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        2008-02-14        Cjaxセカンドステージ@カナダ大使館

今日はCjaxのセカンド・ステージでした。14:30から21:00まで(実際には23:30まで)、しっかりアニメーション漬けでしたよ。特にカナダ側の上映作品は昨年の東京国際映画祭と同じだったので特にここで付けくわえることはありません。東京国際映画祭のレポートをどうぞ。

それでもいくつか追加の印象を。赤木紗英子『しももも』からは、この人は日本の短篇アニメーション界では結構稀な感性の持ち主であるような気がしました。いろいろともうちょっとうまくなれば、という感じがしました。和田淳『やさしい笛、石、鳥』をみて「やっぱこの人すごいわ」と改めて感心したことも記憶に残っています。人間が集団で暮らすようになってからずっとある構造をさらっと描いてしまっています。今回のメンツに、辻直之さんとか半崎信朗さんとかがさらに入っていればいいのに、とちょっと思いました。"I Met the Warlus"は何回観ても飽きないですね。ラストの花がすごく良いです。インタビューの切り出し具合の構成がとてもいいです。

人形アニメーションについての座談会でちょっと話がでている『パラダイス』のジェシー・ローゼンスウィートさんの講演もありました。正直言って今ものすごく酔っぱらっているので講演の内容を報告することはできませんが(今度します)、作品から受ける印象ともども、「ああ、頭の良い人だ」と思わされました。懇親会までいったあと、ジェシーさんらと少人数で打ち上げもしました。ジェシーさんはとても親しみやすい方で、少しも気詰まりを感じることなく、お話しできました。最近カナダの方とばっかり会っていますよ。

京都は2/16です。Animationsの和田さんが、杉井ギザブローさんやジェシー・ローゼンスウィートさんらとトークします。マンガミュージアムへGO!

酔えば結構なんとかなりますね。広島ではみなさん酔いましょう。

土居
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        2008-02-10        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(6)

 この日の話は、四日目に続く話で始まった。
 『アオサギと鶴』の制作作業は、二匹の鳥が暮らす廃墟という空間が発見されたことによって、一挙に進むこととなる。空間がある程度物語を規定するのである。キャラクターたちは、空間のなかに調和して動かされる。廃墟やブランコは物語を自然と生み出す装置となる。(この考え方は『霧のなかのハリネズミ』でさらに押し進められることとなる。)キャラクターと背景が調和する必要がある。この言葉は、最終的に、音や映像、その他すべての要素が一体となって有機的に結び付くべきである、というノルシュテインの考え方へと発展していく。(エイゼンシュテインの影響が容易に見てとれる。)ただし、背景というのはキャラクターが動くための空間であるだけではなく、雰囲気を喚起する役割もある、ということも忘れてはならない。
 『アオサギと鶴』についてのノルシュテインの解説は、詳細にわたるものとなった。作品のテーマは、「自分の品格を誇示するための虚飾によって本当の気持ちが伝わらない」というものである。二匹の間にあるのは愛なのに、二人の間にはいつも衝突が起こり、幸せは、それがもう少しで手に入る瞬間に逃げていく。ノルシュテインが意識したのは非常にチェーホフ的な話である。(余談だが、ノルシュテインはワークショップ中、チェーホフ全集を持ち歩いていた。日本に来て以来、読み返しているという。)
 「全体を意識せよ」というのもこの日の講義に通底するテーマである。『アオサギと鶴』において、ノルシュテインはまず図式を提示する。一本の直線が引かれ、その両端にはアオサギと鶴がいる。その直線上に、二人の間の様々なエピソードが絵で書き込まれていく。細部が組み立てられていき、観客の記憶に留められることにより、観客は作品の全体を意識することができる。この話は、「感動的な細部がない」という、参加者たちの作品に向けられた批判の言葉とも響きあう。すべてをわからせてしまうような細部が必要とされるのである。
 さらに、鶴の求婚とアオサギの拒絶のシーンを使って、「アニメーション作品がいかに組み立てられるべきか」が詳細に語られた。恐るべき細かさで組み立てられる「スコア」は、アニメーション作品にはいかなる偶然性も介在しないことを物語る。まずは音楽。このシーンのために、マーチとワルツの二曲が用意された。マーチは男性的なものであり、ワルツは女性的なものだ。それぞれ、鶴とアオサギの音楽として使われる。このワークショップで何度も繰り返されているように、作品を構成するすべての要素は有機的に結びつけられなければならない。どの要素が浮いてしまってもいけないのだ。ここで、「垂直のモンタージュ」という言葉が出てくる。ノルシュテインは、1964-71年にかけて出版されたセルゲイ・エイゼンシュテインの6巻撰集で映画制作を独学した。「垂直のモンタージュ」とはそのエイゼンシュテインの言葉である。これに対する言葉は「水平のモンタージュ」であるが、それは簡単に言ってしまえば編集で、映像を時間に対して水平方向に結びつけていく。「垂直のモンタージュ」は、そのモンタージュの対象を時間に対して垂直方向に結びつけていくものだ。内容、音、映像的な様子、演技、その他諸々の要素が、映画においては重層的に重なりあっているが、それらすべての要素は互いに相互関係を持つべきで、作家はそのすべてを把握していなければならない。ここで取り上げられている『アオサギと鶴』のこのシーンは、「垂直のモンタージュ」を利用したものであり、各要素の結びつきには何一つ偶然なものはない、とノルシュテインは語る。すべてが調和したものとなるように、綿密に計算が重ねられていったのである。ノルシュテインは、実際に図式を書きながら、いかにして作品を組み立てていくかを示していく。音楽、台詞、効果音、描画(色調、色彩が含まれる)、演技…どの一瞬にも、こういったすべての要素が重層的に重なりあっている。
 ノルシュテインは、音楽と台詞のリズムを合わせるために、メエローヴィチによって作られたメロディーに合わせて、ストップウォッチで測りながら自ら台詞を当て込んでいったようだが、最初からストップウォッチによって厳密に計算されるべきではないと語る。感覚がこぼれおちてしまうからである。ノルシュテインは、アニメーション制作が、感覚を数学によって綿密に組み立て、そうして組み立てられたものをまた感覚に戻す作業であると何度も語る。(ここにもエイゼンシュテインの情動に関する理論の影響がみられる。感覚→計算→感覚という図式である。
 「垂直のモンタージュ」の図式が作られると、作品の骨組みはできあがることになる。その骨組みに基づいて実際に撮影される際も、再び感覚が物を言うこととなる。感覚の点検がされる必要があるが、感覚さえしっかりしていれば、厳密な計算に基づく撮影とほぼ同様の結果が得られるようで、実際、ノルシュテインが自分の感覚に基づいて60秒の予定のシーンを撮影したとき、撮影されたものは59.5秒であったという。ノルシュテインの感覚の鋭さには圧倒させられる。
 三日目に示されたプロットの盛り上がりのラインも「垂直のモンタージュ」の図式の中に入れられる。二匹の鳥がダンスをするシーンは、作品の中で唯一、舞台が円形であり、色調は金色で、物語としても、ようやく幸せが訪れるかも、というシーンであり、一番の盛り上がりを見せる。このシーンにつける音楽の作曲は困難を極めたようであるが、結果として、二人の幸せな瞬間が、ささいな原因での再度のコンフリクトで終わりを告げられ、最終的にけんか別れに終わる展開にあわせ、優雅な音楽にロシアの罵詈雑言のリズムを付ける、という解決方法に落ち着いたようである。その後に続くのは、チェーホフ的な灰色の色調であり、結局幸せは最後まで得られないまま終わってしまう。
 作品が組み立てられていく際にはやはりコントラストが必要で、例えば、色調の図式では、灰色の散文的な色調には、空想シーンの青や緑の色調がコントラストを成す。二人の諍いとそれに続く別離の後、地面に散らばる赤い実は、赤を貴重とした花火とコントラストを成す。

 『アオサギと鶴』に関してもう一つ注目すべき発言があった。先ほど挙げられたダンスのシーンは、長回しのようにして撮影されているが、それは、コマ撮りアニメーションの物理的な特性である、分離性を意識させる必要がなかったからであると語られる。1秒24コマで構成されたコマ撮りアニメーションは、1秒の間に23個の分離を含んでいる。長回しを行うことは、コマ間の断絶を乗り越える作業であるのだろう。この話は、『狐と兎』が「様式的カット」をつないでいくという課題に基づいてつくられたことを思い出させるし、『話の話』において、約2分30秒にわたって長回しされる「永遠」のエピソードについても思い出させる。

 話は『霧のなかのハリネズミ』に移る。児童文学者であるセルゲイ・コズロフの原作に基づく作品である『霧のなかのハリネズミ』は、ノルシュテイン曰く、原作の哲学的発展による映像化である。単純な存在であったハリネズミは、霧のなかでの体験によって、霧から出てきた後には以前と同じものではいられない。
 この作品で、ハリネズミの心理は、ハリネズミを取り巻く環境との相互関係によってのみ描かれる。ハリネズミは、霧のなかで数度目を大きくする以外は表情を変化させない。変化させる必要はなかったのだ。
 『霧のなかのハリネズミ』は、心理と行為のグラデュエーションの図式を持っている。純粋であり単純であったハリネズミは、水たまりや井戸に好奇心を持ち、霧のなかで初めて恐怖し、見えないものの存在を感じ、注意深くなり、突然降りかかる恐怖に対してリアクションを取り、神秘的な感覚に満たされ、喪失の恐怖を感じ、パニックを起こし、自分の力ではどうにもならないカタストロフィに身を任せ、最終的に自分は孤独ではない、一人ではないことを実感する。こういったハリネズミの感情の変化は、少ない身振りと変わること表情によって、周辺の環境との相互関係のうちに理解される。ここにも調和の原理が働いている。

 技術的な話に入っていくと、ノルシュテインは再びCGに対する苦言を呈する。切り絵の素材を組み立てていく際、そこには、予期しなかったような何かが入り込んでしまうことがある。こういったものは観客の視線を惹き付けるものであり、内面に留まるものでとなるのだが、ノルシュテイン曰く、CGにはそういった未知の要素が入りこんでくることはなく、謎めいたものなど生まれるはずはなく、観客の眼差しも、どこに惹き付けられたらいいのかを見失って滑り落ちてしまう。
 そこから、自らの「アナログな」撮影装置に話は及ぶ。多層にガラスが重ねられた撮影装置は、撮影監督でありノルシュテインの盟友であったアレクサンドル・ジュコーフスキーとの協力によって、今まで存在しなかったようなものとなる。ガラスの各層は上下に可動になり、上部に備え付けられたキャメラも前後左右に動く。実写映像を投影する場合には、最下部に斜めにガラスが取り付けられ、そこに映像が装置外部から投影される。CGよりも遥かに豊かな効果を得ることが可能になるようだ。参加者からの質問で、『霧のなかのハリネズミ』でハリネズミの周りを回る葉と水は、生々しさに溢れているが本物を使用しているのかと問われたノルシュテインは、葉は写真であり、水は実際に撮影されたものを投影したものであると答える。その方が効果的であり、同時に、現実との接点の役割も果たすという。
 この日の大きなテーマであり、ここまでの講義の大きなテーマとなっているのは、「調和」という言葉であろう。アニメーション作家は、作品を構成するすべての要素、すべての細部を自分の計算の中にいれ、それらを有機的に結びつけていかなければならない。それには厳密な計算が必要であるが、それがきちんと行われた上で、非合理的な何かが生まれうるのだ。そのためには、作品は、それぞれの要素にバラバラになることなく、一つの塊となることが必要なのだ。

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(7)に続きます。

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        2008-02-07        文化庁メディア芸術祭「オタワ国際アニメーションフェスティバル プレゼンテーション+作品上映」

Animationsでインタビューを掲載したクリス・ロビンソンさんがフェスティバル・ディレクターを務めるオタワ国際アニメーション・フェスティバルから、マネージング・ディレクターでありクリスさんの奥さんでもケリー・ニールさんが今日、講演を行いました。

講演自体は簡単なもので、オタワがどのようなフェスティバルなのかを簡潔にわかりやすく紹介してくれました。
続いて去年のフェスティバルから「ベスト・オブ・オタワ」の上映。プログラムはここにあります。
("Teat Beat of Sex"だけは内容的にいろいろと問題があったらしく省かれていましたが……)
"OIAF 07 Signal Film"はジョナス・オデルなどが担当したジングル。(ここでpodcastingしてます)。特に特筆すべきこともないですが、今年のメディア芸術祭のジングルはとにかく長い……"Lapsus"(Juan Pablo Zaramella)は白と黒の違いを効果的に活かしたそこそこよくできた作品。尼さんが犯してしまうちょっとした「過ち」(lapsus)。"John and Karen"(Matthew Walker)は、恋仲にある小さなペンギンと大きなシロクマの会話劇。二人のサイズの違いに反比例する立場の大きさの違いにクスリと笑わされる。細かい仕草で二人の性格をきちんと表現するなどきちんと作り込んであり、楽しく観れます。"L'eau Life"(Jeff Scher)はネット用作品のグランプリ。ラーキンの"Walking"を思い出させもする作品。ただし、デザイン性を優先している。こっちはロトスコープをきっちり使ってます。"t.o.m"(Tom Brown & Daniel Gray)は各フェスティバルで受賞が続いている卒業作品。いじめられっ子のある朝を描く恐るべき作品。最初はクスリと笑ってしまうが、ラストには戦慄してしまう。これはなかなかすごい作品です。「なんで服を脱ぐのだろう?」と思い上映に居合わせた山村さんに質問してみましたが……なるほど、ゾクリとしました。"Doxology"(Michael Langan)は学生作品のグランプリ。いろんな引き出しをもっていて、そこそこセンスのある人だと言うことはわかりますが、作品自体は全体としてよくわかりませんでした。"OOIOO "UMO" "(Shoji Goto)はベスト・ミュージック・ビデオ。OOIOOもそうですが、ボアダムス関連ってもしかしたら北米の方が日本よりも人気あるのでは……ってそれは言い過ぎかもしれませんが、向こうのサブカル少年少女たちは大抵みんな知ってますね。山村さんのところに来ていたデイヴィット君も「日本人アーティストといえばボアダムス」みたいな認識でした。クリップ自体は日本っぽいデザイン性。ただし作品自体はあまりタフでない印象でした。"Framing"(Bert Gottschalk)は抽象・実験のカテゴリーのベスト。良い作品です。フィルムだともっと良いらしいので、広島でフィルムで観れることを願うばかりです。"I Met the Walrus"(Josh Raskin)は来週のcjaxで上映されますね。アカデミー賞短篇アニメーション部門にノミネートされています。台詞が分からずとも充分に楽しめます。年末あたり、ジョン・レノン関連のドキュメンタリーが二つ放映されていましたが、これもある意味ドキュメンタリー。なにかそういう流れでもあるのでしょうか。この作品もフィルムで観たら断然良さそうな気がします。"The Wail of Persephone"(Nick Cross)は、きらめくアイディアを持った作品が多いこのプログラムで唯一といっていいほどのひどさ。実はこのプログラムは昨日も観たのですが、この作品に限っては「空を見ているほうが楽しい」と思い外に出ました。素敵な青空でした。"The Old, Old, Very Old man"(Elizabeth Hobbs)は、"The True Story of Sawney Beane"でもお馴染みの作家。昔話を題材に、木炭や水彩絵具などの素材の次元とキャラクターとして読み取られる次元のギリギリのところを綱渡りしていく作家。このバランス感覚はすごいです。フィルモグラフィーをざっと見通してみると、どんどん絵が曖昧になっていっているのがわかります。あとは技法と物語の必然性が絡めば傑作が生まれるのでは。この作品では、水たまりや群衆の表現にゾクっとさせられます。とてもエキサイティング。"Milk Teeth"(Tibor Banoczki)は……まあいいや。露悪的にしか思えませんでした。好きな人は好きなのでは。カバが大きくなるところだけは良かった。"Golden Age"(Aaron Augenblick)lこれは素晴らしい。パロディもここまでやればほんとにすがすがしいです。マスコットキャラクターたちの裏を探っていくというアイディア自体は別に目新しいものではありませんが、本当にある程度の歴史をもってそのパロディーキャラクターたちが存在していたと思わせてしまうほどの作り込み。膨大な知識が良い形で作品に活かされています。サイトで全部観れますので是非どうぞ。マスコットキャラクターっていっても天皇とか含まれていますよ。

短篇アニメーションって面白い、と思わせてくれる素晴らしいプログラムでした。やっぱりアイディアって大事ですね。今年のオタワはカナダ特集、cjaxプログラムの上映、ソニック・ユースのリー・ラナルドによる生演奏付き上映、エロティック・アニメーション特集など面白そうなプログラムが組まれています。予定とお金があれば是非とも行ってみたいものです。

土居

        2008-02-04        座談会6を更新しました&二月のイベント情報

長らくお待たせしました。Animations座談会6「人形アニメーションについてまず少し……」を更新しました。なんだか少しネガティブな感じだなと思われる方もおられるかもしれませんが、読みなおしてみて、きちんと一貫した態度は取れているな、と思いました。今回取り上げた最近の作品はネット上で予告編が見れるものも多いです。どんな感じのものかをちょっとチェックしながら、座談会をお楽しみください。

『パラダイス』については、もうすぐ作家が来日します。cjaxのセカンド・ステージです。参加申込が始まっています。カナダの最近の作品のみならず、日本の若手作家のショーケースにもなっています。無料ですし是非チェックしてみてください。
東京は2/13(水)にカナダ大使館にて、京都は2/16(土)に京都マンガミュージアムにて。

もうすぐ文化庁メディア芸術祭も始まります。2/6~2/17まで、国立新美術館にて。写真美術館じゃないのですね。果たしてちゃんとした上映設備はあるのでしょうか……アニメーション部門の上映作品の多くはICAFで上映されたものと被っています。(活きのいい若手がたくさんいるのだ、と肯定的に捉えていきましょう。)ブログのICAFレポートをガイドにしていただければ。

イベントでは、
2/7(土)13:30-15:00のケリー・ニール(オタワ国際アニメーションフェスティバルマネージングディレクターでありクリス・ロビンソンの奥さん)のトーク&上映
2/8(日)13:00-14:30のジニー・チュウ(SICAFプログラマー兼マネージャー)
2/14(木)10:30-13:55の学生CGコンテスト動画部門作品上映
2/17(日)13:30-15:00のアニメーション部門受賞者シンポジウム
などがAnimations的には注目でしょうか。

上映に関しては、スケジュールが上記のリンク先サイトからダウンロードできますのでそちらをどうぞご参考に。

そういえば、Animationsホームページに「アニメーションズのイベント」コーナーを新設したことをお知らせしていませんでした。
3/8,9に東京日仏学院にて、「絵画とアニメーション」というテーマで上映会&トークをします。詳細についてはまだ言えませんが、比較的クラシックなアニメーション作品をまとめてお見せできると思います。どれも名作、基本中の基本です。実はあまりない機会です。上映会にあわせて、ホームページの方でも連動企画を行いたいと思っています。
また、3/22(土)には、武豊アニメーションフィルムフェスティバルにてAnimationsの作家たちの作品が特集上映される予定です。これについても、詳細決まり次第「イベント」ページにアップしようと思います。東海圏の方はどうぞお楽しみに。


土居

        2008-02-03        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(5)

○5日目

 10日間に及ぶこのワークショップも、いよいよその半分が過ぎようとしている。
 なんと、この日はノルシュテインが病欠。風邪が悪化し、声が出なくなってしまったらしい。これほどまでに風邪がひどくなったのは20年ぶりとのこと。心配である。
 そこで、この日は、今までの成果を試す意味で、一枚の絵画から絵コンテを描いてみるという課題が課せられることとなる。
 葛飾北斎の『富嶽三十六軽・御厩川岸から両国橋夕陽見』がテーマである。前日に話された、絵画の中の映画性、仕草の詳細な描写、それぞれが個性的なキャラクターである北斎の絵の登場人物が一体どういう人々であるかの想像がここでは必要となってくる。日常的な仕草を描写することで、芸術を表現すること。その第一歩として、この課題は位置づけられる。参加者たちは、朝の11時から夜の6時まで、一心に課題に取り組んだ。

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(6)に続きます。

        2008-02-01        坂元友介アニメーション全集@下北沢トリウッド

『焼魚の唄』は初めて観たとき面白いと思った。しかし今日はそうでもなかった。全作品を観たのは初めてのことだが、アイディアの人なのだな、という印象。『焼魚の唄』の二回目が面白くなかったのは、おそらくアニメーションに必要な体力が不足しているからだ。(現代美術の文脈で評価されている人はだいたいそうだが。一方でドリエッセンは何度観ても面白い。というか、緩む。)ただアイディアだけの作品は二回目以降は少々つらくなる。昔は技術が伴わなさすぎることで観客の想像力は自由に飛んでいく余地があった。必ずしも作家の望むようなかたちでではないにせよ。でも成長するにつれどうやら少し器用さが出てきてしまったらしく、鋳型に流し込むことを覚えてしまったようである。少し遠いところにある、少々エキゾチックな国や街で買ってきた、物珍しい形をしたお土産品のような鋳型に。でも結局のところそれも既製品なわけで、行くところに行けばたくさん売っている。つまりはその気になれば簡単に手の届くところにある、安心できる鋳型なのである。ここからはその人の好きずきなのでただ単純に一個人の意見としてきいてもらえればいいが、アニメーションがゼロからの創造を可能にするもの(本当にそうなのかはよくわからないが)であるならば、その快感や喜びとは、そこで初めて生まれる世界であり鋳型を味わうことなのではないだろうか?一方で、坂元作品からは「これっくらいでいいでしょ?」という声がきこえるのである。「アニメーション・ノート」かなにかのインタビューで、作品制作はコミュニケーション、みたいなことを言っていた気がする。コミュニケーションだと考えているからこうなるのでは、とも思ったりするが、そこらへんは作家さん一人一人の選択なのだから尊重しなければならない。逆に考えれば成功しているのである。だが俺は予定調和は好きではない。

坂元友介アニメーション全集は2/8(金)まで下北沢トリウッドで。

土居

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