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アニメーションズ、創作と評論


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        2008-05-24        DVD『カフカ 田舎医者』もうすぐ発売

山村浩二『カフカ 田舎医者』のDVDが5/30に発売されます。
あの傑作をいつでも家で観ることができるチャンスです。
是非お手元に一本、そしてこのインタビュー記事この座談会の記事を読んでさらに過去の作品へと遡っていけば、山村ワールドをより深く味わえること間違いなしです。さあ、どうぞ!

「カフカ 田舎医者」[Amazon]
年をとった鰐&山村浩二セレクト・アニメーション[Amazon]
「頭山」 山村浩二 作品集[Amazon]

「知られざる」の方でも告知されていますが、5/31 14:00から、タワーレコード新宿店にて山村浩二サイン会があります。オリジナル・ステッカーももらえるみたいです。アマゾンで安く買うのもいいですが、タワレコ(新宿店か渋谷店)で買って一期一会なサイン会に参加してみるのもいいかもしれませんね。
(マーク・コズレックのインストアもタワレコだったし、タワレコはイケてますね。HMV派の僕ですが、タワレコ派になってみようかなあ……)

最近ちょっとAnimationsのホームページの更新が停滞気味ですが、
いろいろと立て込んでいるのですいません。
もうかなり前にプリート・パルンについての座談会は採録済みなんですけれども。

お詫びといっては何ですが、7月の終わりごろ、とある港町で、もしかしたら何かが起こるかもしれません……
今年の夏はきっと暑いです。


土居
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        2008-05-19        「ヤング・パースペクティブ」Fアニメーション全景

イメージフォーラムフェスティバルのパノラマ上映、「ヤング・パースペクティブ2008」のアニメーション・プログラムに行ってきました。

全体的に出来が粗く、せっかくの良いアイディアが殺されている作品が多数見受けられました。

気になった作品についてメモ書きしておきます。

『迷走赤ずきん』(pecoraped)はもう何度か観ていて既にコメント済み(検索してください)。「なんでこんな展開の仕方ができるのだろう」とハッとさせられる瞬間があります。破綻してもいいので次はもっともっと爆発してほしい!あと音はもっとちゃんとしたクオリティにするべきなのでは……

『NOS・TAL・GI・A』(長島敦子)は、村田朋泰インスパイア系?

『チェーンソー・メイド』(長尾武奈)はスプラッター・アニメーション。吐瀉物や血液が吹き出しまくりますが、その質感が凝っていて、非常に気持ち悪かったです(褒め言葉)。作家さんはホラー映画のファンだそうですが、その愛は伝わってきました。ただ見せ場でないところのささいなアニメートが非常に雑で、そこらへんの底上げがあればもっと面白くなるのになあ、と思ったりもしました。

『雲の人、雨の人』(上甲トモヨシ)も既にコメント済み。雲の人はとてもよく動いているのですが、それに比べて雨の人の描写が雑な気がしました。水はもうちょっと気持ちよい弾力を持つべきなのではないでしょうか?物理法則をきちんと踏まえていないところも数カ所ありました。踏まえるべき作品だと思うので。

『ECOH』(野上寿綿実)は非常に良かったです。脈動と静止が音楽的なコンポジションを作り上げていて、さらに画面の強度自体も脈動している感じでした。元から良い質感の作品を作る方でしたが、この作品ではそれが作品全体のリズムとして有機的に機能している気がしました。次はさらに良い作品ができあがるのではないかという期待を抱かせるような良作でした。

『グレート・ジャーニー』(橋本新)は絶対もっと面白い作品に出来たはずだよなあと思いました。

『記憶全景』(横田将士)は、ICAFで観て僕の目を覚ましてくれた『いくえみの残像』(コメント済み)の作者の方の新作。写真(映像をコマに落としたもの?)が積み重なり立体が出来上がっていくという手法は、今作も同じです。記憶(写真)が堆積してかたちができあがっていくということ自体が感動的ななので、やはりこの作品にもグッと来ました。ただ、前作のときも思いましたが、やや荒削りすぎるようなところがあって、積み重なっていく記憶と作者のあいだの距離感が、観客の立場からはどうも掴めない。前作は死んだ猫への追悼なのかと思ったら猫は生きていて、「じゃあこの猫のオブジェは?」とクエスチョン・マークが少し出てしまいましたし、今作は登場する人々が誰なのかよくわかりませんでした。タイトルが示すようなテーマでやるのならば、対象との極私的な関係性が画面からにじみ出てくるようなものが観たいなあという気がしました。(両作品とも、自分の部屋が舞台の一つになっていると思うので、そこには個人的ななにかがやはりあると思うのですが。)ハッとさせられるような瞬間は多いのですが、それがどうも瞬間で終わってしまう。その瞬間が持つ濃密さが作品全体に広がれば、ものすごい作品が出来上がるのではないでしょうか。この手法自体にはものすごい可能性を感じます。とはいえ、こういった普遍的なテーマにがっぷりよつで取り組める人というのはとても貴重で、絶対にもっとすごいものが作れる作家さんだと思うので、作品の質の底上げを是非頑張ってもらいたいなと思った次第であります。新作を熱望してしまう、数少ない日本の若手作家です。

『風と猫』(中里暁子)は、不思議な魅力を持った作品。正直言って何の話なのかさっぱりわかりませんでしたが、それでもなんだか納得してしまいました。小麦や猫の毛の揺れ具合がとても良かったです。

『さら』(高橋三紀子)は、「なんだかみたことのある絵と質感だ」と思ったら、『sous』の方でした(コメント済み)。日本の若手作家には珍しく、映像のリズムがとても良いです。ぐるぐる回る看板も、CGのシミュレートした動きが大嫌いな僕でも平気でした。むしろ異物感が出ていて良かった。ぬめ、むにゅ、という気持ち良さ(気持ち悪さ)の表現に磨きがかかっていて、ちょと和田淳さんの作品を思い出したりもしました。この方も作りつづけていればどんどん良くなっていくはずだと思いました。

『ウシニチ』(一瀬皓コ)はもう何度もコメントしている気がします。完成度は高いですが、ちょっとまとまりすぎかな?

『lolololイドラ』(大須賀政裕)も、なんかどこかで観たことある感じの質感だと思ったのですが、やはりICAFで違う作品を観てました。音と映像はもうちょっと調和するべきなのではないかと思いました。(シンクロさせろと言っているわけではないです。)

6/14 19:30-からもう一度上映があります。是非どうぞ。

土居

        2008-05-16        SCREENING ROOM シリーズ「CAROLINE LEAF & MARY BEAM」

der.orgで販売している"Screening Room Series"には
キャロライン・リーフが出演している回があります。

「私が一番興味があるのは動きなの」
「たくさん描きすぎているアニメーションが多いと思う。動かすこともできないのに。」
そんな彼女の言葉を聴いて、キャロライン・リーフの信じられないくらいに凄いアニメーション作品の秘密が少しだけわかったような……

動きがすべての中心にあることは間違いないのですが、
物語もなにもかも、動きの付随物に過ぎないような、そんな感覚が彼女の作品にはあります。

でも、動きといってもそれは映像だけの話ではないです。
彼女の作品を、あらゆるジャンルの芸術作品の歴史上の一級品と肩と並べるようなものにしているのは
その類いまれなる音の動きへの感性です。
言葉にするのがすごく難しいことで、今はただ「わかるよね?」としか言えないのですが、
わかりますよね?

わからない方はいますぐ『がちょうと結婚したふくろう』と『ストリート』をみなおしてください。

「NFB傑作選 イシュ・パテル/キャロライン・リーフ /ジャック・ドゥルーアン作品集」[Amazon]

映像や音の動きが一体となって、「リズム」とでも呼ぶべき塊が画面から響いてくる瞬間を味わえます。
ラーキンについての座談会のなかで、『ストリート・ミュージック』を観るとどうしても泣いてしまうと言いました。その原因はどうもそういった「リズム」なのではないか……
その人しか、その作品しか確立できない、オリジナルな「リズム」。
どうも、そういうものを体験すると、涙腺が反応するように僕の身体はできているようです。

彼女は自分のことを「ストーリーテラー」だと認識しているようです。
でも、ストーリーは動き・リズムなくして語れません。
どんなストーリーを語るか、
どのようにストーリーを語るか、
それに加え、どのようなリズムでストーリーを語るか、
それがアニメーションにとっては(特にインディペンデント作品)重要になってくるのではないでしょうか……

Screening Room Seriesの紹介をしようと思ったんですが、脱線して終わってしまいました。

土居

        2008-05-14        『世界の人形アニメーション』BSハイビジョン放送

友人の日記書き込みで知ったのですが、今日明日と、NHKで『世界の人形アニメーション』というシリーズが放送されるようです。

『世界の人形アニメーション』オンエア予定

『ピーターと狼』、『マダム・トゥトリ・プトリ』とメイキング、スタレヴィッチさんのドキュメンタリー、川本喜八郎さんの『死者の書』の3回のシリーズです。
再放送もあります。

BS-hiが見られる(うらやましい)環境にある方、この機会にぜひ~
荒井

        2008-05-06        ソビエトアニメ劇場 プログラムD

ソビエトアニメ劇場 プログラムD 「ノスタルジー」

・『ガイドゥーク』(1985、ユーリー・カツァプ、レオニード・ゴロホ)
切り絵ですし、見た目は完全にノルシュテインっぽいんですけど(『アオサギとツル』)、悪魔(の仮面?)の造形のすばらしさ、動物たちの猪突猛進ぶり、水面に映る月の光の美しさ、そしていいかげんな物語の展開のしかた、これら全部あわせて結構魅力的な作品になっています。民話をベースにしたものって、その物語に親しんでいない人が見ると、なんだか突拍子もなく思えてしまいますね。でも、たくさんの人が長いこと語り継いできたということだけあって、やっぱり独自のロジックがしっかり通っています。わけがわからないまま、でも惹き付けられる磁力を感じてしまうのは、それゆえなのではないかと思ったりしました。

・『ビッグ・テイル』(1980、レイン・ラーマット)
真面目で突進力のある人、でもちょっとユニークな性質をもった人は、ときおりものすごい力を発揮してしまうものです。この作品は面白い。さきほどの民話の話と同じく、理解不能ながら、明らかになにかの筋が通っている。主人公の巨人や、その敵の悪魔の造形なんて、なんでこんなおかしなものにしたのかよくわからないのですが、ものすごく説得力がある……きちんと自律したラギオニ的な悪夢世界。これを大きなスクリーンで観れたのはすごく幸せなことです。(今日はバウスの1で上映だったのです。)あの巨大でキモい怪物のどアップがたまらなく愛おしいです。ほんとに邪悪なんですもの。「ああ、邪悪だなあ……」としみじみ感じていました。巨人が戦争を助けるという話なのですが、ほんとに巨人なので人間(?)どもは楽勝で倒せます。スコップで土を掘り返すかのような軽やかさ・作業感でホーイと人間が死んでいきます。こういう作品って、全世界的な平準化が進む今では絶対につくれませんよ。ほんとに不思議で、とても魅力的な作品です。

・『魔法にかけられた鳥』(1985、ハルディ・ヴォルメル、リホ・ウント)
これもまた不思議な作品……魚とりマシーンたちの島のお話(たぶん)。話の常として出来の悪いやつが一人いて、魚をとるどころか魚の遊び道具になってしまったりするんですが、彼は自分の役割をきちんとこなせないかわりに(こなせないがゆえに)、他人になり、他人と共感することができます。存在の柔らかさ。みずからのうちにさまざまなイメージを宿らせることができます。実際のところ、自分の役割をきちんとこなせるやつらは、機械でしかないわけですし……。現代にも充分説得力をもつほどにこの作品は骨太です。

・『夜』(1984、ウラジーミル・ペトケーヴィチ)
アニメーターに「A.ペトロフ」って書いてありました。絵柄が『雄牛』のペトロフそのまんまでした。なのでアレクサンドル・ペトロフがアニメーターをやっているんだと思い込んだまま観ていました。(プラトーノフ原作だし……)陰影表現の見事さと、背景を構成する小道具たちの微細な揺れ……ピンスクリーン的な繊細さがありました。夜がきて、子どもは「自分はだれ、ママはだれ、かぶとむしはだれ」と問いつづけ、家の外まで徘徊します。木も土もなにもかもを人間として捉え、でも実際には人間ではないので、人間にしてみたとしても違和感は残ります。その決定性と不安定さのバランスが、手法のもっている可塑性とマッチしています。ああ、アニメーター時代のペトロフ作品は素晴らしいものに違いない、家に帰ったらチェックしないと……と思っていたのですが、確認してみたら、このA・ペトロフはアレクサンドルではなくアナトーリーでした……まじかよ。ほんとに?

・『プリッチオ』(綺想曲)(1986、イーゴリ・ヴォルチェク)
これも映像の質がたまりません。回想と現実が入り交じる構成で、当然のことながら夢うつつな世界になっているのですが、それゆえに世界があまり安定しません。切り絵とドローイングを混ぜこんだり、極端なクロースアップを挿入したり、見え方を違うものとするための様々な工夫がみられます。光の暴力性が僕は気に入りました。ゴーって感じなんです。カメラの引き・寄りもすごく効果的で、これは物理的なカメラを実際に動かしているからこそ生まれるぎこちなさなのでしょうね。アナログの力です。同じ電車ものですが、"Madame Tutli-Putli"よりもこっちの方が断然良いです。

・『祖国の樹』(1987、ウラジーミル・ペトケーヴィチ)
またしてもペトケーヴィチさん。ペトロフさんも再び。木が水となり、大地と人間が混ざりあう……それゆえに今度は『おかしな男の夢』を思い出したのですが、何度もいいますが別人でした。文化的バックボーンがしっかりしているからこそつくりうる、骨太作品。

・『飛翔』(1973、レイン・ラーマット)
わかりやすいなー

・『人になるには』(1988、ウラジーミル・ペトケーヴィチ)
ラストもペトケーヴィチさん。地獄でいたずらするのにこりごりになった悪魔が地上に出て改心し、人間になろうと教会を訪れるのですが……人間たちの「自分のしていることをわかってなさ」が途方もなくすごく、よくもまあここまでいろいろなアイディアを詰め込んだな、という感じ。全部さりげなく入っているのですよね、しかも。結局地上の人間世界も地獄とあんまり変わらなかった、みたいな感じで、すごく切ない気持ちになります。基本的にはユーモラスなんですけど、かなり骨太(今日三回目ですね使うの)なメッセージを隠し持っています。悪魔が描く十字架だったり、はたまたその悪魔は本当は精神を病んだ人間なのではないか、と思わせたり……もうちょっとじっくりと向き合ってみたい作品です。この監督、結構いいかも。

そんなわけで、Dプログラムはおすすめです。

ソビエトアニメ劇場

土居

        2008-05-05        ソビエトアニメ劇場 プログラムC

○プログラムC 「ファンタジー」
・『雨はやさしく・・・』(1984、N.トゥリャホジャーエフ)
事前のアナウンスとは異なり、この作品が一番最初でした。様々な素材を用いること、アニメートがラフであること(フェイドを使ってアニメートする作品は今回の催し自体に多かったですが、流行りでもあったのでしょうか)が、作品に独自の雰囲気を与えています。ロボットの動きには強烈なインパクトを受ける人もいるでしょう。人間をリアルに動かす場合、かなり制約があるでしょうが、未知の生物(ロボットなんで生きてないですけど)をリアルに動かす場合、そのリアルって一体なんなんだ、ということになりますし、それなりにきちんと筋が通っていれば、「これがリアルなんだ!」という主張は通じますね。毎日の生活を補助するロボットは、人間が死滅したあとでも動きつづけます。異様なものだけが動き回る世界。滑らかに動く鳥が入り込むとそちらの方が逆に異物だと認識されてしまうような世界。演出があまりにストレートすぎて、「それはないだろう」と思ってしまうほどにやりすぎになったりするのですが、ラストがとても良い……希望などなにも感じさせないこの作品は、やはりできるなら一番最後に持ってきてほしかった……確かこの作品、ビデオで出てますね。新宿ツタヤにあったような……
・『ミトン』(1968、ロマン・カチャーノフ)
レビュー書いてますから、そちらをみてください。昨日、『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』を観ましたが、なぜジジェクはこの作品を引用しなかったか……まあそれはともかくとして、僕にはこの作品はやはり奇跡的なもののように思えます。女の子や犬のアニメートをみてください……愛おしさがどこまでも沸いてきませんか。媚を売るようなものではない、誰に向けられているのでもない、子どもの身体の動きのだらしなさ・暴力性が見事に描かれていると思いませんか。(冷蔵庫をしめる女の子の足の動き……)最後にはやはり泣いてしまいました。
・『レター』(1972、ロマン・カチャーノフ)
今までこの作品にはあまりピンとこなかったのですが、今日はビンビンに反応しました。存在しないものを夢想する、というのは今日のカチャーノフ作品にすべて共通しています。『ミトン』や『レター』が素晴らしいのは、登場人物それぞれがそれぞれのファンタジーの世界を持っていて、一つの作品のなかで、それらがすれちがったりぶつかったり時に融合したりする。その運動性がすごくいい……男の子の空想が他人に実際に目撃されてしまうとき、実際に母親を家へと運んでしまうとき、物理的な法則に支配された現実なんてものはほんとうはないのではないかと思わされます。街のセットが立体と平面(シルエット)で出来ていること……同じ建物の、ある部分は立体で、ある部分は平面であること……ああ……ぼくたちが目撃しているのは、だれかの空想の世界なのです。だれかが見ている世界なのです。ジジェクはなぜカチャーノフを引用しないのか……カチャーノフは人々のファンタジー世界のあいだの違いを直接的に描いたりはしません。(素材を変えたりリアリティのレベルを変えたり。)でも、その作品世界は、さまざまな人の空想が多層的に積み重なってできあがった、色とりどりの世界なんです。実際に色が付けられているわけではないですけど、その色をぼくたちはたしかに感じるんです。父親からの手紙が届くラストは、『ミトン』同様に、それまでみな違う世界に生きていた人達がみな同じ世界を共有するようになります。ああ、なんたるハッピーエンド。カチャーノフはなんて素晴らしいんでしょうか。この文章を書きながら涙がでそうです。
・『ママ』(1970、ロマン・カチャーノフ)
この三作は共通して、自分の(空想)世界に入り込み、他人の存在が見えない母親を描いています。この作品は、そのアイディアだけで突っ切ろうとしてます。それゆえに単調であまり面白くありません。最後にハトが出てくるところはすごくいいです……アニメーターはノルシュテイン一人だけなんですね、この作品。ノルシュテインって、もちろんユーリーさんですよ。
・『最後の一葉』(1984、アーノルド・プロヴス)、『夢』(1983、アーノルド・プロヴス)
美術がすごく凝っていて、よくもまあここまでセットを作り込んだものだなと感心します。チャップリンがなぜか主人公であることも含めて、世界観だけは異様に出来上がっています。だから没入できる人にとってはすごく良い作品になるのではないでしょうか。た、だ、し! この二本は字幕ないです。
・『コサックの幸福』(1969、ウラジーミル・ダフノ)
馬が欲しいと旅に出た男は、分かれ道にてタロット師にどの道を進むのがいいかたずねます。しかしどの道を選んでも女性との出会いが待っていることだけを知らされ、男は「馬がほしいだ」とフンっ、って感じで進みます。でも結局、実際に女性と知り合ってしまえば、馬じゃなくていいやと結婚してしまい馬は諦めます。運命には逆運らえないのですね。

プログラムDについてはまた明日。一言、結構面白かったですよ、D。

『ミトン』『レター』はDVDを買って損なし!
「ミトン」[Amazon](『ミトン』『レター』『ママ』収録)

土居

        2008-05-04        イメージフォーラムフェスティバル プログラムP

ラスボス:異形の3D,CGアニメーション」を観てきました。
前日のエントリであんなことを書いておいてなんですが、バリー・ドゥぺ『取り乱した母、子供たちと再会する』はなかなか面白かったです。3DCGのつるつるした感触ではなく、レトロゲームのような粗い質感で、バグったかのような造形のキャラクターたちは、一体どこが身体のどの部分なのかを時折見失わせます。逆に、何なのかがはっきりとわかるものが、なんだかわけのわからない邪悪なものとして変容しつつあるような気がする瞬間もあり(メタモルフォーゼはまったくしていないにもかかわらず)、はらはらさせられます。映像としての強さを持ちつつ、通常の因果律からはかけ離れた世界が自律的に現出していて、それぞれのディテールはバラバラのまま放り出されます。あたかも、他人のやっているゲームの画面を(それも物語やシステムのわからないゲームを)見せられているかのよう。ゲームをやってる本人にとっては意味のある行動も、プレーヤーの意志のわからぬ人から見れば意味不明になるものです。でも、そこに法則はある。ただ自分にとってはわからぬものである。文脈・関係性の喪失した映像(それでいて、あきらかになにかの意図が働いているもの)がもつ不気味さを強く感じました。
他の作品については特に何も言いたくありません。

『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』も観たのですが、まりにいろいろなことを思わされてしまったので、コメントは差し控えさせていただきます。

土居

        2008-05-03        イメージフォーラムフェスティバル プログラムA, C, R

アニメーションという同じ表現媒体であっても、違う言語で語りかけているような人たちがおり、ならばその違いを乗り越えて、相互理解を目指すべきなのですが、今の僕の力では残念ながらそれは無理です。今回の抽象アニメーションプログラムのようなものであるならば、特に優れたものであるとも思えないので、なんとも思わないのですが、優れた作品であると肉体的にはわかりながら、それが言葉として身を結んでこない一連の作品というものがあります。
現代美術の領域で利用されるアニメーションだったり、商業アニメーションもそうだったり。そして、実験映画系の文脈にある作品もまた、僕にとっては少々語るのが苦しい対象であります。

イメージフォーラム・フェスティバルは、僕にとってはそういう苦難の場でもあります。

プログラムAの石田尚志さんの作品は、確かな質をいつも感じさせてくれます。今回の『海の映画』も堪能させていただきました。しかし、どうしても言葉が沸いてこない……相原信洋さんも、田名網敬一さんとコラボをするときには(『CHIRICO』)いつも戸惑いを感じてしまって、なんだかただ傍観者でいることしかできないような、作品に共に参加できない寂しさを感じます。プログラムCの倉重哲二さんの作品『眺めのいい部屋』は、既視感のあるアイディアが生煮えのままたくさん投入されているような印象で、倉重さんの作品は、観ているといつも文字が頭のなかに浮かんできます。映像を観ること自体の快感というものがほとんどなくて、僕みたいな人間にとっては少々厳しい。今回は初めて部屋の外を舞台とした作品とのことですが、僕としてはもっと自由なものが観たいと思ってしまいます。でも、結局のところ、僕の思うアニメーションの素晴らしさというものも、ただ単に一面的なものでしかなく、他にもきっといろいろなアニメーションの可能性があるのでしょう。

逆にアニメーションでなくとも、もしかしたら同じ言語で話している可能性があるのかも、と思わされる作品があります。プログラムCの牧野貴さんの作品(『DIARIES』)は、ご本人がとても誠実そうな方なのが素晴らしいのですが、なによりも、その誠実さ・真面目さがきちんと作品として身を結んでいるのが感動的です。

プログラムRのトニー・コンラッド作品集。恥ずかしながら今回が初見でした。
フリッカーでてんかん症状を起こしてしまうのではないか……と本気で悩んでいたのですが、大丈夫でした。
ただ白と黒が明滅するだけで、特に何もこちらに押し付けてこない『フリッカー』は、スクリーンから一方的に、不可逆の長さを持ったものとして映写されているものなのに、その画面を眺めているといつしか直線的な時間の観念が消失して、ただ目の前の変容を見つめるだけの軽い瞑想状態のような感じに陥ります。テレビの砂嵐がただ流れるだけの『フリッカー伯爵の目』もそうだったのですが、日常的な時間からの解放を味わうことができ、何も起こらないにも関わらずまったく退屈せず、作品が終わるときにはむしろ「もう終わってしまうのか」と残念な気持ちで充たされてしまいました。テリー・ライリーとジョン・ケールの素晴らしい共演をバックに白黒のコマのフリッカーに縦と横のストライプが混ざる『ストレート&ナロウ』は、白黒の作品なのになぜか僕の目にはオレンジ色や緑色が本当に見えてきて、人間の知覚というのはいい加減なものだなあ(アニメーションを観るときにもいつも思いますが)と知らされます。コンラッドの作品は、映っていないものを観客が勝手に観てしまうようなものが多いです。どこか遠くの世界に頭が飛ばされてしまうこともそうですが、『フリッカー』であれ砂嵐であれ、なにかが見えてきてしまう。(僕には犬や巨大な赤ん坊が見えました。)人間っていうのは随分いい加減にできているのだなあ、とやはり不思議に思ってしまう。
「映画ってのは人間関係を描くものなんだ」と僕の友達が言っていましたが、映画はそうなのかもしれませんが、それは単なる一つの可能性。映像にはもっといろいろな可能性がある。僕が好むようなアニメーションは自分と世界との関係性を、一人称的に描くものが多いです。人間関係が成立する前の状態。だから必然的に瞑想的にも退行的にもなる。子どもの視線が多いのもそういう理由でしょう。アニメーションというメディア自体が、そういう表現に向いているような気もしますし。だから映画的でないアニメーションの可能性というものがある。
コンラッドの場合、さらに根源的なレベルの問いかけが発生してくるような気がします。人間の身体の仕組みの不思議さ。錯覚や知覚の書き込みなど、人間という生物種であるがゆえに持つ特徴の不思議さ。この段階ではもはやコミュニケーションさえ成立せず(だってみんながそれぞれ何が見えているかさえもう不確かなんだから)、ただ、自分の身体がこのようにできていることを感嘆することしかできない。(知的に、ではなくもっと肉体的な実感です。)これもまた映像の一つの可能性。
アニメーションというメディアを専門としているせいで一般的な映画からこういった実験的な作品までいろいろと観なければならず、それは冒頭に書いたような悩みを生み出しもするのですが、映像のいろいろな可能性を知らしめてもくれる。僕の人生的に考えたら、それはとても素晴らしいことなのかなとも思います。

そんなわけで、みなさんもコンラッド特集を観にいきましょう。5/5にまたあります。
(僕は今日、3DCG特集にいって、また冒頭のような苦しみを味わうことになるでしょう……)

土居

        2008-05-02        ソビエトアニメ劇場 プログラムB

ソビエトアニメ劇場、今度はプログラムBです。

Bプログラム アイロニー
○『つくり話 Time Out』(1984 、プリート・ピャルン)
パルン作品です。(ロシア語表記だと確かにピャルンなのですが、エストニア語だとどうなのか……)DVD「年をとった鰐&山村浩二セレクトアニメーション」[Amazon]に収録されている作品。そちらでは「おとぎ話」となってます。ロシア語タイトルだと「作り話、でたらめ、おとぎ話」という意味で、英語タイトルだと「小休止、タイムアウト、時間切れ」という意味。エストニア語がわからないので、エストニア語タイトル「AEG MAHA」を検索にかけてみたところ、やはりTime Outという意味みたいです。慌ただしく生活するクマちゃんの意識がぶっとんで空想の世界が広がっていくという物語の内容からして、英語タイトルの方が的確ですよね。テーマ曲が頭から離れません。ヘイホー。

○『草上の朝食』(1987、プリート・ピャルン)
パルン作品。この作品については、後日アップ予定の座談会でたっぷりと……ディテールが本当に複雑に絡み合っていて、今回の鑑賞でも、新たなつながりを発見してしまいました。パルン作品は何度観ても面白いです。日本語字幕がついているので、この機会に是非観にいってみてください。

○『パパ・カルロ劇場 Papa Carlo Theater』(1988、ラオ・へイドメッツ)
ヘイドメッツ作品は面白いですね。基本的には人形劇を映していて随所にアニメーションが挿入されていくんですが、アニメーション・パートの反重力&人形の自律と非アニメーション・パートの重力への降伏&単なる人形化のあいだの映像の力感の違いのリズムがとても面白い作品。題材も物語の舞台もシュヴァンクマイエル作品のいくつかを思い出させること請け合いです。でもこれもパルンが脚本に絡んできて、やっぱり容赦ないです。すごくエスカレートするし、ラストも結構すごい。
 
○『ジャンプ』(1985、アヴォ・パイスティーク)
レイン・ラーマットと並ぶ、パルン以前のエストニア・アニメーション界の巨匠の一人、アヴォ・パイスティーク作品です。チラシのあらすじでは「乳呑み子の時から跳躍に憧れてジャンパーになった男は……」って書いてありますけど、間違ってませんか?ハードル走の偉大な選手が国民の期待に次第に応えられなくなり追いつめられながら、見事な復活を果たす。国民の期待は当然再度ふくらんでいき、それに伴ってハードルの高さも上がっていき、上がりすぎて、いつのまにか競技が高飛びに……、って感じのような気がします。でも描き方はシリアスで、おちゃらけたところがなく、それでいてやっぱりおふざけ感の強い作品です。エストニア的なヒネリが効いています。「そういう省略の仕方するか?」と驚いてしまうような異形・異様さ。ほんとに異様なんですよ。最後、国民の期待は気にせず、あくまで自分のために飛ぼうとする主人公はかっこいいですね。(でも競技ちがってますけど。)
 
○『ペスト』(1983、ダヴィット・タカイシヴィリ)
今度はグルジアものです。油彩のどろどろとしたキャラクターを使って、ペストの流行を描いていく作品。犬の排泄物を処理して……犬が新聞の売店に入って……こんなふうにしてなにげなくペストが広がっていく様子を、グラフィカルに描きます。(ペストにかかると赤黒いドロドロの色になる。)さて、オチはどうなる、と楽しみにしていたらいつの間にかペスト=ファシズム(あとたぶん=共産主義ってことなんだと思う)という方向転換がされていて、そのあからさまさにがっかり。

○『地獄』(1983、レイン・ラーマット)
そしてタリンフィルムにまた戻り、真面目なラーマットさんの作品です。ラーマットさんは人間の強欲はけしからんと本気で思っている節があって、作品にもそれがストレートに反映しているような気がし、あまりにそのまんますぎて深みに欠けているような気がします。一回しか観ていない作品なので違うかもしれませんね。すいません。

○『シティー』(1988、レイン・ラーマット)
この作品はストレートすぎて逆に面白かったです。都市。人々が平和に日々の生活を送るなかに、突如として真っ黒な四角が!叫ぶ住人たち。黒い四角は勢力を広げ、次第に住民たちを押しつぶそうと……人々は団結し、合体して、白い巨人に!(まじかよ……)黒の四角をやっつけるぞ!しかし黒は賢く、女や金の力を利用して、人々をバラバラにします。巨人も分裂します。あまりに図式的すぎますが、これはやりすぎていて面白いです。

結構おすすめのプログラムでした。

CとDも観たらまた書きます。

土居

        2008-05-01        イメージフォーラムフェスティバル プログラムB

イメージフォーラムフェスティバル、
アニメーション作品が入っているやつは極力チェックしようと今日も行ってきました。
プログラムBです。コメント残すのはアニメーション作品だけにしておきます。
『ZAP CAT』(2008、相原信洋)。今回のフェスに二つも作品を出している相原さん、先日のラピュタフェスでのトークでお話されていたことをきちんと実践なさっているみたいです。インクのフタが残す黒いマルが次第に加速していき、あとはいつもの相原節。心なしかいつもよりも勢いが激しくなっているような気がして、あっというまの4分間でした。
『家族デッキ』(2007、村田朋泰)。ICAFに迷い込んでしまったのかと思ってしまいました。この方の作品を観るのはおそらく『TOKYO LOOP』以来ですが、こんなに素人みたいな作品作る人でしたっけ?『TOKYO LOOP』での作品同様、レトロ感を前面に押し出しており「なつかしい」というラベルがたくさん貼ってあります。「あー、この感覚わかる」と反応できる人だけがビビッとくるんでしょうね。需要があるなら別にいいんじゃないですか。僕は別にいらないですけど。

土居

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