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アニメーションズ、創作と評論


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        2008-01-31        ノルシュテインのインタビュー映像

google videoでノルシュテインのテレビ出演映像を見つけました。
ペトロフについての話や、フェスティバルで流れる作品がなぜ他のところで観られないかという問題など、Animationsで取り上げているネタについても語られています。
原語はロシア語ですが、英語字幕がついています。

こんなのまであるんですから、ネットはすばらしいですね~

http://video.google.com/videoplay?docid=3182127465053979566&hl=en

土居
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        2008-01-28        無垢から無常へ アート・アニメーションの転換点 ロカルノ国際映画祭凱旋上映@イメージフォーラム・シネマテーク

『鼻の日』『そういう眼鏡』(和田淳):和田淳は、うねうねする動作のアニメートが最初から異様に気持ちよかった。「歩く」などの普通の動作は次第にうまくなっていっている。『そういう眼鏡』では、そのうねうね感の適用範囲が通常の動作にまで次第に広がりつつある。このままどんどん洗練され(技術的な進歩?)、うねうねがその世界のすべてを覆い尽くしたとき、一体どんなことが起こるのか。想像するだけで身体が温まってくる。ハイファイな和田淳作品が観てみたい。

『影の子供』(辻直之):今日のプログラムでは、自分のアニメートのリズムをもっているのは和田淳と辻直之の二人だけ(もちろんアニメーションはそれがすべてではないけれども)。変な言い方だけれども、「動いている」。メタモルフォーゼとは、同じ素材を使っているはずなのにそれが違うものとして読み取られてしまう新たな生成のことであり、きわめてアニメーション的な瞬間。それは心が読み取るのではなく身体が読み取るものだから、とっても官能的。アニメーションのエロティックは図像的表現によるものだと考えられがちだが、アニメーションの本性を考えれば、実はこっちの方が本質的。辻作品はあまりに気持ちよすぎて物語内容にまでどうしても辿り着けないが、それでも構わないという気がしてしまう。この作品は建物など堅いものまでついにぐにゃぐにゃする。黒い誘惑を呑み込みつつ逃げつづける兄妹は、悪徳を伴いながらうにうにと進んでいく。ああなんていやらしい作品なのだろう……

今日のプログラムは、作家本人の解説文以上のものでない作品がいくつか。観念のアニメーション化はあまり面白くない。やっぱり身体が反応してくれないと……

辻直之 3つの雲[Amazon]

土居

        2008-01-27        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(4)

○4日目
 この日は、東京都美術館で開催されていた「プーシキン美術館展」でフランス絵画を観てくるところから始まった。ノルシュテインとしては、普段、家の近所で何度も何度も観ている絵画を東京で観ていることが非常に不思議に思えたようである。

 ここまでの講義でも、講義の材料として絵画作品が何度も使われたのだが、今日ノルシュテインが課した課題は、絵画の中に映画的なものをみる、ということだった。
プーシキン美術館展のカタログを観ながら、ノルシュテインは様々な絵の映画的な要素を指摘していった。それは、絵画の中に運動をみる、あるいは時間の流れをみるということであろう。例えば、ノルシュテインはダリの『目覚めの一瞬前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢』(1944)を例として挙げる。この絵が描いているのは、ある女性が目覚めるまでの一瞬にみられた、蜜蜂の羽音によってもたらされた夢である。ノルシュテインは、書画カメラを操作し、ズームを繰り返し、絵の一部を切り取りながら、一枚の絵画の中でアニメーションを作っていく。アップになった蜜蜂は、絵を動かすだけでもアニメーションとなる。そして、絵の中に散りばめられた様々なモチーフにズームしながら、女性の夢をアニメーションとして再現していく。こういった作業は、モンタージュの練習にもなるし、一つの作品の構成を作り出す練習にもなるし、絵画作品自体が持つリズムを掴む練習にもなるという。
 課題として出されたもう一枚の絵は、パウル・クレーの『さえずり機械』(1922)である。
 この作品に音を付けるとしたらどのような音を付けるか。画面右下にある把っ手はどれくらいの速度で回されるか、左下のプロペラはどれくらいの速度で回って、どんな音を出すのか。それぞれの頭の重さはどれくらいで、どのようにして回るか。どんな音を出すか。舌は頭より重いか軽いか。重要なのは、コントラストを考えることである。下部にあるプロペラは重量のない軽い音を出すのだから、上部の頭や舌の部分が出す音はそれとコントラストを成さないといけない。ある部分が出す音は、違う部分から出されてはならない。
 コントラストは音に限らない。下にあるプロペラは軽いので、上にある舌は重くなければならない。4つの頭はそれぞれ違う動きをしなければならない。

 コントラストの話から、『ケルジェネツの戦い』(1971)へと移行していく。
 使われる音楽がまず選択される。その音楽は抽象的なものであるが、その音から、使われる色が決まってくる。音楽にあわせて、作品の各部分の色調が決められる。この部分は暗い色、この部分は明るい色……というように。その際にもコントラストは必要で、暗い色は明るい色とコントラストをなさなければならない。(ここでも、色の選択に際して自分の感覚に自信を持つことの必要性が語られていた。不自然な感覚を排さなければならない。)
 ここでノルシュテインは、今まで公にされていなかった撮影技法を教えてくれた。『ケルジェネツの戦い』での、騎兵隊が疾駆していく場面はどのようにして撮影されたか。
 驚くべきことに、このシーンではアニメーターの力は借りていないという。そのヒントから参加者の一人が思いつく。「プラクシノスコープの原理を使っているのではないか。」プラクシノスコープとは、アニメーションの発明者と言われることもあるエミール・レイノーによって発明された、映画に先立つ光学機械であり、ある一つの動きが分解されたものが一回りの輪に描かれる。それを回転させることによって動きが生み出されたように見える。
 ノルシュテインが美術に指示したのは、馬の走りを描いた8コマを、等間隔に並べて描き、それを回していくということだけである。それぞれの馬の絵は、馬同士の間隔よりも少しだけ大きめに回されることにより、前進するように見えるのである。Clare Kitsonによるノルシュテインの伝記"Yuri Norstein and Tale of Tales"(Indiana University press, 2005)には、ソユズムリトフィルムでのアニメーター時代のノルシュテインが、アニメートの技術だけでなく、技術的な発明を様々に行ったことが書かれている。『霧の中のハリネズミ』の制作過程の中でも、ノルシュテインは撮影監督のアレクサンドル・ジュコーフスキーとともにマルチプレーンの撮影装置を進化させて、上部に据え付けられたキャメラが自由に動くという独自の撮影装置を生み出した。技術的な革新者としてのノルシュテインの一面が、このとき見えた気がした。

 シナリオの話に移り、今度は『アオサギと鶴』(1974)が話の中心となる。この作品の一つのテーマは、コンフリクトである。まず、アオサギと鶴は、その見た目のコントラストによってコンフリクトを生む。作品を観ればわかるように、両者の間のコンフリクトは、最後まで解決しない。
 また、最も困難な課題となったのは、雰囲気の創出である。キャラクターが人間でないのにもかかわらず、人間的な物語を作る必要があった。雰囲気の創出ということに関して、この二匹の鳥が一体どこに住むべきなのかという問題が出てくる。生物学的には、二匹の鳥は沼に住んでいるが、それでは人間的な物語は作れない。単なる鳥類の研究映画のようになってしまうのだ。かといって、鶴の高い背丈に合わせてあばら屋を建てると、それはまるで公衆便所のようになってしまう。
 二匹をどこに住まわせるか。その解決を与えてくれたのは、いつもながら、ある写真との出会いであった。『狐と兎』の兎の目が民衆絵画の一枚の絵の中に発見されたことは前日に話されているし、『話の話』の狼の目は、虐待された子猫の写真に見出されたものだ。
 ここでも、ある写真との出会いが解決を与えてくれる。古代建築についての本を眺めていたノルシュテインは、廃墟となった神殿の写真の下に、そこに佇む鳥の写真が配置されているのを発見する。そしてこれが住居の問題の解決となる。そして作品にみられる通り、二匹の鳥は廃墟に住むこととなる。住居が決定されると、登場人物たちの生活の様子も自ずと見えてくることとなる。これも調和の一つであろう。

 おそらく、背景や物語の内容が要求したのであろう。視覚的な要素は、この作品では全体的に軽い感じで表現されることとなる。切り絵のパーツは、トレーシングペーパーにホワイトチタンに着色し、軽い陰影がつけられる。セルに軽く傷をつけることで、それを線とする。こういった技術的な工夫はすべて、全体に軽さの感覚を与えるためのものである。

 この日の講義は、予定よりも早く終了した。ノルシュテインは日本に来て以来風邪をひいており、もう喉が限界となってしまったらしい。

---
(5)に続きます。

Clare Kitson, "Yuri Norstein and Tale of Tales: An Animator's Journey"[Amazon]

        2008-01-26        読売新聞

お知らせが遅くなってしまいましたが、本日(26日)発売の「読売新聞・夕刊」にアニメーションズを紹介する記事が掲載されています。

決して大きな記事ではありませんが、全国紙できちんとアニメーションズが紹介されたのは初めての事なので、とても嬉しいです。

大山

        2008-01-22        かわさきショート2007 アニメーション作家~動きの創造者たちの現在

今回で4回目を迎えたかわさきショート2007。その特別プログラムとして、様々な分野で活躍する日本の短篇作家たちが集うイベントがありました。行ってきました。
かわさきショートは三つの会場で開催されました。
三つの会場で。
ちゃんと確認しなかった自分が悪いんですけどね。
違う会場にいっちゃいました。
しかもそういうときに限って、時間ギリギリに着くようにしてるんですよ。
同じ川崎市といっても、広いですから。移動には時間がかかります。
そんなわけで、遅刻しました。

到着した時には第一部のトークが始まっていました。
黒坂圭太さんのお話の途中からしか報告できないことをお許しください。
物語などの要素もなく感動させる音楽同様の直接性を求めて抽象を志したこと、止まったものではなく、時間の中で絵を描きたいと考えた上で気がつけばアニメーションの世界に入っていたことなどを語っておられました。

続いては木村光宏さん。
布や毛糸といった素材を使って実に親しみやすいアニメーションを制作されていらっしゃる方ですが、NHKの「何の音?コーナー」や「フワフワたべもの」シリーズの抜粋を上映しながら、「フワフワたべもの」は素材感と食感の両方を追求するものであるということ、布と毛糸という縛りをつけているので、汁物の表現に苦労したということ、そもそも自分は「ものが動くこと」自体の面白さにこだわっているということなどを語っておられました。
この方の作品は勉強不足であるがゆえに未見だったのですが、「フワフワたべもの」シリーズは結構ショックでした。毛糸だとわかっているのに、どうしても食欲がそそられてしまうのです。「焼きそば」がすごかったですよ。ほんとに焼きそばでした。むしろ、実際の焼きそばよりも焼きそばらしい。前述の事情で、溝の口駅前でテイクアウトしたバーガー類を食べる暇もなくトーク会場に突入していた僕にとっては実に拷問チックな時間でした。

続いては我らが山村浩二さん。
これまでの作品のダイジェストや『カフカ 田舎医者』の予告編を流しつつ、「作家性」というものへのこだわりの強さ、制約を設けたくないがゆえの少人数制作、音へのこだわりといった話をしておられました。商業アニメーションの分業体制だと、意思疎通をしっかり行うためにキャラクターの設定がきちんとされていないといけないが、自分の作品の場合は、同じキャラクターが緩く変化するのは構わないし、むしろ歓迎されるという話が印象的でした。

最後に米正万也さん。世界中を飛び回り、アクティブに抽象アニメーション制作に励んでおられる方です。
作品のダイジェストを上映しながら、規定の動画用紙を使用しなくなる……など作品がどんどんシンプルになっていっていること、言葉も音として使うのを心がけていること、などを語ってくれました。移動する作家の必然的な展開、ということでしょうか。海外での制作は、言葉などに頼らない普遍的な方向へと作品を変化させていきますし、ライトボックスやら撮影台やらは動き回るためには邪魔なわけですから、次第にやり方はシンプルになっていくわけです。現在進行中の作品は、訪れた世界各地の観光名所で、絵を手にもって、デジカメを使って撮影していくというやり方で制作されているようです。

冷たくなったカツバーガーを無事食べ終わることができた休憩の後、第二部です。アニメーション「作家」とは、という題がつけられておりました。アニメーション監督でもなく、アニメーターでもなく、アニメーション作家。
司会の昼間行雄さんが、各人に質問していくという形で進行していきます。
○アニメーション作家を志したきっかけについて。
米正:『ヤマト』をはじめとしたアニメのファンだった。96年の広島が一つのターニング・ポイントであり、そこから、「商業アニメーションの偽物」ではない作品づくりをするようになった。
山村:小学生・中学生の頃から、「作る」ことへの関心がとても強かった。アニメーションについていえば、高校生のときにNFBの作品を見たことが大きかった。絵画を作るようにアニメーションを作ることができることに気付き、そういった方向へと進むこととなる。1985年の広島でイシュ・パテルの回顧上映を観て、「作家性」というものを強く意識。
木村:やはり『ヤマト』が大きかった。しかし、子どもの頃、「おかあさんといっしょ」の抽象アニメーションのコーナーを飽きずに見ていたという記憶がある。それも今考えれば大きかったかもしれない。
黒坂:アニメーションのことはよく知らなかった。美術を志し、その後、実験映画へ。それゆえに、アニメーションを作っているという意識がそれほどない。コマ撮りを使って制作している、という意識。子どもの頃、「ウルトラQ」や「怪奇大作戦」が好きだった。そういったものと、油絵、そして実験映画が混ざりあっているのではないか。

○技術の習得はいかに
米正:「アニメージュ」で連載されていた、おかだえみこ&鈴木伸一のアニメーション講座をよく読んでいた。また、イギリスのRCAできちんとしたアニメーション教育を受けた。そこでは、音と動きのシンクロの仕方を学んだ。RCAでは、歩いているところなどのデッサンなど、アニメーターのためのカリキュラムがしっかりとできていた。そこで人形アニメーションをやっている人たちの技術の凄さにショックを受け、誰もやっていないものということで抽象をやりはじめた。
木村:阿佐ヶ谷美術専門学校でアニメーションの授業を受けたが、「自分で考えてやれ」という程度の指導だった。その後、「スリー・ディ」で動画の基礎をしっかりと叩き込まれたが、元々図画工作が好きだったので、結局紙やセル以外のものを使うようになった。
黒坂:ぴあフィルムフェスティバルで受賞し、そのときに作品を評価してくれた松本俊夫に弟子入り。それゆえに、アニメーションは習っていない。ボカノウスキーの『天使』が好きで、アニメーションそのものよりも、アニメーションの手法への興味が大きかった。伊藤高司『Spacy』にも衝撃を受けた。

○「アニメーションを教える」とは?
木村:学生がそれほど多くないので、一人ひとりにガチンコで指導する。テレビアニメ志向が強いのだが、動くこと自体の面白さ・おどろきを知ってもらいたいと考えている。
黒坂:教え方を学んでいないのに教えていることへの葛藤がある。2年生までは基礎的な動きを教え、添削する。山にこもって白紙の状態から一晩で作品を作るという合宿を自主的にやっている。(自分自身も同じ条件で作る。)大学自体としてはカリキュラムがきちんとあるわけではなく、みな勝手に教えている。2年まで基礎を教えるというのは、作曲家のバルトークのやり方を参考にしている。バルトークは、作曲は教えず、ピアノの指遣いなどの基礎訓練だけを徹底する。そういったように、共有できる基礎的なものというのはあるのではないか。
米正:最近は「音に合わせたアニメーション」というテーマを課している。縛りをどのようにつけるかが難しい。
山村:4月から芸大で教えることになるが、アニメーションを教えることにジレンマを感じている。作家性とはオリジナリティなので、果たして教えられるのか。学生のものに手をつけていいのか。とりあえずは、「あらゆるかたちでアニメーションが作れる」ことを示しながら、それぞれの学生のやりたいことを理解し、アプローチの仕方を話し合っていければと思っている。「何を作りたいか」という根本を見つけさせることを目指したい。

このあとは、フリートークへとなだれ込んでいきました。
昼間さんは、「こういうことをやりたいんだけど、良いプラグインはありますか」という質問がよくあって仰天してしまうことがあるという話をしていました。それはちょっと違うのではないか、と。
さらに、パソコンの普及で、今は作家一人が負担すべき範囲が広くなっているという指摘もなさりました。
それを受けて、黒坂さんは、すべてを一人でやるがゆえに、作家と外部の人とのコミュニケーションが必然的に消えてしまうということを危惧していました。つまり、他の人に「伝える」努力が行われず、自分だけで完結してしまうということです。その話に関連して、米正さんも、完成版を持ってこられてアドバイスを求められる機会が多いことを語っておられました。
その点で山村さんは常に他の領域の人々との交流を求めていらっしゃいますね、と昼間氏。対して山村さんは、まずは自分の作りたいものを探ることが最も根本にあり、その実現のために必要なものを、他の分野の人に求める、というプロセスがあるという話をなさっていました。

第三部は会場を移して、ワークショップが行われました。
各作家のプレゼンの後、自由に質問のできる時間が設けられました。
あいかわらずまとめるのが下手でこのように長くなりました。

土居

        2008-01-20        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(3)

○3日目
 この日の主なトピックは、ドラマツルギー、作劇法についてのものだった。
 二枚の絵さえあればプロットはできる。そして、アニメーションにおいてそのプロットを表現するには物理的に「時間」が必要である。時間が必要であるならば、動きも必要である。では、二枚の絵は、どのようにつなげられていくか。プロットはどのようにこなされていくか。
 話は、初の単独での監督作品である『狐と兎』についてのものとなるが、この作品はロシア民話を原作としている。ノルシュテインがまず語るのは、文学作品のアニメーション化は、その内容を文字通りに伝達するものと考えるとき最も困難な課題となるということだ。
 ではどのように文学作品は映像化されるのか。例として挙げられるのは絵本である。絵本のイラストは、文字テキストに沿うものでありながら、描く人の解釈を含んだものとなっている。となると、文学作品の映像化に際して問題となるのは、いかにして自分の考えを形作るのか、ということとなる。

 『狐と兎』の上映後、ノルシュテインは、原作とアニメーション作品との違いを述べる。原作では、兎の家を乗っ取った狐は、決して家から出ることはなく、内側から叫び続けるだけである。しかし、それをアニメーション化するためには、狐を家から出さないわけにいかない。狐の姿を見せなければならない。
 物語としては、初めは狼が、続いて熊が、そして牛が、狐を追い出そうと兎に手を貸す。そのすべての試みは狂暴な狐によって頓挫させられる。アニメーションになるためには、その見せ方が問題となる。
作品を観れば分かるように、それぞれの動物の場合において、描かれ方が変わっている。次第に表現は省略されていく。三匹目の牛に至っては、狐との衝突の場面も見せられていない。
 『狐と兎』に対しては、「ロシア民話に自分の意志を入れてけしからん」という批判もあったようだが、ノルシュテインは、実際には何も変えていないと語る。台詞は原作のテキストそのままであるし、映像化されたものも原作を裏切るようなものではないのだ。絵本の例同様、解釈と描き方の問題となってくるのである。ノルシュテインは語る。文学作品の映像化においては、「いかにして行われたか」を常に問い続ける必要があると。「兎は泣いた」。ではいかにして泣いたか。「熊は逃げた」。ではいかにして逃げたか。

 ここで話はシナリオを作る際の原則へと移る。ノルシュテインは一本のラインを描く。このラインは、物語の流れである。その途中には何個も黒丸が付けられる。その黒丸は、ロシア語で「ザビャースカ」と名付けられる、エピソードの発端である。
 ここでノルシュテインは、白い点と黒い点という抽象的なキャラクターを出して、シナリオがいかに作られるべきかを語る。左右に存在している白黒の点は、飛び跳ねて中央で出会う。この出会うところが黒丸である。ここからエピソードが始まる。
 エピソードの内部には、エピソードを本格的に始動させるコンフリクトがなくてはならない。対等の存在であった白の点と黒の点の間にはどのようなコンフリクトが生まれうるか。動きの制限された抽象的なものをキャラクターとして考えることは、このようなコンフリクトを考える上での有益なエクササイズとなる。ノルシュテインが出した一例は、白い点が偶然に高い地面に乗る、というものだった。これだけでもコンフリクトは生まれ、その高さをめぐってケンカが始まる。
 『狐と兎』に即して言えば、氷でできた狐の家が溶け、兎の家を奪おうと考える。それがザビャースカの一つとなり、その後の展開を生む。そして狐は兎の家へと出向き、春が来て浮かれ気分で外に出かける兎と入れ替わりに、家の主となる。これが一つのエピソードとなる。

 『狐と兎』という作品は、ロシアの民衆絵画から多くを得て作られたものであり、それは、画面が常に装飾の枠で囲まれているところからも窺える。紡錘に装飾として描かれた絵は、連続していくことである物語をつくり出している。
 それをアニメーションにおいて行ったのが『狐と兎』という作品だ。つまり、エピソードを絵画のように列挙していく。ザビャースカとなるのは民衆絵画の影響を受けた絵画的な構図を持ったカットである。(ノルシュテインは、その一つ一つを、作品をコマ送りして示していく。)
 それらの様式的カットの間をいかにして埋めるか。中割りの作業にも似たこの要求が、それがこの作品を成立させるための重要な問題となる。となると、すべての仕草は、その先にあるべき仕草を基本にして考えられる必要があり、その間を埋める作業には、「これが何についての映画か」という絶えざる問いが必要となる。

 民衆絵画は決して写実的なものではない。それはシンボル化された表現である。それと同様に、キャラクターの描き方も、ここではシンボル的な描き方となる。
 兎というキャラクターは、一体どのようにして作られていったか。
 兎は、いつも画面のこちら側を向いていて、着替えるときにもこちらの目を気にしてカーテンに隠れてしまう。ノルシュテインは、兎のキャラクターに対して道化師の性質を付与しており、それは服装にも現れているし、耳飾りのように長く垂れた耳にも現れている。
 サーカス、道化師というものは、「条件付き」の世界である。決して写実的なものではありえず、「約束事」の世界なのである。パントマイムも同様で、仕草の中に感情がシンボル化して現れている。(ノルシュテインは、当然のことながら、フェリーニが大好きである。)
 仕草はできるかぎりのことを語らなければならない。この作品に出てくるような単純化されたキャラクターの場合、詳細な感情表現は不可能である。その際、シンボル化された仕草は必須になり、それを利用して兎は身体全体で感情を表現する。例えば、兎が悲しむ仕草をみてみよう。その絶望の度合いは、座って泣く、木の柵にもたれかかって泣く、ニンジンを食べながら泣く、そして仰向けに寝転がって胸の前で手を組む、という順に次第に深刻になっていく。

 話は音楽と色彩について移っていく。単純なキャラクターによって詳細を表現するため、ノルシュテインは、キャラクターの心理や気分を音楽によっても表現する。ここでも必要となったくるのは、細部に対する配慮であり、色と音は関連しあっていなければならないし、音楽だったり、音だったり、台詞の響きだったり、そういったものは、イントネーションに至るまですべて計算され尽くされなければならない。
 作品の色調を決める際に、ノルシュテインは感覚の重要性を唱える。計算しつくすといっても、それは、例えば色のシンボル事典を参照するだとか、そういった計算ではない。
 ノルシュテインにとって、芸術作品というのは、ありとあらゆる要素が関連しあい、有機的に結び付いているものであると考えられるものであるが、その連結の原理とは一体何だろうか。その一つの答えとして考えられるのが、「調和」という言葉である。作品の中には、何一つ不自然なものがあってはならない。キャラクターを作り、動かす際のアドバイスとして、キャラクター自身やその仕草が、作品の中で不自然な感覚を呼び起こさないように、という事を語る。アレクサンドル・ドヴジェンコの『大地』(1930)は、調和に満ちた作品であり、そこでは、作品を構成するすべての要素が、凝縮・濃縮されることで映画史に残る傑作が誕生していると語る。
 『狐と兎』について今日述べられたことは、やはり、芸術が非合理的なものであるという結論へとつながっていく。芸術とは、謎めいたもの、説明しえないものへの到達であるのだが、そこに至るためには、できるかぎりの計算とできるかぎりの組み立てが必要となってくる。そして、その計算は、感覚に基づいて行われる。
 しかし、最後にこのような忠告もされた。自分の生み出した効果に溺れるな、と。一回目は新鮮な効果であっても、二回目になればそれは単なる技法となり、三回繰り返されると俗悪なものとなるのだ。

ーーー
(4)に続きます。

この日のノルシュテインが語る言葉を読んで、少し違和感を感じる方もいるかもしれません。あまりに古典的すぎないか、と。確かに、少々の距離感を保ちながら読んだ方がいい部分もあることも確かです。
ただし、ここで語られているのはあくまで『狐と兎』の制作においてなにが行われていたか、ということです。
(9日目への予告になりますが、)実際、『話の話』において、ドラマツルギーのラインを考えるこのような制作方法は、ノルシュテイン自身によって覆されることとなります。

ドブジェンコ『大地』[Amazon]

        2008-01-17        週末イベントのお知らせ!

遅ればせながら、今年もよろしくお願い致します!
今週末2つイベントがあるのでご紹介します。

*Link into Animated Korea

韓国唯一のインディーズ・アニメーションフェスティバル、Indie-AniFestを紹介する形の上映会。
5プログラムあります。

2008年1月19日(土)、20日(日)
会場:UPLINK FACTORY渋谷
チケット:1プロ1500円、ネット予約で1300円

*かわさきショート2007-PART3

コンペ受賞作品上映とイベントがあります。
2008年1月…
19日(土)/トークショウ:佐藤忠雄(映画評論家)と受賞者
20日(日)/「アニメーション作家~動きの創造者たちの現在」 企画・構成:昼間行雄
パネリストのアニメーション作家(予定)木村光宏、黒坂圭太、山村浩二、米正万也
(詳しいスケジュールはウェブサイトで御確認下さい)

時間:10:00~17:30
会場:川崎市アートセンター
入場無料

荒井

        2008-01-13        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(2)

○2日目

この日も、その大部分が参加者の作品に対するコメントに費やされた。

・宮沢賢治の文学作品をアニメーション化した作品に対し、ノルシュテインは文学作品の映像化に伴う困難さを述べる。文学作品においては、すべては言葉で表現されている。それを視覚的なものに変えることには、いつも困難が伴う。その一つの解決策となるのは、文学作品の中の一つの要素を、自分の想像力に刺激を与える触媒として利用するということだ。(文学作品の映像化については、後にまた語られることになる。)
・アニメーションとは、ゼロからある一つの自律した世界を創造しなければならない。その世界に説得力を持たせるにはどうすればよいか。その一つの答えが、エドゥアルド・ナザーロフの傑作『アリの冒険』(1983)である。ナザーロフはノルシュテインと同い年で、古くからの親友でもある。ナザーロフは、この作品を作るにあたって、虫について書かれたありとあらゆる本を読んだ。その結果として、生物学的に文句がない作品であるばかりでなく、芸術性も保持している作品が完成したのである。(話によれば、この作品は、虫についての教育用作品としても利用されているようだ。)つまり、ゼロから世界を創造するために、作り上げるものに対して、アニメーション作家はすべてを知っていなければならない。そして、先人の残した数々の偉大なる作品は、世界の仕組みを知る上での有益な教材となる。
・アニメーションを作るための手順というものがある。まずはアイデア。それからシナリオ。そして絵コンテ。シナリオは文学的なものであるので、絵コンテをつくることは必須である。絵コンテは、映像がどのようなものとなるかの見通しを立ててくれる。何度も繰り返されて言われることだが、芸術作品というのは、その構成要素のすべてが有機的につながりあっているものであり、そのためには細部の助けというものが必要になってくる。その細部を思いつくための一つの手段として、絵コンテは非常に役立つのである。シナリオが絵コンテに変わるとき、視覚的なものは言葉に対して優位に立つこととなる。
・CGを利用した作品へのコメントとして、ノルシュテインは再びコンピュータについて語ることとなる。コンピュータはあくまで道具として使われるべきであるとノルシュテインは考える。コンピュータは、もちろん、手作業では不可能なことをやってのける。作品を構成するすべての要素が有機的につながりあうことをノルシュテインは重要視するが、コンピュータは確かに手作業では無理な結びつきを生むこともできる。しかし、すべてのことをコンピュータにまかせるわけにはいかない。CGは確かに描写の不可能だったものを、あたかも現実に起こったことであるかのように描写する。しかし、芸術とはリアリズムの追求ではないので、コンピュータというものは反芸術的なものなのだ。
 ここで出されるのは『タイタニック』(1997)の例である。CGによるタイタニック号の沈没シーンは、発表当初は人々を驚かせていた。しかし、時間の経過による慣れは、人々の支持を失わせる。確かにCGは、発明された当初は、不可能を可能にするツールとして歓迎すべきものだったのかもしれないが、果たして現在、その存在意義というのはどこにあるのか。
 さらにノルシュテインはピクサーの記念碑的作品、短篇『ルクソーJr.』(1986)に言及する。電気スタンドの親子がボールで遊ぶ様子を描くこの作品を、ノルシュテインはとても気に入っているという。芸術というものは、制約が付けられたときに素晴らしいものになるということは、ノルシュテインが普段から語っている。CGは一般的に、不可能なものを可能にするツールとして使われているが、『ルクソーJr.』はそういった方向性に進まず、親子の電気スタンドがボールで遊ぶだけ、という限られた状況を描いていることをノルシュテインは評価する。描写自体も、調和のとれたものであるという。
 しかし、すべてを肯定的に捉えているわけではない。人間の子供がCGで描かれていることを、ノルシュテインは否定的に捉えている。その子供は、確かにCGの力によって写実的に描かれているように見えるが、実はまったく写実的ではない。どうして本物の子供を使わなかったのかとノルシュテインは語る。電気スタンドが遊ぶ様子はもちろんCGでしか描けないことであり、そこには必然性がある。しかし、子供をCGで描くことには必然性はないとノルシュテインは考えるのだ。
・この話と並行して、芸術とは「条件付き」「約束事」であるという話が出てくる。ロシア語の原語でいえば「ウスローブナスチ」というこの言葉は、英語で言えばコンヴェンションである。日本語にはぴったりとあてはまる言葉はないが、例えば、映画であれ演劇であれ、ある役者と、その役者が演じる役はまったく同じではない。それが「約束事」の上に成り立っていることを、観客はいつも意識している。ここには、ノルシュテインが、芸術とは「作り上げられるもの」であって、現実をそのままもってくるものではないという考えがあらわれている。ここからも、非現実をあたかも現実であるかのように見せかけるCGは反芸術的であるということが言えるのだ。
・表現したいことと実際に表現されていることの差について、ノルシュテインは何度も語っていた。作家は、作品が上映されるときに毎回居合わせて、意図を説明することはできない。ゆえに、作品においてすべてを語らなければならない。理解してもらいたい、という気持ちがあるだけでは充分ではなく、それを理解させるためにすべてを作品の中で表現しきらなければならない。
・芸術作品が何を語ったところで、世界が変わることなどない。一見、これは芸術に対する否定的な見解にも見える。しかし、そうではない。芸術家がどれだけすごい作品をつくったところで世界は変わらない。しかし、芸術家には、人々にある種の前向きな気持ちを起こさせることができるとノルシュテインは語る。たとえ世界が不条理であろうとも、どれだけひどいものであろうとも、芸術は人々を、勇気づけ、鼓舞することができる。そのためには、やはり、まずは身の回りに溢れるものへの眼差しが必要となってくる。ありふれた日常の中に、感動的な細部を見つけること、そしてそれを表現することが必要となってくる。

 すべての作品へのコメントが終わると、ノルシュテインは再び強調する。自分を取り囲む世界を注意深く観察せよ、と。内面の世界に閉じこもるな、自分の外に出ることを恐れるな、と。作品を作り上げるためには、すべてのものに対して興味深くあらねばならない。扱うテーマは限定されるべきではない。(ただしその表現の仕方は限定されるべきである。)そして、表現するためのその的確なやり方を身につけなければならない。

 この日の最後は、3日目への導入として、『狐と兎』(1973)について少し語られることとなる。『狐と兎』は同名のロシア民話を原作としている。その選択の基準は何だったか、という参加者の質問に対して、ノルシュテインは、単なる偶然であると答える。この話を映像化したいという欲求があったわけではなかったが、ノルシュテインは、その作品に、それまで30年近くも生きてきた自分のすべてをつぎ込んだと語る。
 では、この作品はどのようにしてできあがっていったのか。それが三日目に語られることとなる。

–––
(3)に続きます。

「年をとった鰐&山村浩二セレクト・アニメーション」[Amazon](ナザーロフ『アリの冒険』収録)
『トイ・ストーリー2』[Amazon](『ルクソーJr.』収録)

        2008-01-11        線で捉え、描き、動かす――セルアニメーションにおける身体表現@学習院大学(前編)

来年度から、学習院大学に身体表象文化学専攻が新たに開設されます。目玉となるのは、マンガやアニメーションを大きな軸としていることでしょう。一般大学にこのような専攻ができるとは……

今日と来週、大塚康生さんと高畑勲さんによる、準備講演のようなものが行われます。

今回は大塚康生さんが主な話し手となり、適宜高畑勲さんがコメントをいれていくというかたちで進行しました。

東映動画のはじまりから、『太陽の王子 ホルスの大冒険』までのあいだのエピソードを振り返りながら、アニメーションが身体を表現するとはどういうことかが語られていきます。
面白おかしい語り口はここでは省略させていただき、ざっくりまとめさせていただくと、

「生きているように」みせるための演技の想像力および論理の重要性

が強調されていたと思います。

大塚さんの本を読まれている方にはおなじみのエピソードでしょうが、東映動画の前身的な存在の日動映画での入社試験が、今回の話の肝となります。
「少年が大きな鎚を振り下ろすのを五枚で描け、ただしその鎚は鉄でできていて、やっともちあげることができるくらいのものだ」という課題を与えられた大塚は、そこにあったバット(日動映画は小学校の運動部の倉庫の二階にあったので、バットなどがおいてあったのです)を持って、実際に動作をやってみたといいます。
(このとき僕の頭に浮かんでいたのは、『外套』のアカーキィ・アカーキエヴィッチのアニメートのため、実際に毛布にくるまった様子を撮影していたノルシュテインの姿です。)
そこにさらに、「当然こうなるだろう」ということを想像して付け加え、無事合格することになります。高畑さんは、「観察することによって理屈を生み出すことが重要なのだ」というように、大塚さんの話をまとめていました。

大塚さんは、アニメーターの技能検定の試験もやっているらしいのですが、そこで課される課題は、単純なキャラクターを動かさせることであるといいます。
「丸いボールを動かせ」という課題であれば、そのボールの材質は、重さは……といったように、あらゆる点をきちんと想像しなければならない。「頭の中で生き生きと動いていないものは描けない」のだと言います。
また、「本を読んでいる女性が、立ち上がって、風の吹き込む窓を閉める」という課題では、「立つ」「歩く」といった紋切型の動き以外の部分を自然に描けているか(たとえば、立ち上がって、歩きはじめるまでの流れが自然であるかどうかなど)がポイントとなるといいます。

漫画家とのコラボレーションでの苦労というエピソードもまた、アニメーションにはどのような想像力が必要かを明らかにしてくれます。
漫画で描かれたキャラクターは、そのままではとても「動かない」。漫画家は特定のアングルだけを使いつづけても構わないが、アニメーションで動かすとなると、そのキャラクターをあらゆる角度から描けないといけない。
立体的なモデリングが必要だというわけです。アニメーションと漫画との違いを考える上で、重要な示唆だと思います。

ただし、今日の話は、ディズニー~東映動画直系の流れのものであるにすぎないというフォローもされます。テレビアニメが開始され、省力化を図るために紙芝居の延長線上のような作品がつくられるようになっていきましたが、そこから、「止まった絵を使うこと」による面白さを追求する流れもできてきたというのです。むしろ現在では、こっちの方が多数派です。
両氏は、「止まった絵」の方向性が行き着く先については悲観的です。現状、商業アニメーションは、低予算・大量生産という制約があるゆえに、本来ならば長年かかるはずのアニメーターの訓練が行われていません。それゆえに、「論理的でない」動きをする作品ばかりが溢れてしまっていると両氏は言います。このままだと枯渇していってしまうだけなので、もう一度、基本に返ることが必要なのではないか、と。
会場からは、「日本のアニメーション作品においてなぜ3DCGは違和感のある使われ方しかしないのか」という質問がされましたが、それに対する両氏の答えも、「論理性が欠如しているから」というものでした。高畑さんは、「3DCGをきちんと使えているのはピクサーくらいではないか。ピクサーは3DCGで成功することだけをやっている」というコメントもありました。

来週は後編です。イタリアで『赤毛のアン』を上映したときに考えたことを中心にした高畑勲さんのお話らしいです。

線で捉え、描き、動かす-----セル・アニメーション映画における身体表現 (講演情報)
次回は1/17(木)17:30から。

今日の話の内容からすれば、以下の本が参考になるかもしれません。
大塚康生『作画汗まみれ』[Amazon]
フランク・トーマス&オーリー・ジョンストン『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法』[Amazon]
どちらも面白い本です。

余談ですが、アニメーションの身体表現というテーマはとても面白いと思うのですが、不思議なことに日本では研究している人がいないような気がします。(欧米圏では結構たくさんあります。)ロトスコープやカートゥーン、前述のノルシュテインの話や日本のアニメーションなどを包括して考えてくれるような人はいないものでしょうか。それこそ、学習院大学の展開に期待、なのかもしれません。

土居

        2008-01-10        1月のイベントのお知らせ

いくつかイベントのお知らせです。

○「CJax−日加ショートアニメーション・エクスチェンジ」プレビューショー

CJaxのプレビューショーが、月刊「コマーシャル・フォト」セミナー・イベントとして、東京アップルストア銀座でプレビューショーが開催されます。
カナダと日本のショートアニメーションの上映の他、2008年活躍の期待される、日本の若手アニメーション作家をゲストに迎え、その制作の裏話を「コマーシャル・フォト」の編集者・小川睦さんによる司会でトーク。

出演予定作家:大山慶、加藤隆、坂元友介、Takorasu

2008年1月14日(祝)17:00~19:00
参加無料・事前登録不要です。
会場:アップルストア 銀座

○アニメーションだよ!全員集合

~総勢約50作品の短編アニメーションのごった煮スープ。どうぞ召し上がれ!~
大阪を拠点に、国内外で短編アニメーションの上映イベントを開催している、アニメーション・スープによる上映会。
Animationsからは大山慶と和田淳が作品を出品しています。

2008年1月19日(土)、20日(日)
昼の部13:00~ 前売り・当日1200円
夜の部19:00~ 前売り2300円・当日2500円
会場:HEP HALL(大阪)

○無垢から無常へ アート・アニメーションの転換点

昨年、記念すべき第60回ロカルノ国際映画祭のメディアアート部門であるPlay Forward部門において上映された、program Image Forum を国内で再現。
Animations和田淳の「鼻の日」「そういう眼鏡」が上映されます。

2008年1月25日、26日(19:30~) 27日 (14:00~、16:00~)
当日700円、会員500円
会場:イメージフォーラム・シネマテーク
 
大山

        2008-01-06        ノルシュテイン10日間ワークショップを今さら振り返る(1)

土居です。僕自身がノルシュテイン研究からアニメーションに関わりはじめたことを考えると、Animationsでこれまでノルシュテインのことをほとんど取り上げずにいたことは自分でも不思議に思います。

ヒョードル・ヒトルークは、1981年に、『話の話』について以下のように言っています。
「『話の話』のプレミア上映のあと、何人かの同僚がこのように尋ねていた。”これは本当にアニメーション映画なのか?”と。彼らが結論付けたのは、この作品がいままで知られることのなかった何かしら新しい映画の形式を切り開いたということだった。そう、これは一般的に理解される形のありふれたアニメーションではまったくない。しかし、私の考えでは、この作品は、アニメーションが根本的な力を発揮した、もっとも明確な表現なのである。」

『話の話』はアニメーションなのかどうかという疑問。それは、馬鹿げたものであると同時に、納得されてしまうことでもあるでしょう。1981年でも、今でも。
「アニメーションとは何だろう?」と考えるAnimationsは、『話の話』をめぐるこの疑問について、考えていかねばなりません。

今年中には『外套』の第1部の完成版が観れることを願っています。今年は、ノルシュテインがアクチュアルな存在として再び帰還してくる年となるはずです。

ノルシュテインは、不本意ながらアニメーション制作に携わってしまったがゆえに、自分がアニメーションで表現することの必然性について、普通の作家以上に真剣に考えざるを得ませんでした。たくさんの言葉を費やさざるを得ませんでした。
そんな彼の言葉は、とても面白いです。
そこで2005年に行われた10日間ワークショップを、当時取ったメモをたよりにしていまさら振り返ってみたいと思います。
アニメーションで表現するとはどういうことか、その一つの答えが見えてくるのではないでしょうか。
(先月アップした、山村浩二インタビューとあわせて読まれることをお薦めします。)

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○初日
 10日間にわたって行われる今回のワークショップは、直接指導を受ける12人の作品を観るところから始まった。ノルシュテインは、一人一人の顔を確認し、名前を書き留めていく。
 12人の作品上映が終わった後、まずは総評。ノルシュテインは、ノルシュテイン大賞において、過去五年にわたって日本の若手アニメーション作家たちの作品を見続けてきたが、過去も今回も、作品から受ける印象は変わらないと言う。
 自分のイメージの世界の中に閉じこもっている。
 日本にはアニメーションを教える学校がないのではないか。作家が、自分の作った作品を理解していないのではないか。読書が足りていないのではないか。美術作品を鑑賞していないのではないか。日常に対する、自分の身の回りに溢れるものに対する観察が足りないのではないか。
なぜそう思うかといえば、作品に描かれた細部が感動的なものを呼び起こすことがないからだ。そのような細部のない作品は、観客の記憶から消えてしまう。作り手は、普段の生活の細部から、そして芸術体験から、物語を紡ぎ出すことができなければならない。そうノルシュテインは語った。

 その後、一人一人の作品に対して、作家への質問を交えながらコメントをしていった。(それは結局2日目の後半にまで及ぶこととなる。)
 印象に残った言葉を挙げてみよう。
・作者は自分の作品が何についての作品なのか、最小限の言葉で語れなければならない。語ることで、自分の作品を、誤解から守らねばならない。
・すべての登場人物について、すべてのことを知っていなければならない。例えば、ある人が寝ているのであれば、その人はなぜ寝ているのか。疲れたからなのか、腹一杯に食べたからなのか、答えられなければならない。(各キャラクターの仕草を描写する際にも、それができるかどうかが重要になってくる。10日間ワークショップに先立って行われたジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1934)についてのワークショップで、ノルシュテインは、冒頭の婚礼の行列に参加する人々について、一人につき5秒しか描写されていないのに、その単純な仕草が、その人物がどのような人間であるかをすべてを物語っていることに驚嘆する。それはジャン・ヴィゴが人々を詳細に観察していたからであり、現実生活を鋭い視線でもって見つめていたからである。)
・CGは、アニメートの技術を身につけることなしに動きを生み出せてしまうゆえに危険である。操作方法さえ身につけてしまえば、誰にでも動かすことができてしまう。CGが生み出す動きはプラグマティックなものであり、日常的な仕草がもつ幻想的なもの、詩的なものを生みだしえない。(日常から幻想を生み出すこと、これもまた、『アタラント号』について語られていたことだった。)身の回りにある小さなものを通じて、大きなものを描く。これが芸術の法則である。(こういった発言は、『話の話』の「永遠」というエピソードを思い出させるものだろう。セピア色の世界のなかで、人々は日常的な仕草を積み重ねていく。その日常的な「小さな」光景には、言葉で表現することのできないと、とてつもなく大きな何かが描かれている。)
・つくられたものと作者との間に結びつきが存在しなければならない。作品とは、作者の持つイメージが「具体」化されたものでなくてはならない。このキャラクターは誰かをモデルにしているのか、どこかで見かけたものなのか、何らかの芸術作品からとられたものなのか。自分が想定するイメージを表現するのに適切なものが選ばれねばならない。
(ノルシュテインの作品が、東西や時代を問わず、多様な芸術作品から様々な視覚的モチーフを利用している。ことは周知の通りだ。『外套』においては、アカーキィ・アカーキエヴィッチの表情一つをとってみても、ノルシュテインは、何人ものモデルを想定してその写真をみながら切り絵の素材をつくっていく。芸術体験・日常体験の膨大な記憶のなかから、すべてのキャラクターに対して根拠ある選択が行われていくのである。)
・キャラクターたちは、いや、キャラクターだけではない、アニメーションを構成するすべての要素は、それぞれに結びつきを持っていなければならない。すべての芸術とは、非合理的なものである。しかし、作り手にとっては、すべてのものが計算されつくしていなければならない。作り手がすべてのものを自分の手のうちに収めた上で、そこから溢れ出てゆらめくものこそが、芸術となる。すべてが合理性のもとに作られているがゆえに、そこから非合理的なものが現れてくる。それは、『アタラント号』にも言える。キャラクターの仕草であったり、音楽もチーフであったり、すべては詳細な計算のもとに作り上げられているなかに、美しい瞬間が現れてくる。突如として挿入される、岸辺で祈る親子の姿。灯りをともす家。そして、ラストシーンの空撮が写す川の水のきらめき。
・芸術家は、まずは「ドレミファソラシド」を身につけないといけない。ノルシュテインは、ロシアの画家、カンディンスキーの例を出す。カンディンスキーは、今でこそ抽象画の始祖の一人として有名であるが、初期の活動では、風景画を描いていた。絵画の技法をすべて学んだ上で、自分の表現へと向かっている。アニメーション作家は、まずはプロットを作れるようにならなければならない。単純な動きが説得力を持つようにしなければならない。日常生活の観察、芸術作品の鑑賞を通じて、つまり自分のすべての生活を通じて、考え・アイデアを蓄積しなければならない。

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(2)に続きます。

以下二つは必携です。
「ユーリ・ノルシュテイン作品集」[Amazon]
『フラーニャと私』[Amazon]

        2008-01-03        『ペルセポリス』

もし同じ題材を実写でやったとすれば、先入観や偏見は避けられないだろう。
その点、シンプルなスタイルで描画するこの作品は問題ない。
服も体の輪郭もすね毛も同じく線なので、現実の肉体が意図せぬ接近をみせることがない。
読み取りたい程度に読み取ればよいので、安心して観ることができる。
だが、作品のある程度の普遍性を与えているこの選択は、ひとつのミスを犯さざるをえない。
この作品には肉体がないので、何も匂わない。
つまり、重要なモチーフであるジャスミンが匂わない。

アニメーションなんだから当たり前じゃないか、と思われるかもしれないが、
アニメーションは濃密に匂うことがある。例えば『話の話』。
でもそうか、ノルシュテインは自分のなかのほのかな感情的記憶から作品をつくるが、
長編ではそういう作り方は成立しないのかもしれない。
だから、匂いを説話的に提示することしかできないのかもしれない。

かなりの良作なのだが(特に子供時代のパート)、少しだけもどかしい思いもしてしまう作品。

『ペルセポリス』公式サイト
渋谷シネマライズにて公開中。

土居

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