、タタルスキーの亡霊に取り憑かれていたような印象がありました)
このインタビューを読んで、納得しました。

インタビューの概略を紹介しようと思うんですが、今日のところはとりあえず、二人の関係が端的にわかる一節を抜き出してみます。

当然ですが、コヴァリョフの言葉です。

「僕たちのどこが違ったかって? 簡単だよ、僕らは創作に関して、違ったふうに成熟していったんだ。人間的にもね。サーシャ(※タタルスキーの愛称)はいつもなにか新しいことをしたがった。彼にはつねにアイディアがたくさんあった。僕は質問したものだ。「サーシャ、どうしてこのたくさんのプロジェクトにすぐ取りかからないんだ?」 サーシャは微笑んだよ。「おまえはバカだな、AからZまで全部自分たちでやる必要なんてないんだよ。僕らは始めるだけで、あとは人に教えて、彼らにやらせればいいんだ。ディズニーがやっていたみたいにね。」サーシャが工場のようなスタジオを作りたがっていたのは間違いない。学校も備えてるやつをね。ディズニーに続こうとしたんだ。
僕は自分のプロジェクトで、最初から最後まで全部、描くのもアニメートするのも、全部やる。全部自分の手でやる。わかるかい? 僕だってそうすることが好きだってわけじゃないんだ。僕よりもうまくやれる人がいるってのは知ってる。でも、任せられないんだよ、実を言うとね。
『ミルク』にとりかかったとき、こんなやり方はもうやめようと思ったんだ。「もう終わりだ。今回は他のやつらと組むぞ」、って。だから登場人物も変える必要があった。自分のスタイルに飽き飽きしていたから。『彼の妻はめんどり』からずっと同じだから。なにか完全に違うものがやりたかった。だから他の人たちを呼んだんだ。彼らがキャラクターを作った。僕は鉛筆を持ってその他人のキャラクターを動かそうとした。絶望したよ。自分のつたなさに。他人のキャラクターを動かせなかったんだ。いうことをきいてくれないし、生命も吹き込まれない。だから少しずつ、キャラクターを直しはじめた。ここをちょっと直そう。ここも。もうちょっと……結局ゴミ箱に捨ててしまった。自分のスタイルで作り直した。そしたらすぐに解決だよ。キャラクターが呼吸しはじめたんだ。」

ピロット・スタジオには伝説とされている作品があります。
『列車の到着』という幻の長編です。
コヴァリョフ(いやロシア語読みでコワリョーフとした方が正しいか)が脚本を書き、キャラクター・デザインをして、タタルスキーが監督をしようとした長編です。
コワリョーフがアメリカに行って、一人残されたタタルスキーのなかで創作の炎が消え(実際に素材がアクシデントですべて水浸しになってしまった)、放置されてしまった作品です。
タタルスキーはその一部を、クロック・レポート6でもちょっと触れた、ロンドンを舞台としたワニの探偵の長編に使おうとしていました。『列車の到着』への消えぬ執心がうかがえるわけですが、この長編も結局、10年の製作期間を費やしたにも関わらず、タタルスキーの死によって完成がまた遠ざかってしまったわけで、タタルスキーのコワリョーフへの「恋心」は今も成就せぬままであるということになります。『ベズウームニエ・バローシ』(直訳すると「狂った髪の毛」とでもなりますか)というタイトルのこの長編は、今年の広島の選考委員だったチェルノワが引き継いで、完成させるつもりではいるらしいですが、クロックで伝わる噂では、おそらく無理だろう、と。

『列車の到着』ですが、タタルスキーのドキュメンタリーでその一部が流れて、
バチコーンと頬を叩かれたようなショックを受けました。
コヴァリョフがここまでしっかりかかわっているというのは今回のインタビューを読んで初めて知りました。
1990年代にこれが実際に完成していたら、どうなっていたのだろう?

しかし、この『列車の到着』ですが、コヴァリョフは製作にとりかかる気があるようです。
まったく正反対の性格をした、それでも大親友だった二人。
コヴァリョフがアメリカへと渡ってしまったことでその仲は裂かれたわけですが、
タタルスキーの死を経て、もしかしたらふたたびつながるのかもしれません。

ノルシュテインの例といい、ロシアのアニメーションは寸止めや焦らしが大好きなようですが、
僕は『外套』と並んで、『列車の到着』の完成も首を長くして待つことにします。

ちなみに、コヴァリョフは『列車の到着』ではない長編作品に現在とりかかろうとしています。クロックで共同監督の方と会って、いろいろと話をきいてきました。詳しいことは近日公開のクロックレポート9で。

いやあ、クロックですが、本当に行ってよかった。
いろいろとみえてきました。

土居

        2008-11-18        「Animations座談会8 HIROSHIMA08」をアップしました

待っていた方がいるのかはよくわかりませんが、お待たせしました。
Animations座談会をInterviewコーナーにアップしました。
座談会自体はもう2ヶ月前に終わっていたのですが、
みないろいろとありましてこんな時期になってしまいました。
もうみなさんの記憶から今年の広島の記憶も少々薄れかけている頃かと思います。
あの暑い日を、思い出してください。

座談会は広島終了後ちょうど一ヶ月くらいして開催されたんですが、
みんな興奮がちょっとさめたくらいな感じだったので、特に最初の方は結構ネガティブな意見ばかりでてしまっていますけどそこはまあ愛嬌ということで。
アニメーション好きのみなさんの酒の肴に使っていただければ幸いです。

個人的にはいろいろとやりたいことがあります。
個人的にはしばらくは自由な時間も増えそうなので、いろいろ仕掛ける方向でいきたいと思っております。

土居

        2008-11-14        『草上の雪』ほんの一部が英語で読めます

http://niffiwan.livejournal.com/10065.html

ノルシュテインを中心にしてロシアのアニメーション情報をちょこちょこ伝えてくれるこのブログ、
愛読しています。

『草上の雪』から、
『キツネとウサギ』の色についてのノルシュテインのコメントが載せられています。
なんに対してのコメントかといえば、
裁判用です。

ロシアでノルシュテインのDVD(というかアニメーション系のDVDほとんど)をリリースしている「クループニイ・プラン」という会社を相手どって、ノルシュテインは訴訟を起こしたのだそうです。自分の作品集の色がひどいから直してくれ、と。
結局負けてしまったそうですけど。
上のリンクをたどると、裁判でノルシュテインが読み上げた、
「色調がいかに大事か」ということを切々と訴えかける文章の英訳が読めます。
『キツネとウサギ』を制作するにあたって、それぞれのエピソードにどのような意図を持って色を付けていったか、という話です。大意を要約すれば、色の展開にもドラマツルギーはあるのだ、ということ。
ひとつの色だって、ニュアンスが違えば喚起する感情が違ってきちゃうんだから、
色調がかわったら台無しになっちゃうんだよ、ということです。

さすがエイゼンシュテインの申し子。

ロシアに行って「うは、安い!(日本円で400円くらい)」とクループニイ・プランから出ていたノルシュテイン作品集を買ってしまった自分を戒めたいと思います。
(一応言っときますけど、買ったのはこの文章を読む前のことですからね。)

土居

        2008-11-12        クリス・ロビンソン『やせっぽちのバラード:ライアン・ラーキンを求めて』

ballad
Chris Robinson, "Ballad of a Thin Man: In Search of Ryan Larkin"[Amazon]

ASIFA Magazineにここのところ定期的に書かせてもらっている関係で、
著者のクリス・ロビンソンとは連絡をとりあっている。
個人的にはこの本はとても良い本だったので、
先日、その感想を伝えた。
「この本は、自分がなにかの一部であることを認識し、自分を大事に思ってくれる誰かを発見し、その人を信じることについての本だと思った。あなたは今回宗教について触れている。僕はまったく宗教的な人間ではないが、あなたが言うような"信仰"なら信じられる。」
これに対するクリスの返答はだいたいこんな感じ。
「そのとおり、まあ俺は、この本は自分を信じることを学ぶことについての本なのだと思ってるんだけどね。」

まあでも、この本のタイトル自体は、クリスの敬愛するボブ・ディランの有名曲を引用して
「やせっぽちのバラッド:ライアン・ラーキンを求めて」なんですけどね。
ライアン・ラーキン本なんです、一応。

クリス・ロビンソンが初めて実の父親と出会ったことと、
それと同じ時期に展開されたライアン・ラーキン騒動の二つのエピソードを軸にしつつ、
でも結局、この二人の人物をめぐって、変わっていくクリス・ロビンソンについて書かれた本。
The Animation Pimpに続いてまたしても、
アニメーションの本でありながらアニメーションの本ではないものができあがってしまいました。

あまりに生々しいライアン・ラーキンの描写に戸惑ってしまう方もおられましょうが
(僕もそのひとりでした)
クリス・ロビンソンの出生や少年時代、そしてつい最近までのアル中時代の過酷な体験が描かれたりもしているわけですが、
でも最終的には、心を軽くしてくれる本であることも確かなんです。

情報として一応書いておかないと。
『ウォーキング』『ストリート・ミュージック』『ライアン』そしてセオドア・ウシェフによるアートワークが収録されたDVDもついてます。

禁じていたyoutube貼りを一回だけ。



土居

        2008-11-10        ノルシュテインの明快で感動的な言葉をひとつ

『草上の雪』の章題アップが終わったばかりですが、
ロシアで買ってきた本のなかでちょっと気になる言葉を見つけたので軽く紹介しておきます。

レオニード・コズロフ『時間芸術』から。

---

つい最近、ユーリー・ボリーソヴィチ・ノルシュテインは、『文学新聞』(1989年4月12日)のインタビューにおいて、生の価値、人間存在および芸術創造の最も根本的な意味について、見事に答えている。「すべてはとてもシンプルな答えに帰することができるでしょう――他者を感じること、他者に目を向けること。ゴーゴリが書いているように、非常に貴い、至宝を観るかのようにして、です。(……)」

---

アニメーション表現を突き詰めていくと圧倒的な他者と出会うことになるのではないか。
そんなことを最近ふと考えていたのですが、
その矢先にこの言葉に出会えたので(といっても20年近く前の発言ですけど)その考えにちょっと確信を持てました。
(もちろんノルシュテインの言葉と僕の言葉にはちょっと開きがありますが。)

少し前まで、『外套』という作品に対して少々懐疑的になっていたのですが、
(作品自体をどう考えていいのか、ということと、あと「恥」の映画だ、というのがちょっと道徳的で教訓的ななコメントであるかのように思えてしまって。)
『草上の雪』で『外套』に対するコメントをいくつか読んだこともあり、今は楽しみで仕方ありません。楽しみというのも変かな……とにかく、ノルシュテインはやはり今も自分にとって切実な問題を突き詰めつづけているのだと理解できたわけです。

やはりこの人は例外的な作家です。

インタビュー起こしやらないと……

土居

        2008-11-08        ノルシュテイン『草上の雪』章題&引用図版リスト(4)

(3)に引き続き、ノルシュテイン『草上の雪』から第二巻の章題をアップします。

ーーーーー

○『外套』

1. 原文を何度も読み、問題集の巻末にあるような答えを見つけ出そうと努めながら映画を作るのは良くないことだ

2. 紡績機の鳴り止まぬ音を聞きながら

3. この映画で何を表現したいのかを説明することは、私にはとてもできそうにない

4. ああ、ちっぽけな人間に感じる同情の気持ちをわたしたちはなんと誇張することか、溢れ出る良心を公に見せようとする機会はどれほど自己愛の気持ちを喜ばせることか

5. 『外套』の制作で私には新しい時間の感覚が生まれてきた。心理を詳細に見ていくことで分かったのは、1秒には24コマ以上あるということだ

6. 私はピロゴフ記念病院に行き、出産の映画を観た。私はその光景の唐突さに衝撃を受けた
[図版]レオナルド・ダ・ヴィンチ「胎内の胎児」1510、ダ・ヴィンチ「胎内の胎児および女性器の構造・大きさの研究」1510

7. ミハイル・チェーホフの言葉から「舞台上での死は、生の感覚が遅滞し消滅していくかのようにして演じられねばならない」

8. 私が映写するのは、文字テクストではない

9. 映画のなかに無限の量の空想を詰め込みたいという誘惑を払いのけるのは難しい

10. 動作の発展の道筋

11. 音、演技、ドローイング、音楽のあいだの相互の呼びかけ

12. 『外套』の技術についての章

13. ゴーゴリの目は、不連続のものからなる光学器械――映画眼――の先駆けである

14. 映像描写による換喩

15. ディテール、ディテール、ディテール……

16. 「……夜にはただ時計の音だけが響き渡っていた」[プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』から]

17. 本質的には「アトラクションのモンタージュ」なのだ(セルゲイ・エイゼンシュテイン)

18. 夜、誰もいない広場に一人立っている

19. しかしどこにも逃げることはできない

20. そこにはプーシキン的な痴愚の影が見え隠れする

21. 空間とキャラクター

22. 映画、それは中断の連続

23. 棚が片付けられ、最も単純な構図に辿り着いた

24. あいまいなフォルム、映画で最もやっかいなもの

25. なぜ「家にいるアカーキィ・アカーキエヴィッチ」のエピソードが私の意志に反してこれほどの規模になってしまったか(なぜ自然にどんどんと発展していき止めることが出来なくなったか)?

26. 質問したいのですが

27. すべてこれまでどおり、ただアカーキィ・アカーキエヴィッチがいないだけのこと

28.「かくしてペテルブルクからアカーキィ・アカーキエヴィッチがいなくなったのではあるが……」

29. 復讐者としての役人。もしくは役人ではない?

30. 円は閉じられる

31.「映画の最後で巡査は幽霊を捕まえるとおっしゃいましたが、原作では彼はその誰かを目撃して尾行するだけです……」

32.「私は幻覚をみてるのかもしれないな? 1年で食費がいくらかかるって書いてあるか、見てみてくれないか!」(ジュコーフスキーとノルシュテインの会話から)

33. 「しかしなぜ外套の出現がそれほどまでにアカーキィ・アカーキエヴィッチの行動に影響を及ぼさないといけないのでしょう?」 

34. 彼は自分の道を閉ざしている

35. 「彼らは私の存在を認めもしない、見てもいないし聞きもしない」

36. 私たちの意識とぼんやりとした観念は連結する
[図版]ヤーコプ・ファン・ライスダール「エグモントの風景」1655頃、エイドリアン・ファン・オスターデ「村の祭日」1640、オスターデ「喧嘩」1637(エルミタージュ所蔵)、オスターデ「喧嘩」1635(プーシキン美術館所蔵)、オスターデ「嗅覚」1635、オスターデ「酒場の一風景」1635、ゴヤ「スヘフェニンゲンの岸辺」1634、ゴヤ「スケーターたち」1641、ゴヤ「冬のハーグ近郊(?)」1645、ヘンドリック・アーヴェルカンプ「スケート滑り(?)」1615、ゴヤ「魔女の夜宴」1820-23、ベンヤミン・カイプ「農民の争い」1630年代、シチューキン(ウラジーミル・ボロヴィコフスキーの絵の模写)「マルタ騎士団の団長の衣装に身を包んだパーヴェル1世の肖像画」1800、レンブラント「放蕩息子の帰還」1668-69、ミケランジェロ「ロンダニーニのピエタ」1552-1564、ブリューゲル(父)「十字架を担うキリスト」1564、ボッシュ「十字架を担うキリスト」1515-16、ミケランジェロ「ブルート」1539

37. アカーキィ・アカーキエヴィッチ、空想と散文的な素材との結合
[図版]リニョフ「プーシキン」1836-37、ミハイル・ロンム監督『ありふれたファシズム/野獣たちのバラード』、「地面の上ではなく」(新生児が取り上げられている写真)1980

38. すでに作られたものに慣れてしまう必要はない、幼年時代の新しい日のようなものだ

39. 撮影装置の図

40. 映画のコマには眼差しがなければならない
[図版]ゴーギャン「自画像」1889年以降

41.しかし登場人物とその感情的な側面の話に戻ろう
[図版]ベラスケス「マルガリータ王女」1660

42. 私たちは自分で経験した人生を特徴づけるような素材を集めていた

43. 日常的な物語にあるあらゆる原則について
[図版]アンドレイ・ルブリョフ「聖餐式」1425頃、ルブリョフ「足の洗浄(?)」1425頃、ルブリョフ「奉献日」1425、フェオファン・グレック「聖母昇天」1780-90年代、ルブリョフ「救世主」15世紀

44. 「堕落はあらゆる人間の魂を巻き込み、ただ信心深い者たちのみが残された」(ヴァルラーム・シャラーモフ『極北 コルイマ物語』)
[図版]「ウラジーミルの生神女」12世紀

45. 造形芸術における運動の進展のさせ方
[図版]ルブリョフ「大地に向けてラッパを吹く主の天使(?)」1408

46. 時間の香りを耳にする

47. 文学テクストにおいて意味を持たないものが映画表現では力を持つことがある
[図版]ピョートル・ボクレフスキー「ペン先を削る役人」19世紀前半、シュメリコフ「行楽の準備」、「おっとせい殺し」(写真)、ワーシリー・ペロフ「最初の官号、14等官に昇進した僧の息子」1860、アレクサンドル・ベイデマン「拘束衣を着たフェドートフ」1852

48. パーヴェル・アンドレーヴィチ・フェドートフ
[図版]パーヴェル・フェドートフ「賭博者たち」1852、フェドートフ「『賭博者』習作」1851-52、フェドートフ「手を開いた賭博者」1851-52、フェドートフ「瓶のエスキース」1851-52、フェドートフ「少佐の求婚」1848、[フェドートフの習作多数]、フェドートフ「フィンランド軍の中隊に戻る王宮の歩兵」1840年代終盤、フェドートフ「冬の光景」1841、フェドートフ「嫁入りするオリガ・イワノヴィチ・デモンカリの肖像」1851頃、フェドートフ「ハープシコードを弾くジダノヴィチ」1849、[狂気に囚われていたときのフェドートフのスケッチ]、ジェムチュジニコフとベイデマン「精神病のフェドートフを病院で見舞うジェムチュジニコフとベイデマン」1852、ベイデマン「拘束衣を着せられたフェドートフ」1852、フェドートフ「アンコール、もういちど、アンコール!」1850-51

49. アカーキィ・アカーキエヴィッチの道行きで、彼の人生は開かれなければならない(?)
[図版]タラス・シェフチェンコ「兵舎」1856-57

50. レオニード・イヴァノヴィチ・ソロマトキン
[図版]レオニード・イヴァノヴィチ・ソロマトキン「花嫁」1867、ソロマトキン「婚礼」1872、ソロマトキン「新兵の行進」1869、ソロマトキン「楽しい宴」1880、ソロマトキン「綱渡り」1867、ソロマトキン「仮装者」1873、ソロマトキン「昼食の時間」1878、ソロマトキン「塀のそばの歩行者」1879、ソロマトキン「点灯夫」

51. 技術に関することで質問はありませんか?
[図版]マティアス・グリューネヴァルト「Tauberbischofsheimerの祭壇」1523-24、ダ・ヴィンチ「聖アンナのための布の習作」1510、フェドートフ「貴族の朝食」1845、フェオファン・グレック「蝋燭」1780-90年代

52. 充分な感覚なしでは技術は不完全だ。成功は全体的な構図にかかっている。構図によって、無意味だが誘惑的な細部を退けることができる
[図版]ベラスケス「酒飲み」、ベラスケス「フランシスコ・レスハーノ」1645年頃、ベラスケス「矯人セバスティアン・デ・モーラ」1645、ベラスケス「ラス・メニーナス」1656-1657、ミハイル・ウルーベリ「牧神パーン」1899

○『冬の日』

53. 狂句、もしくは「松のざわめきの墨絵」(?)――ユーリー・ノルシュテインとタチアーナ・イエンセンの対話
[図版]アンドレイ・ルブリョフ「三位一体」1425-27、与謝蕪村「芭蕉」

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以上で終わりです。二巻あわせて、1700枚以上の図版が使われています。ここでの引用図版の紹介は一部を除いてノルシュテイン関係以外のものを挙げるにとどめましたが、もちろんノルシュテイン作品関係の図版もたくさん載っています。

『外套』は章題を訳すだけでも結構つらい気持ちになりました。「『外套』は恥についての映画である」と言っていたノルシュテインの言葉の意味が身に沁みてわかりました。『外套』の制作が開始された年に生まれた僕ですが、このどうしようもない人間の本性のようなものにノルシュテインさんはずっと向き合いつづけていたのかと思うと、背筋が凍ります。唖然とします。こんな問題、決着なんてつけようがない。この映画を作ることに関して、なにかしらの救いはあるのでしょうか?

土居

        2008-11-07        カレル・ゼマン レトロスペクティブ

明日(11/8)からシアター・イメージフォーラムにてカレル・ゼマンの回顧上映が始まります。
多くの作品がニュープリントになっているようです。
僕も通います。みなさんも是非。

公式ページ(?)

4~5日単位でプログラムが交替しますし一旦逃すと再上映はないようなので、お気をつけて。

土居

        2008-11-04        ノルシュテイン『草上の雪』章題&引用図版リスト(3)

(2)に引き続き、今回は第一巻『話の話』の章題を列挙します。

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○『話の話』

54. 小春日和の太陽の暖かさ。共同住宅から運び出されたテーブル、棚(トゥンボーチカ)……隣人たちは、その家から永遠に散り散りになってしまうその時を前にして、そのテーブルを囲んで座っていた……
[図版]ミケランジェロ・ブオナローティ「夜」1520-1534

55. 映画作品はそれ自身から育っていく……撮影されたものは脚本に書かれたものと詳細にわたって一致するわけではないのだ

56. モンタージュの愚かな文法規則をもつ映画に毒されて、わたしはこのシーンをロングショット、ミドルショット、クロースアップで撮影しようと考えていた
[「永遠」のエピソードについて]

57. 自らの職業的なステレオタイプを刷新するためには、関係する芸術の約束事を用いるのがよい

58. 撮影の日は毎日、他の日と違っている。そしてあなたはその違いを時宜を得て感じ取らねばならない

59. 芸術による誘惑は危険だ。「詩人が不在であるとする。それが本当に不在でないとすれば、それは危険なことだ(?)」(パステルナーク)

60. 落ち葉の上のリンゴ――大地のへそ

61. モンタージュ、それは好機を逃さずに矢を準備し、放ち、落下させることだ(?)。それぞれのショットはその他のショットと結合されることによってのみ、充分な響きを得る。

62. 「映画の第二部はどこから始まりますか?」

63. 単なる虚飾であることから最大限に逃れるのに可能な条件を見出す必要がある。ホルンを持つ腕の折れたピオネール、偉大なるスターリン、その他の時代の特徴は記憶の引き金を引いた


64. マーリナ・ローシャの6番目の通りにある灯りは弱い光しか放たないので、晩になれば闇になり、暗くて薄汚れたそのランプの下を孤独な歩行者たちが通り過ぎていく

65. ひんやりと鮮やかな空気を一呑みする冬

66. 「ほら、私の言った通りだ!」(「巨匠」の叫び声)[『巨匠とマルガリータ』から?]

67. 少しだけ、ほんの少しだけでも、私は望んでいるのです――私に少しの権力を与えてくれれば、「我報いん」! 対価を払う準備はできています
[少しだけ引用。「本当のところ、私の映画のあらゆるコマは私の記憶と結びついています。『話の話』だけではありません。魂の感情的な核が、映画のなかに移植されねばならないのです。」]

68. 必要でないものは躊躇せず投げ捨てねばならない。それが必要でないものだと気づくことができるのであれば……

69. 私がフランチェスカに夢の内容を話したとき、彼女はまるで主婦が家事のあいまに台所で言うかのように事も無げにこう返した――「あなたから悪いものが抜け出したってことね」

70. 戦争の後はすべてが陰鬱だった

71. 音の溶解

72. 映画を撮影してはみたものの、「時間」とはいったい何なのだろうということは謎のままに残った。貝殻に耳を寄せれば聞こえてくる波の音のように、耳の中に響いている

73. 撮影されなかった映画はいずれにせよ他でなされた仕事のなかで撮られるだろう。さまざまな思いつきが合わさって一本の映画は作られていく。かくして『話の話』にはヘンリー・ソローが暗号化して隠されている

74. 「見知らぬ人よ、もしあなたが私と話したく思うなら、私に話しかけていけないことがあろうか。私があなたに話しかけていけないことがあろうか。」(ウォルト・ホイットマン)

75. 「過ぎし日の幻影が束となって私の心に飛来するように思える……なんと空しいことか!」(エヴゲーニイ・バラティンスキー)

76. 論理的に考えればもっと前になければならない章でも、ここにおいてしまって構わない
[図版]プーシキン「草稿」、ピカソ「木のそばの二人の女」1931、ルーベンス「岩山の御者(?)」1620頃、ノルシュテイン「ルーベンス『岩山の御者』のスケッチ」2003、ブリューゲル(父)「十字架を担うキリスト」1564、ノルシュテイン「ブリューゲル『十字架を担うキリスト』のスケッチ」2003

77. あるとき、家に帰ると、オオカミの子の最初のスケッチを私が描いた紙の隅に、フランチェスカに似たなにかが描かれているのを見つけた


78. 善く育てられた子どもは芸術の助けになってくれる

79. 「絵画に命を吹き込むことは、アニメーションの伝統的な方法なのでしょうか?」「まとめてしまえば、このように言うことができます――アニメーションのカーニバル性が問題なのです」

80. 撮影が始まるのは紙くずに囲まれた作業机においてである

81. 間違いに対しては代償を支払わねばならない
[図版]アントワーヌ・ペブスナー「30度のダイナミックな投影(?)」1950-51

82. しかし動きの原則というものはやはりあるのだ

83. 原則はある、しかしその奴隷になる必要はない。自由の奴隷になる必要もまたない。

84.「この地平線全体に静けさが広がるように」

85.フィルムにだってやはり目はある。必要な眼鏡を選んでやらねばならない。

86. 「撮影装置の層の大きさはどのくらいですか?」「80cm×120cmのガラスです。『霧のなかのハリネズミ』と『話の話』では60cm×120cmでした

87. 完全なるお役所用語

88. キャラクターは自らに空間を「引き込まねば」ならない。たまにはズボンに片足を突っ込み損ねてしまうこともありはするだろうが
[図版]ゴヤ「冬のハーグ近郊(?)」1645、ベラスケス「朝食」1617-18、ベラスケス「イギリスの道化師アンソニーの肖像(?)」1640-42、レンブラント「丸襟をした若者の肖像(?)」1634

89. 観客を甘やかすな、彼らはもう充分に大きいのだから

90. 「『話の話』ではアストロロンは使っていますか?」

91. ホイルを手に取って、下塗りをして、着色してみてください。そうすれば私とフランチェスカがこのやり方を採用している理由がわかります

92. しらふのプラグマティスト、レオナルド・ダ・ヴィンチはしっくい塗りのうえにできたカビの染みに空想の材料を探しなさいと助言した

93. 光のもとで絵を描くのがよい。光、それは生と映画の物質

94. 芸術的な高みを作り出すのは技術の有機的な可能性である

95. 「北斎の『九段牛々淵』を分析しながら、あなたは空間の変容について語りました」

96. 撮影の技術について、照明の可能性について、動きについて

97. 撮られたものの背後に残されたもの

98. 「ああ、それでもやはり残念だ」(ブラート・オクジャワ)

99. 映画が作られるのは脚本によってでも監督の作業によってでも優れた美術によってでもない――映画はその人を取り巻く状況や記憶によって作られる。あなたはそれをあらゆる瞬間に投入するのだ。(私のおじさんを写した)写真を見ていただきたい……
[図版]レンブラント「赤い服の老人」1652-54、レンブラント「笑う自画像」1668

100. 追伸

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次回は最終回、第二巻の章題をすべてアップします。

土居

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