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        2011-12-30        2011年ベスト(2) スペシャル・メンション

今年のベスト作品3本に続いて、印象に残った作品をピックアップしていきます。

"Birdboy" (Pedro Rivero & Alberto Vázquez)
birdboy
原作は未読ですが短編アニメーションの枠内に収めることに失敗しており悪い意味でのダイジェスト感があるのは否めません。しかし、むしろそのぎこちなさ・強引さこそがこの作品にエナジーを与えている気もします。ネズミ人間たちの世界の傍らに暮らすバードボーイ。彼は鳥の言葉を理解するものの飛ぶことはできず、人間のような姿をしているけれどもネズミたちは彼を仲間とみなさない、徹底的に周縁の存在です。牧歌的な始まりを一挙に否定してかかる事故は制作時期を考えればもちろん関係ないですが日本の大きな事故をイヤでも思い出させます。シュトゥットガルトでこの作品を観たときには震えながらでした。すべてが変わってしまって、それでも日常を続けようとするときに仕方なく選ばれる虚飾の道とそれに耐えられない者。その両者が、鳥でもなくネズミでもない――つまり誰でもない――バードボーイに願いを託していく…都合の良い話です。しかし、バードボーイは単なる薬物中毒者なのか、それとも「どこか別のところ」へと連れていってくれる存在なのか、物語は答えを出さず、するとこの作品は、使命・天命についてのものへと変容していくのです。アウトサイダーが背負う天命。どこまでも孤独な物語なのです。

"Sleepincord" (Marta Pajek)
sleepincord
クレバーかつ見えにくいコンセプトを言葉を使わずビジュアルと音で展開できる才能は、プリート・パルン直伝のものです(ポーランド人ですがフィンランドのタルトゥ美大に通っていました)。複数化する「私」、それは気づかぬうちに伸びている産毛のようなもの。入眠は理性の境界をぼやかし、ロジックになっていないロジックとそれとをつなげます。すると見えてくるのは、私はひとりではないということ。でも多重人格とかそういう話ではなく、私は理性的な私、無意識の私、本能の私、さらにその埒外にある私であり、しかも私を支えてくれる両親や将来きっと現れるであろう伴侶でさえもやはり私を作り上げていることに気づくのです。自由連想の豊かさを象徴する白い糸、赤い滴。私を構成するかぎりにおいての無限の可能性。

"Who Would Have Thought?" (Ewa Borysewicz)
whowould
短編アニメーションでは非常に珍しい郊外ものです。たとえばハーモニー・コリンだったり、ハネケだったり、画面の隅々まであらゆることが終わってしまったような致命的な空気が漂っているアニメーション。"Sleepincord"が無限に広がっていく私であったとすれば、この作品にはそんなものはひとかけらもありません。地方都市におけるある男の消滅をめぐる証言集は、ヘタクソに見えることを恐れない大胆なビジュアルと優れたボイスオーバーによってコミカルなものとなりながら、最終的にひんやりとしたところへと私たちを連れていきます。消えた男は一体誰だったのか。もしかして神様? ここでもまた、「何者でもない存在」が大きな(空白の)中心を占めています。(そもそも、この作品のなかに何かしらの実質を伴った人間はいるのでしょうか?)なんらかの「雰囲気」がこの世界を支配しています。(1/22のイベント「A-AIRxCALF」にて日本語字幕&本人のプレゼンテーション付きで上映されます。)

『Scripta Volant』(折笠良)
scriptavolant
この素晴らしい作品についてはこのエントリを参照してください。個人的には、牧野貴作品が観客の脳に及ぼす創造的効果と同じものをもたらす作品だと感じました。アニメーションに対するこのアプローチ自体に、まだまだ掘り下げられていない無限の可能性が秘められています。

"Fly Mill" (Anu-Laura Tuttelberg)
flymill
あらゆるものが関連しあっているというシンクロニシティを信じる人は、物事をきっとひとつの平面でしか見ていない、もちろんその平面に強さがあればそれは表現となる――世界に対するそういったアプローチがある一方で、斜に構えて、俯瞰して、そういった人々、そして現象自体を眺める人もいます。プリート・パルンはもちろん後者で、パルンの新たな愛弟子のこの作家もまたそちらに属しています。しかしひとつ大きな違いがあるといえば、この作家の世代にとってもはや世界は当たり前のような無限の広がりを持っていて、理解できることは弱々しい「私」の平面のみ。シンクロニシティも持たせられないので、「私」を中心とした熱量で勝負するのみ。もしくは「私」を無限の領域へと逃していくのみ。巨大なゴールドバーク機械のようなセッティングのこの世界は、しかし「ウォレスとグルミット」の起床装置や「トムとジェリー」みたいなスラップスティックのような人間的・有機的全体連環から逃れ、より非人間的で機械的。『エクスターナル・ワールド』でいえば地球の外側につけられたトンボの外側のロジックを流れ込ませています。ハエと猟師たちが関係してみえるのは立体的な世界を平面的に眺めているからにすぎず、だからこそカモたちは遥か遠くの無限の領域へと(平面を眺める人の視線と同じ方向に、その視界から消えるくらいに遠くへ!)逃れていく。「適当さ」が発揮されたときに途方もない力が人形に宿るリホ・ウント的要素(投げやり感)も効いています。それにしても1984年以降(だいたい)生まれの学生作家たちはどことなく共通する世界観を持っているなあ。

"Body Memory" (Ülo Pikkov)
bodymemory
(twitterでのつぶやきをまとめながら…まだ答えが出ないのです)
「『ボディ・メモリー』はアニメーション部分が相当にパワフルだけれども、実写部分が機能していないように思えた。さっきウロ・ピッコフ本人に直接質問してみたけれども、彼が教えてくれたバックストーリーを聞いて、ようやく合点がいった。もう一度観てみたら機能しているように思えるだろうか?」
「ピッコフ『ボディ・メモリー』はソ連時代にシベリアに強制連行されたエストニア人の話。寒さで消耗する体力と故郷への愛着が糸人形の糸がほどけていくことによって表現される。自分の身体がほどけ、消えていくことに対して抵抗を試みるも無駄に終わる、恐ろしいアニメーション。」
「前後に実写パートが挿入されている。リンゴの木の枝に鉛筆がくくりつけられていて、風に揺れる枝がキャンパスに無数の線を残していく。この物語の設定としては、古くからそこにありつづける木が目撃したであろう光景を探るものとなっている。木は同時に、老人たちの筋張った身体のメタファーにもなる。」
「そんな意図が込められた実写パートなのだけれども、個人的には機能しているように思えず、作家本人に話をきいてみてようやく全貌が見えた。わかりにくいんじゃないかと思い切って質問してみたんだけれども、開会式でのオープニング上映で観た祖母は分かってくれたよ、と返された。」
「エストニア人の強制連行に対する距離感の違いが大きいということか。無知を恥じた。」
「以上が『ボディ・メモリー』の実写パート問題。充分な情報を得たうえで観る次の機会では機能しているように感じるだろうかなあ。」
アニメーション表現の強烈さと説得力、それが感じさせる本能的解釈と文字で起こされた解釈の違い。(ほどけていくことと、故郷に帰りたいと願うこと、そして命が消えていくことのあいだの関係など。)"Body Memory"は非常に悩ましい作品で気になって仕方ない。


相原信洋作品についても一言だけ。キャリアが長いのに、最晩年に至るまで最高潮をキープしつづけた奇跡の作家の死去を心から悼みます。相原さんには様々な伝説的エピソードがあり、そのなかには創作も含まれていたようですが、死ぬというエピソードだけが似合わない。自然事情・宇宙事情に精通した作品のスケール感。ハーツフェルトの新作と相原さん追悼上映を続けて観た12月の一週間は、何億光年もの精神的トリップをしたかのようでした。短編の醍醐味はここにある。

土居


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        2011-12-29        2011年ベスト(1) 今年の3本

短編アニメーションについて何かを語るときそれがある時代の熱気を帯びたものにならないことを個人的に少しもどかしく思っていますが、それは僕の書く力/見抜く力の不足である一方、そもそも短編作品自体がコンテンポラリーな気質に左右されにくい性質を持っているのではないかとも思っています(市場から見放された分野であることは関係しているかもしれません)。これから2011年のベストを挙げていくわけですが、これらの作品は、そしてこれらの作品について語る僕自身の言葉は、遠く離れた時代から眺めたとき、2011年らしさを感じさせるのでしょうか? 「2011年」で区切ることに何か意味を持たせることができるでしょうか? (去年のベスト作品のエントリは2009年-2010年で区切りましたが、それは短編作品の世界的なサイクルが映画祭の関係上2年くらいで一回りするからです。) 僕自身が今年のベストに一定の傾向を感じたとして、その傾向は表面的には時代とマッチしたものであるとはいえないかもしれませんが、もしかしたら、こんなふうに傾向を感じとったこと自体が、何か時代と共振しているのかもしれません。今から挙げる3作品に共通するのは、「ここ」と「彼方」をつなげるものであり、そのことが何ともいいようのないくらいに現実を強く感じさせるということです。

『マイブリッジの糸』(山村浩二)
muybridge
『マイブリッジの糸』は繰り返しの鑑賞が適切になるように作られているのが同時代の他の作品と一線を画するところで、僕なんかはインタビューをしてレビューを書くという特権を活かしてDVDをループ再生してそれこそ百回以上は絶対に観ているのですが、観れば観るほどにしっくりと浸透していき、止めることができなくなっていくのです。そして時間が絶対的に静止した世界にぽつりと留まったような感じになります。これは同時代のアニメーションとはまったく異なる鑑賞体験であり、時間感覚なのです。だから短編作品に対するリテラシーの中途半端な高さはこの作品のストレートな受容を阻害するかもしれません。少なくともこの作品は映画祭的鑑賞(つまり多数の作品の羅列のなかのひとつとして観る)ことに最適化されてはいません。しかし一方で、生きる時間に制約を持ち、一瞬前にさえ戻ることがない人間として生きているのであれば、必ず何かしらが存在の深いところに染み込んでくる作品でもあるのです。無限に繰り返されるものの一部としての私たち。そのことの安心感と孤独感。詳しいことはAnimation本ホームページのレビューとして、そしてインタビューとして語りそして語ってもらいましたのでそちらを是非ご覧になっていただいて、この極めて特殊かつ普遍的な作品が自分の手元で繰り返し繰り返し観られる日を今は待ちましょう。(東京以外に在住の方は公開自体がそもそもこれからですけど。)

It's Such A Beautiful Day (ドン・ハーツフェルト)
beautifulday

ドン・ハーツフェルト「きっとすべて大丈夫」三部作の完結編It's Such A Beautiful Dayは、前二作(『きっとすべて大丈夫』『あなたは私の誇り』)とは性質の異なるもののように思えました。あくまでビルに対して客観的でありつづけていたナレーションは、これまで以上にビルに寄り添い、時に感情を荒げます。かつては棒線画と背景の空白が観客に対して創造的補完を要求しその過程でビルの物語が「私たち」の物語としても機能するようになっていたとすれば、実写部分が増えることで背景の空白が消え棒線画のビルは周りの世界からひとり取り残されているように見えてしまうこの作品は、ビルの物語を紛れもないビルそのものの物語として体験することを要求します。つまりビルの物語は、もはや「私たち」の物語ではなくなっているのです。It's Such A Beautiful Dayを形容するとすれば、脳に致命的な病気を抱えたある男のドキュメンタリーであるとするのが最も正しい気がします。この作品は、三部作のなかでも一番「笑える」作品ですが、その笑いはひんやりとした感情を呼び起こさずにはいられません。一回目に観たときは腹を抱えて笑ったシーンも、二回目に観たときには「きついなあ」と笑えなくなりました。三部作のなかで最もビルの主観に寄り添った作品だと思いますが、それはむしろ、ビルと観客たち(そして作者)のあいだに横たわる溝がひどく深いからゆえのことです。ノルシュテインの未完の作品『外套』を思い出します。ほとんどのシーンがアカーキィ・アカーキエヴィッチというちっぽけな人間の一挙手一投足を追うことに専念されているあの作品は、アカーキィのうちに潜む宇宙的なスケールを観客に植え付けるものでありました。It's Such A Beautiful Dayは2011年版の『外套』なのかもしれません。みんなの物語から、ちっぽけな他人の生をがむしゃらなまでに肯定する話への転換が、ここではきっと起こっているのです。willという助動詞がとても重要だということを昔書きました。しかしまさか、このようなかたちでまたこの言葉が重要になってくるとは。みなさんはこの作品を観て、何を思うことになるのでしょう? わたし、でも、わたしたち、でもなく、わたしたちには想像も及ばない「誰か」の物語が、ここでは語られはじめています。そしてそれはおそらく、喪についての物語であるということにもなるのです。もしかすると死に潜む潜在的な可能性についてこの作品は語っているのかもしれません。もちろん、すべては推量にすぎないですが。「メランコリックな宇宙 ドン・ハーツフェルト作品集」は2012年3月31日からシアター・イメージフォーラムでレイトショー公開です。三部作目が日本に紹介されるかは、ここでの客入りにかかっているかもしれません。

『ホリデイ』(ひらのりょう)
holiday
ポップでドメスティックなものという日本の短編アニメーション界に最も欠けていたピースが不意に登場したわけです。コヴァリョフの血をドクドクと引き継ぎながらこんな作品ができてしまうとは…初見の驚きは半端なものではありませんでした。しかしコヴァリョフを強く感じたのは最初だけで、そんな文脈だけではない豊潤さをこの作品は滴らせています。ボップであることは作家本人がとても意識していて、ではポップをどのように定義しているかと訊ねてみれば、愛と熱量だと言っていました。人々が慣れ親しんだフォーマットをなぞることは重要ではないのです。『ホリデイ』はむしろそういう点からすると分かりにくい。しかし、愛と熱量が、この物語を他人事にはしないわけです。もちろん定型はあります。「ボーイ・ミーツ・ガール」に「バンドもの」、そして「青春もの」。しかしメタな視点に立つわけではなく、すべてが作品の熱量に直結しているという語りの素直さもまたあります。『ホリデイ』に関しては評論泣かせなところがあって、作家本人が書くあらすじが、まったくあらすじになっていないかわりに極めて優れた評論文になっているのですーー「ホリデイは、男と女の話しで、いない人、かたちのない存在を信じてみる話で、みえない愛を探り当てる話です。声や水分やそういったものに頼って大切な人にすがろうとする事です。好きな人の、留守電の記録や物にすがってその人の存在を信じる事です。夏の熱さで蒸発した多くの人間の汗が、梅雨の雨になって降ってくる。その水分のなかにきっとあの子の水分も混ざっているから愛おしい。」この作品がなぜ『ホリデイ』なのかといえば、消えてしまった彼女についてのひとつの時代が終わってしまった後の休息の期間を描いているからではないでしょうか。それは追憶の時間でも当然あるわけですが、追憶というのは悲しいものでリアルタイムに展開されていくわけで、生きている今そのものでもある。そうなると私たちは常に「ホリデイ」のなかに暮らしていることになります。私たちは当然私たちの視点からしか世界を眺めることはできず、他人についてはいくらがんばったところで本当のところはわからない。『ホリデイ』は物理的かつ精神的に遠くにいってしまった誰かについて考えることについての作品です。だから、私たちは繋がっている/わかりあえるという虚構のつながりの幻想はここで打ち砕かれます。僕なんかはそんな虚構のつながりの夢から覚めたくて短編アニメーションの世界に入ってきたわけですが、しかし、本当はバラバラなんだということを認識した後に、今度はやはり、本当はバラバラであることを認識したうえで、新たな関係性を築き上げていくことを願いはじめてくるわけです。『ホリデイ』が見せてくれた光景はまさにそれでした。過去は過去として終わってしまった。しかし、その過去は確かに私の一部となっている。血肉となっている。遠いものもまた然り。すべてがあなたでないかわりに、すべてがあなたであるという矛盾がここには成立していて、しかも実際には矛盾ではないのです。それに気づいたとき、わたしたちは休息時間をやめて、おそらく再びまた倒れるまでの新たなスタートを切れるのです。最後に跳ねるあの尻尾は、わたしたちに「さあまた立ち上がれ」と鼓舞しています。わたしたちはひとりであるけれども、まったくもってひとりではない。こんなに勇気の出ることがあるでしょうか。感動せずにいられるでしょうか。このビジョンなら、私たちはばらばらになりながら共有できるかもしれない。愛と熱量のこもったこのビジョンならば。わたしたちをとても深いところで規定するものについて、この作品は語っています。



次のエントリでは、今年観て気になった作品・作家について書きます。


土居

        2011-12-28        いろいろな国のアニメーション2011

今日は12月28日、2011年ももうすぐ終わりです。twitterの方を中心にしてしまったので、ブログの方がお留守になりがちでしたが、まあ今年もいろいろとありました。忘れてはいけない大きなことは忘れずにおきながら、ここではアニメーションのことだけを振り返っていきます。

今年は国内では「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」を全国4箇所で、こちらはCALFですが「和田淳と世界のアニメーション」も4箇所で公開できました。『マイブリッジの糸』と『緑子/MIDORI-KO』がほぼ同時期に公開されつつ、さらに『サヴァイヴィング・ライフ』まで重なり、そういえば『メアリー&マックス』(DVD・ブルーレイでてますよ)や『イリュージョニスト』(パンフレットがひどかった)の日本公開も今年なのでした。その他単発的な上映(「ポーランドアニメーション映画祭」と「DREAMS 追悼・相原信洋」が続けて公開されたシアター・イメージフォーラムはアツかった)も含め、いわゆる「アニメーション」の鑑賞環境としては、今年の東京はかなり充実していたのではないかと思われます。

個人的には今年は例年以上にいろいろな国にお邪魔して、それぞれの国にそれぞれの、アニメーションと社会との関わりがあるということを実感しましたので、今回のエントリではそこらへんのことを。ちなみに今年はニッポンコネクション(ドイツ・フランクフルト)、アニフェスト(チェコ・テプリツェ)、シュトゥットガルト国際アニメーション映画祭(ドイツ・シュトゥットガルト)、アニメーター・フェスティバル(ポーランド・ポズナン)、CINDI映画祭(韓国・ソウル)、アニメ・コンヴェンション・ニューデリー(インド・ニューデリー)、アニメーテッド・ドリームス(エストニア・タリン)、ドン・ハーツフェルトの夕べ(アメリカ・サンフランシスコ)に行きました。(5月から12月上旬のほぼ6ヶ月のあいだに集中的に行ったので、さすがに疲れた。)

CALFの活動としては、今年はアニメーションというよりインディペンデント映画と交わった年だったと思うのですが、ヨーロッパ最大の日本映画専門映画祭ニッポンコネクションはまさにそのようなかたちでCALFを取り上げてくれました。(CALFの活動にいち早く反応してくれたのは、国内の映画・アニメーション専門のメディアではなく、インディペンデントを中心に日本映画を取り上げる海外の人たちだったということは個人的に興味深いです。)

アニフェストはニッポンコネクションとシュトゥットガルトの合間に訪問したので最後の2日間のみしか参加できませんでした。だからあまり全体像は把握できなかったのですが、なんとなく、元気がないようにみえました。長々としておどけた閉会式はクロク国際アニメーション映画祭を思わせて、旧共産圏のアニメーション・コミュニティ特有の心地よいがゆえに危険な自閉性がまだ生きていることを実感しました。相原信洋さんの訃報を知ったのもチェコでのことでした。パヴラートヴァに伝え、彼女は当然のことながらショックを受けていました。

シュトゥットガルトは歴史もあり規模もかなり大きいのに日本だと4大映画祭に隠れてなかなか注目を浴びませんが、個人的にはかなり刺激的な映画祭でした。ドイツ全体のアニメーション・シーンを理解できるほどの知見はないのですが、シュトゥットガルトから判断するに、ドイツではインディペンデントと商業シーンのギャップがあまりないように感じました。(それはこの映画祭を裏で牛耳るフィルムアカデミーの立ち位置から判断できるかもしれません。この学校は明確に、アニメーション産業用の人材育成を志向しているからです。)個人的にはASIFA的なアニメーション観(アニメーション=芸術かつアニメーションの正統主義)に少し閉塞感を感じはじめていたところだったので、ちょっとでもアニメーション技術が用いられていたり「アニメーションっぽさ」があればば問題なくコンペに入るこのフェスは新鮮でした。結果的に、ストーリーテリング/エンターテインメントとしての短編アニメーションという他の大きなフェスからは見えにくい短編の姿を見出すことができました。アヌシーが近いのかもしれませんがアヌシーはアニメーションに対してかなり保守的(米アカデミー賞と同じ)である一方、シュトゥットガルトは革新性も評価するというか、「なんでもあり」感が強くてそのフラットな見方が面白かったです。

個人的には2011年はポーランド・アニメーションを再発見した年でもありました。そしてその再発見はある程度準備されていたものでもあったのです。アニメーターフェスに参加して思ったのは(みなさん知らないと思いますけど、賞金がすごく高いから出した方がいいですよ)、ポーランドのアニメーションが他の共産圏とは異なるバックグラウンドを持っていること、そして、ポーランドは国産映画(アニメーションも含む)に対する支援と伝統の保持への志向が強いということでした。他の共産圏が巨大な国営スタジオの影響下のうちに「共産主義圏のアニメーション」という伝統を強く持っていた一方で、ポーランドではアニメーションに従事する人がもう少し異なる文化的背景を背負っていた印象があります。作品もそれを反映していて、一筋縄ではいかないものが多いです。(イメフォでの特集を観た人はよくわかるでしょう。)アニメーターフェスはフェスティバルディレクターがアメリカの実験映画シーンと関わりの強い人で、そこらへんの文脈も知れたのがとても良かったです。アメリカの状況も、ASIFA的な短編アニメーション観が支配的な日本ではなかなか見えてきませんが、おそらく構造としては日本とあまり変わらず、巨大なアニメーション産業の影に隠れて映画と混ざりあったインディペンデント・シーンと実験映画シーンの一部としてのアニメーションというものがあるのではないでしょうか。(インディペンデント映画・実験映画との交わりは、イギリスを除くヨーロッパ圏では希薄である印象があります。)アニメーターフェスでもメディアアートや音楽など、アニメーションを周辺領域とクロスオーバーさせる試みが意識的に(そしてある意味自然に)おこなわれており、アニメーションを広げようとする(というか元から境界をそれほど意識していない)意識を強く感じました。ポーランドが自国の映画芸術の伝統をきちんと伝えていこうとしているのは具体的に見えてきており、アンソロジーのDVDが出たり、歴史的な作家のDVDのリリースをはじめたり、若手の作品もきちんと紹介したり、当地のフィルム・インスティテュートの存在感が強かったです。これは日本にはまったくない構造なので、率直に言ってうらやましく思いました。

韓国のCINDIはデジタル専門の映画祭で、アニメーションが占めるプレゼンスは高くないのですが、短編作品のレビューを書かせてもらったこともあり参加しました。韓国のインディペンデント・アニメーションシーンについてはいまだに僕はあまりよくわかっていないのですが(すでに日韓に強いつながりがあるので、そういう場合は僕に話が回ってくることはないのです)、この映画祭自体は、韓国有数のシネコンを経営している企業が運営しており公的なお金がまったく入っていないうえに、賞を穫った作品には賞金もそうですが韓国国内の配給をサポートするなどこれもまた日本ではあまり見当たらないので面白いなあと思ったわけです。

インドのアニメコンヴェンションは名前が示すとおり日本の商業作品を紹介するイベントだったのですが、なぜかCALFがお呼ばれしました。その「なぜ」は現地に行ってすぐ解明したわけですけど、主催者は別にアニメだけを紹介したいわけではなく、比較的お金と人が動きやすいフレームを使いながら自分たちのやりたいことをやってしまうという「攻め」のイベント運営をやっていたのです。このイベントの主催のニテシが本当に意図しているのは、インドにおいてインディペンデント映画のプレゼンスを強め(インドでは映画=ボリウッドしか存在せず、インディペンデントはほぼないに等しいらしいのです)、また、デザインに対する意識を高くしたいということなのでした。だからCALFが呼ばれ、デザイン的に優れた日本作品が取り上げられるわけです。インド自体も衝撃的でした。国全体が「これからだ」という気運でした。昔の日本ももしかしたらこんな感じだったのかもしれません。イベント主催者たちはインドには未来の可能性があるから好きだと言っていました。自国を迷いなく好きだといえる若者に出会ったのも個人的にはここが最初だったので驚きました。アニメーションの学校がそこらじゅうにあるニューデリーの街を車で走りながら、しかし僕の頭のなかでは、韓国や中国でアニメーションを国策となったおかげでインディペンデント・シーンが意図せぬままに誕生したことが思い出されました。(産業の副産物としてのインディペンデント…実はどの国でも同じなんじゃないかと思ってます。アニメーションのインディペンデントは商業の副産物なのではないかと。)中国のインディペンデントシーンの充実をみて、次はインドなんじゃないかと少し思いました。(そういえばCALFのプレゼンには「私もCALFからDVDを出してほしい」という現地の美大の学生がいました。)

エストニアは旧共産圏において資本主義体制下で最もうまく伝統を保持できた国です。それは製作費の最大70%を国が負担してくれるというシステムがあるのに加え、ヨーニスフィルムにはロッテという国民的なキャラクターを擁する劇場版シリーズがあるからです。ロッテで稼いだ金をインディペンデント(映画祭向けと言っていましたが)作品に回すというサイクルがあるわけです。そしてインディペンデント作品については、採算を考えない。さらにエストニア美術大学でパルンとピッコフは後進を育てる…きちんとしたサイクルができあがっているわけです。もちろん問題はあります。ヨーニスフィルム以外のスタジオは立体部門のヌクフィルムも含め、資金繰りに苦労しているということ(市場がそもそも大きくないというのもあります)など。ヌクフィルムの監督やアニメーターたちの待遇はちょっとびっくりなレベルでした。一年中仕事があるわけではなく、「解散」している時期もあるそうです。アニメーテッド・ドリームスという映画祭に対する評価は結構難しく、審査員をやらせてもらったのでありがたく思ってはいますが、コンペみると学生やパノラマ作品が見れなかったり、みんなが帰った後にようやくエストニアのヤング作品をやるなどといった狂ったスケジュールの組み方はなんとかならんかなと。併設のアニマキャンパスは学生向けの講演&ワークショップイベントでしたが、こちらは個人的には結構面白かったです。旧ソ連圏の現状が知れたので(ソ連時代はモスクワの映画大学で勉強→自分の国の国営スタジオで製作というサイクルがあったのが、独立後はその伝統がぶったぎられ、アニメーション文化がかなり貧しいものになってしまうという共通点が中央アジアの旧共産圏には共通してあります)。

日本では学生CGコンテストの評価委員(一次選考をする人)をやらせてもらい、日本の学生作品の地殻変動を目の当たりにしました。わたくし語りでありながらわたくしを超越したりわたくしが消えてしまうほどのスケールを獲得していたり…日本のインディペンデント作品が最も苦手としていたドメスティックかつポップという作品のあり方を体現してしまったひらのりょう『ホリデイ』を始め、日本インディペンデントが新たなフェーズに進んだことを実感した一年でもありました。

つまり日本においてもドン・ハーツフェルトのような作家が登場しうるのではないかと予感したのです。新作が待ちきれず彼のツアー「ドン・ハーツフェルトの夕べ」@サンフランシスコに参加して、200弱のキャパですが一日二回の上映は満席になり入れない人もいる状況を目の当たりにして、身の丈にあった小さなマーケットを作り上げることは、インディペンデント・アニメーションにおいても可能なのではないかと改めて思ったわけです。ハーツフェルトの新作(つまりビル三部作の最終章)は、これまで以上に「アニメーションらしさ」から離れ、そして、「わたくし語り」からの完璧な離脱が成し遂げられていたという意味で、新しいアニメーションの姿を目撃した気がしました。

次のエントリでは、今年のベスト作品を書きます。ハーツフェルトの新作についても、少しだけ語ります。

土居

        2011-09-19        『マイブリッジの糸』Bプログラム

山村浩二最新作『マイブリッジの糸』がついに劇場公開となりました。BプログラムはNFB傑作選&山村浩二作品集。トリに『マイブリッジの糸』が控えるという布陣になっています。傑作選側はマクラレン『カノン』ドゥルーアン『心象風景』パテル『ビーズゲーム』シュヴィッツゲーベル『技』に加え、ウェンディー・ティルビー&アマンダ・フォービスの『ある一日のはじまり』以来12年ぶりの新作となる『ワイルドライフ』。それに続いて『Fig(無花果)』『こどもの形而上学』『マイブリッジの糸』となるわけです。NFB傑作選側は、どの作品も『マイブリッジ』とそれとなくつながりが感じられる作品です。一枚の紙の上にダイレクトに描くという意味で『Fig』も、そして物語ではなく一枚絵的強度で構成されるという意味で『こどもの形而上学』も、やはり『マイブリッジの糸』とつながっている感触があります。NFB傑作選は、おそらくAnimationsに訪れる方ならどこかしらで観たことある作品ばかりだと思います。DVDで持ってるかも。でも、でかいスクリーンでどかーんと観ることを勧めます。特に『ビーズゲーム』は本当にヤバいです。呆れた笑いが止まらなくなります。『カノン』は再見して、冒頭シーンのオマージュ以上に、作品の成り立ち自体が『マイブリッジ』と共通するように思いました。(そのことについてはまた別の機会に。)『技』までを含めたNFB傑作選を観て、強烈にシンプルかつ複層的なあり方はやはり短編ならではだなと唸らされるばかりだったわけですが、一方で、こういうタイプの作品は最近ではないなと寂しい思いに囚われたりもして。短編アニメーション作っている人は打ちのめされにいくのもいいんじゃないでしょうか。改めて言うまでもなく、本当に凄い作品ばかりですから。ただ、一番凄いのは山村浩二です。だって、アニメーション史上に残るクラシック作品を、自身の新作の前座に置いてしまうんですから。そんなことしたら、喰われますよ、普通。でも、喰われてないんですよ。逆にNFB勢から唯一の「新作」であった『ワイルドライフ』は正直、この並びで観ると弱く感じました。制作年代はもちろん2011年ですから新しい。でも、クラシック作品よりもある意味で古く思えてしまいました。同時代の息吹も、普遍的な瞬間も、どちらもない…2011年の日本に生きるわれわれは、この作品にどうコネクトすればいいんでしょう…? そして、大トリの『マイブリッジ』なわけですが、それについてはAnimationsホームページにインタビューと評論をもうすぐ掲載します。そちらでたっぷりと味わっていただければ。ネタばれ満載ですから、読む前に観にいってください。写真美術館ホールでやってますから。

『マイブリッジの糸』公式ホームページ

土居

        2011-08-04        ASK?映像祭2011

ASK?映像祭2011の受賞作品集をみてきたので、印象に残ったアニメーション作品について、簡単ですが書いておきます。
(twitterの書き込みをまとめたものです。)

――

大賞の『今村商店』(告畑綾)は、取り上げる対象は興味深かったけれども、途中で挿入される商店主の肉声が想起させる繊細さに映像が負けてしまっていた感じ。作品のポイントになるナレーションも、文字で起こせば感動的ではあるのだけれども少し浮いていた印象。
岡本将徳作品は久里洋二賞の『Ho-Ho』よりも入選の『BONNIE』が断然良かった。実景のなかで切り絵を立ててアニメートしているのだけれども、常に風に翻弄され姿を変えたり踏ん張ったりする少女の立ち姿の優美さとちょっとしたエロティシズムが素晴らしかった。良い意味で非常に上品な作品。
西村智弘賞『Scripta volant』(折笠良)についてはもうブログ書いているのでさらに語ることはしないけど、今回、字幕無し版の上映で、こっちのが断然良かった。表現の余白が持つ豊かさを贅沢に味わうことができた。改めて、ストイックなまでのスタイルの一貫性に痺れる。
ASK?賞『SANKAKU』(若井麻奈美)は去年の学生CGコンテストの大賞で、観るのは二回目だったけれども、すごくうまくて唸らされる。根本における優しさがうまく「抜けた」ポップさにつながっている。子供のナレーションを間違えたままで使っているのも、全然あざとく感じない。だが『SANKAKU』で一番好きな部分は、すごく柔軟にいろんなものを吸収したうえでの表現であることがダイレクトに伝わってくること。良い意味で若さ溢れる作品だと思います。まだ学生さんのようなので、次が楽しみ。
『やさしいマーチ』(植草航)は、自分なりの、いま生きている世界に対する対峙の仕方、始末の付け方を、すごく真剣に、嘘なく描いている。これはPVにあらず。ウォークマンやiPodがデフォルトの時代の自然な表現。この作品についてはどうしても「わかるよ!」と言ってしまう。
『ぐりうむ』(金學鉉)は工芸大の卒展で観て一番印象に残っていた作品。ぐりうむ(恋しい)という心、それだけをガシガシとスケッチするような、ひとつの感情に徹底的にフォーカスを当てるアプローチが素晴らしい。粗いけれども、生々しくて繊細。
『みちゆき 温泉編』(谷口亮)は文字の出し方が全然好みじゃないんだけど、本編はぐったりべったりとした重さや質感、湿度があって良かった。日本版マクシーモフって感じでした。

ーーー

ASK?映像祭2011は8/6まで京橋のASK?にて。受賞作品集は6日(土)17:00からあります。
地下のASK?Pでは水江未来個展も開催中ですし、映像祭自体も「地球クラブ」の特集があったり、
充実のプログラムです。
東京近郊のみなさんはぜひ。

土居

        2011-07-11        革新的な日本の若手2作品:折笠良『Scripta volant』と平野遼『ホリデイ』

2011年も半分が過ぎてしまいました。ブログで全然作品について書けていない……罪滅ぼしの気持ちも込めて、日本の若手2作品について少しだけ書いておきます。両極端なベクトルを持ち、それぞれに素晴らしい作品です。ふたりの「りょう」作品。

まず一つ目は折笠良『Scrpita volant』。藝大二期生の作品です。この作品は、「アニメーションとは何か?」という問いに真っ向から挑んでくるような作品です。そして、「アニメーションとはこういうものである」というひとつの答えを突きつけてもきます。オスカー・ワイルド『幸福な王子』の英語テクストが紙の上に刻まれていくだけのこの作品は、簡単に言ってしまえば、私たちはアニメーションを見るとき、描かれているものそのものだけを見ているわけではない、というアニメーションについての明快な一考察であるともいえます。
朗読とともに刻まれる英語テクストは、swallowが鳥となって飛び立つなど、ときに文字自体が想起させる「イメージ」へと変化していきます。文字とアニメーション。その両者の共通点についていつも語っているのはノルシュテインです。文字は単なる記号であるのに、言語の約束事を共有するものにとっては単なる文字列・記号ではない、それ以上の意味を帯びる。アニメーションもそれと本来同じように、約束事に基づいて、描かれているもの以上の何ものかを観客に伝えるはずなのです。『Scripta volant』はそのアニメーションの用い方によって、そのこと自身を映像化しているかのようです。
アニメーションとは基本的に、「内的なるもの」をリテラルに映像化するメディアとして発展しているので、そういった特質についてはあまり顧みられることはありません。つまり、観客が受け止めるべきものを、作り手はあらかじめ図像化してしまうやり方です。アニメーションがそういった道筋で発達してきたのは間違いありません。
『Scripta volant』は、その道を選びません。折笠良という作家はかつてから文字テキストや文学をモチーフに作品を作ってきましたが、純粋に文字だけを相手にしたこの作品において、彼は、「書いたもの」が「飛び去る」こと(Scripta Volant)、つまり、文字(アニメーション)が喚起するイメージの飛翔を、取り上げているのです。ただ文字として刻まれる部分とその文字が「飛翔」すること、その両方が非常に抑制の効いたバランスで展開されていくこの作品は、ハーツフェルトの棒線画における実践にも似た、アニメーションの新たな可能性の追求のはじまりといえることでしょう。
この作品におけるアニメーションは、描かれているものを通じてではなく、描かれているものを媒体・霊媒として、作り手(アニメーターであり原作者であり)と観客との脳をダイレクトに接続するようなものともなっており、観客に対して未知なるやり方で突き刺さってきます。
強力な作品です。

日本のインディペンデント界に希望を感じさせるもうひとつの作品は、ひらのりょう『ホリデイ』。僕にとっては予期せぬ嬉しい発見となりました。折笠良が普遍的で実験的な考察に向かおうとするなら、平野遼はアニメーションのローカル性とポップさを追求しています。
とにかく、作品全体に漂う日本の湿度に驚かされます。アニメーション、特に作家性の強い短編アニメーションは、どちらかというと冷たく凍った(逆に穏やかで温かな)、普遍的な時空間を立ち上げるものですが、『ホリデイ』が描くのは鄙びた行楽地の、ローカルな湿度なのです。しかも、この湿度、水っぽさがとても効果的に効いてくる。
裸の男、浴衣の女、そしてイモリの子ども。タイプの違う三者は、その見た目がすでに予告しているように、別離を運命的に控えています。その別離はオライリー『プリーズ・セイ・サムシング』とパルン『雨のダイバー』の別離を足して二で割ったような感じ、つまり、必然だが感情的未練は残るという湿っぽさを持っています。
音の響かせ方、そしてキャラクターたちの少し謎めいた動き、それらはコヴァリョフを思わせますが、作家のインタビューを読むに、実際にコヴァリョフの影響を受けているようです。物語の発想も、コヴァリョフ同様に、記憶のイメージや私生活の出来事がベースになっているとのこと。しかし、驚きなのは、日本はコヴァリョフ・チルドレンの多い国だと言えますが、平野遼におけるコヴァリョフの翻案は、非常にポップだということです。
『ホリデイ』におけるポップさをどのように特徴づけたらいいのか、僕はよくわかりません。別に物語が分かりやすいわけでもないし(むしろよくわからない)。でも、作品全体が持つ感覚として、ポップなのです。はっきりいってすごく悲しい物語です。作家本人による解説文が奮っています。「ホリデイは、男と女の話しで、いない人、かたちのない存在を信じてみる話で、みえない愛を探り当てる話です。声や水分やそういったものに頼って大切な人にすがろうとする事です。好きな人の、留守電の記録や物にすがってその人の存在を信じる事です。夏の熱さで蒸発した多くの人間の汗が、梅雨の雨になって降ってくる。その水分のなかにきっとあの子の水分も混ざっているから愛おしい。」この作品のポップさは、もしかしたら、この作品が全体として「愛おしい」というところに秘められているのかもしれません。別れた人は、別れてしまったけれども、実は偏在している。残滓でしかないけれども、思い出でしかないけれども、雰囲気でしかないけれども、ある。いる。そんな世界は、悲しいけれども、愛おしくもある。その両義性が、なんともいえずにポップなのです。うーん、うまく伝わっているだろうか。別れているけど、でも「信じている」。この根拠なしのポジティブさが素晴らしいのだと思います。だってそういった態度こそが、僕たちがこの世界を生きるために必死に辿り着く方法論でもあるわけですから。最後、おーいおーいと声を出すイモリの子ども。その声に、届け! 届け!と思わず手に汗握ってしまう体験。それ自体がポップだと思います。届くことに、それが別に何かにつながるわけでもないけれども、カタルシスがある。それは、ないかもしれないけど、あるかもしれないという、可能性を信じるということなのだと思います。とても生きる力が沸いてくる作品です。この作品を観て、勇気づけられる人、現実に立ち向かうことができるようになる人は、多いと思います。いま、この日本において、多くの人がわたしたちの物語だと感じることができるのではないでしょうか。良い意味のポップなのです。

ひらのりょうさんは現在DVDを作るためにreadyforを使って資金集めをしています。目標金額は達成されていますが、7月いっぱいはまだまだ受付中です。2000円でDVDがもらえると考えると、安いものです。
ひらのりょうの作品集ほしいひとー! お金ちょーだい!!

余談ですが、readyforをはじめとしたソーシャルファンディングは、これからインディペンデント界にとって非常に重要なツールとなっていくと思います。

ちなみにどちらの作品も、「CALF夏の短編祭」(9/3~9@ユーロスペース)にて上映されます。
アニメーションの新しい姿を是非とも目撃してください。

土居

        2011-06-29        日曜日に藝大修了制作展@ユーロにてトークします

7月2日から6日まで、渋谷のユーロスペースにて「GEIDAI ANIMATION 02 SOURCE in EUROSPACE」が開催されます。
2日目の3日の上映終了後、ゲストとしてトークさせてもらうことになりました。
どんなふうにアプローチすべきか迷いますが、なんとか面白いものにできるようがんばります。
ぜひ遊びにいらしてください。

土居

        2011-06-17        「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」いよいよ最終上映@神戸、CALF in 姫路もあるよ

「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」、京都、東京、名古屋と回り、最後の上映地神戸に土曜日上陸です。アンコールのアンコールはありませんから、これが本当に最後です。渾身のプログラム、是非とも体験を!!



6/18(土)~6/24(金) 神戸アートビレッジセンター
A・Bともに連日公開(時間については毎日変わりますのでHPにてご確認を。)

6月18日18:15から「CALFトークショー」と題して、和田淳、水江未来、土居伸彰の三人でトークをします。
「アニメーションズ・フェス」もしくは「和田淳と世界のアニメーション」のチケットをお持ちの方が参加できます。
「アニメーションズ・フェス」と「和田淳と世界のアニメーション」の合同キャンペーンが京都に続いて実施されます。
各2プログラム、計4プログラムをご覧になった方から抽選で和田淳作品の原画をプレゼント。
プログラムを一個みるたびに押されるハンコも今回の特注です。

6月19日は「CALF in 姫路」が姫路文学館にて開催。
CALF作品の上映、PiKA PiKAワークショップ、トークショーと盛りだくさんの一日になります。
詳細はこちら

関西圏の方、お待ちしております。

土居

        2011-05-26        「アニメ!アニメ!」にシュトゥットガルト国際アニメーション映画祭レポートを寄稿しました

アニメーションに関する総合的な情報サイト「アニメ! アニメ!」に今年のシュトゥットガルト国際アニメーション映画祭のレポートを寄稿しました。記事のリンクはこちらです。

上記のレポートではシュトゥットガルトの立ち位置や短編と商業の関係性などに焦点を絞って記事を書きました。
Animationsのホームページ(かブログかわかりませんが)でも今後作品評に重点を置いたものを書きたいと思っています(がどうなることやら……)

とりあえず、「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」、見にきてください。
吉祥寺バウスシアター名古屋シネマテークも明日金曜までですので。

あと、すっかり告知を忘れていましたが、季刊誌「真夜中」の映画特集号に寄稿しました。和田淳、大山慶、アダム・エリオット、ドン・ハーツフェルト、デイヴィッド・オライリーを取り上げて、アニメーションのメイキングについて書きました。面白い号ですので(「真夜中」はいつも面白いですが)、是非とも書店にてお買い上げください。

土居

        2011-05-15        5/16(月) DOMMUNE「短編の極北 詳説アニメーションズ・フェスティバル」

吉祥寺バウスシアターでの「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」、始まりました。
その関連企画として、DOMMUNEにて特集を組んでもらえることになりました。

5/16(月) 19:00-21:00 「短編の極北 詳説アニメーションズ・フェスティバル」
出演:山村浩二、吉田アミ、和田淳、司会:土居伸彰

去年のアニメーションズ・フェスティバルの上映の際に
アツいメッセージを寄せていただいた吉田アミさんをお迎えして、
アニメーションズ・フェスティバルについてディープにトークを展開していこうと思っております。

会場での観覧もできるはずですし、もちろんUstがみれれば世界のどこからでもみられます。

http://www.dommune.com/

鑑賞がより一層楽しくなるよう、面白いトークにする予定です。
是非とも予定をあけておいてください!

土居

        2011-05-14        「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」東京上映

「アニメーションズ・フェスティバル アンコール」、京都みなみ会館での上映が終わりました。

今日14日からは吉祥寺バウスシアターにて昨年9月以来の上映があります。
残念ながらAプログラムで作品が一個欠けてしまいましたが、
そのかわり東京限定のCプログラムとしてフィル・ムロイの初長編『ザ・クリスティーズ』が上映されます。

14日19:00からの『ザ・クリスティーズ』の初回上映では、
山村浩二監督を上映後のゲストにお迎えして、
この作品の魅力やフィル・ムロイという作家自体について語っていただくことになっています。
この回は、受付先着30名様にポスターをプレゼントします。
せっかくなんで初回に遊びに来てもらえれば!

15日18:50からのBプログラムの上映終了後にはプリート&オリガ・パルン夫妻をスカイプにてお招きして、
山村浩二さんと対談をしていただきます。
かなり豪華な機会だと思いますので、こちらもぜひ。

スカイプといえば、
19日18:50からのBプログラムの上映終了後にはカナダ留学中の大山慶さんをお迎えして、
『HAND SOAP』について語ってもらいます。

24日18:50からのBプログラム終了後のは、和田淳さんをお招きします。

ほんとみなさん遊びに来てください。
前回上映の二回券があれば、一般料金が割引になりますし、
使い切れなかった方はABに限って使えます。

公式ホームページはこちら。

そして予告編です。



土居

        2011-05-03        アニフェスト(チェコ・テプリツェ)雑感

CALFプログラムがあったニッポンコネクションとアニフェスト参加を経て、今プラハにいます。DVDショップを回ってみたのですが、チェコ国産のアニメーションはあまり置いてありません。『ポムネンカ』のDVDを入手できたのは嬉しかったのですが、他にはゼマンが2枚、『ぼくらと遊ぼう!』などポヤルが数枚、あとはテレビシリーズがちらほら、という感じで寂しい限りです。日本のDVDショップの方がよほど充実しているという。ただ、クルテクは根強い人気があるのだなと実感しました。DVDショップにもおもちゃ屋にも大きなぬいぐるみ付きで大々的にフィーチャーされていました。あとはスマーフが強い印象。トルンカやシュヴァンクマイエルといった日本では巨匠として扱われている人たちは、今現地ではどう認知されているのでしょうか。

チェコのアニフェストは最後の二日間だけの参加してきましたので、少しレポートしておきます。アニフェストは2002年から始まった(おそらく)チェコ唯一の大きなアニメーション映画祭で、今年は10回目を迎える記念の年でした。名誉会長にはミカエラ・パヴラートヴァを迎え、彼女の絵画やビデオインスタレーションの展示もありました。

アニフェストはそれほど規模の大きな映画祭ではありませんが、短編部門、長編部門、依頼作品部門、学生部門、子供向け部門、子供作品部門と、アヌシー以上に多岐にわたる作品を取り上げます。ただ会場のテプリツェという街はプラハから車で一時間ほどハイウェイを飛ばしたところにある温泉地なのですが、何もありません。映画祭に集中できるのでいいかもしれませんが、フェスとあわせて街を楽しむ、ということはあまりできません。地方都市なので物価が安いのは非常に嬉しいことではあるのですが。

アニフェストはやはり旧社会主義圏のアニメーション映画祭だな、という印象を受けました。小芝居の多いセレモニー、コミュニティ化した国内のシーン、とてもプライベートな雰囲気といったことのせいかもしれません。旧ソ連のシーンともつながりが強い感じがしました。

子供向け作品の上映の際には、実際にたくさんの子供が来場しており、それは非常に素晴らしいことだと思いました。たまに間違えて『エクスターナル・ワールド』とか観ちゃって怒りながら帰る親子連れを目撃したりしましたが。

短編・長編というメインの部門の審査員はジョアンナ・クイン、アンドレアス・ヒュカーデ、オリヴィエ・コット、オットー・アルダー、ノロ・ドロジアック(この人は知らない)とかなり正統派で豪華なメンツで、となると予想通り『雨のダイバー』がグランプリを穫るわけですが、他の部門をみても、長編部門では遂に完成したガリ・バルディン『みにくいアヒルの子』が(観れなかった……)、そして15分~60分の部門ではブラザーズ・クエイ『マスク』が受賞するなど、かなり風格の漂う受賞作品のセレクションになりました。審査員は違いますが(ウラジーミル・レスチョフなど)、奥田昌輝『くちゃお』が学生部門のスペシャル・メンションだったのは非常に喜ばしいことだと思います。(受賞リストはこちらのnewsページでご覧下さい。)

気になった作品についていくつか。

プリート&オリガ・パルン『雨のダイバー』は現在京都みなみ会館で開催中の「アニメーションズ・フェスティバル」でも観れますが、今回改めてじっくりと向き合って鑑賞して、また少し適切に咀嚼できた気がしました。(優れたパルン作品は良い意味で曖昧なところが多いので、観るたびに少しずつ印象を固めていけるという印象です。)初見の際から、笑える出来事が起こっているのになぜ笑えないのかという疑問が湧いていました。(広島ではかなり受けてましたが。)しかしそれは、作り手側の失敗ではもちろんありません。今回鑑賞して思ったのは、この作品がpointlessな世界そのものを描いているからなのではないかということです。pointlessじゃない世界のなかでpointlessなことが起これば、そのギャップは当然ユーモラスなものとなるでしょう。(パルンの初期作品はそういうギャップを内包していました。)しかし、『雨のダイバー』では、作品世界全体がpointlessなので、pointlessな出来事が起こっても、笑えない。むしろ、そのpointlessであることをじっくりと追認していくようなかたちで、コミカルなすれ違いが起きていく感じがありました。この作品は、男が自分がひとりである(女性とは異なる世界に生きている)という宇宙的事実を認めるという作品ですから、やはり追認の物語なわけで、pointlessの追認は作品の主題と合致しています。しかし、なんとラディカルな語りなのでしょう。つまり実質的には、何も起こらないわけですから。何も起こらず、ああ、そうだった、という微細な気付きのみがある。この思い切った語り方にこそ『雨のダイバー』の凄まじさがあります。『草上の朝食』にもあった、気狂い的な叫び声も、そんな世界だからこそ非常に良く響きます。

オランダで抽象実験部門のグランプリを受賞したFreud, Fish and Butterfly (Haiyang Wang)はbluと何が違うのだろうということも考えました。見せかけの新しさとインパクトを求めて下らない定型の物語を語ることに堕してしまったBluの新作Big Bang, Big Boomとは異なり、Freud, Fish and Butterflyには、描かれるイメージの移り変わり自体が持つ強度があります。つながりをもたないがゆえの強烈さというか。素朴さ、流暢でないこと、個人的なフェティシズムの衒いのない前面化、そこらへんが弩級にストレートに出ているのも良い点なのかもしれません。

広島にコンペインしたThe Drawer and The Crowの作者Frederick Tremblayの新作The Princessは前作に続き強烈でした。この人の人形はしわしわで粗いのにとてもエロティック。今回の作品では、作家本人もそのことにかなり意識的に取り組んでいるのではないかと思いました。女性の肉体の官能性が存分に伝わってきます。「むかしむかしあるところに……」「幸せに暮らしましたとさ」というはじまりと終わりをもった本を読みふける女性の、男性に対する理想(白馬の王子様)と現実(黒いオオカミ)を描く話は、物語自体に救いはありませんが、鑑賞後になぜか救われた気分になります。この作家さんが天然の人だからでしょうか。彼のピュアな作品は、見るものの心を純化してくれます。

One More Time (E. Ovchinnikovaなど)はヤロスラブリにあるアレクサンドル・ペトロフの学校兼スタジオの作家の小品で、お師匠さんのペトロフと同様に、技術的に優れており、ウェルメイドなものではありました。こういった小品として示されると、彼のメソッドも受け入れられるのですが。

ちょっとした驚きだったのはスロヴァキア作品のStones(Katarina Kerekesova)。男たちのマッチョな職場、石の採掘場にやってきた女性をめぐる愛欲と死のお話が、近年では珍しいような本格派の人形アニメーションで、しかもミュージカルで語られます。ミュージカルといってもライトで流暢なものではまったくなく、ビョークが主演で実写映画化できそうなサウンドスケープ。奇妙ではありますが、興味深い作品でした。

Journey to Cape Verde (Jose Miguel Ribeiro)は今回の掘り出しものでした。(といっても5分~15分部門でスペシャル・メンションになっている。)アフリカのカーボベルデへの旅行記を描くこの作品は、スタイル的にはバスティアン・デュボア『マダガスカル』に似ています(旅行中の実際のスケッチを使ったり、シーンによって様式が変わったりすることなど)。携帯に象徴される日常生活を捨て、異境の地にいることのちょっとした孤独感や、それをほんの少しだけ埋めてくれる現地の人々との重すぎない交流(泊めてもらった子供とのさりげない心の通わせ方にはぶるっときます)、自分と彼らの関係性がどうなったのかをさらりと象徴するクレバーなラストなど、観るべきところの多い作品でした。現地の人たちと一体化するのではない距離感の取り方は『マダガスカル』でも思いましたが、かなりリアルだなと感じました。この作品はシンプルな描画スタイルと現地で実際に録音した会話・物音がミックスされることで起こるギャップがまた良かった。リアリティの水準が異なるこのギャップは、観客の頭の補完を要求します。観客は、実際に映っているものや響いているものとは異なるものを脳内で体験することになるわけです。

そのことは、二度目の鑑賞でかなりの良作なんじゃないかと思いはじめたルース・リングフォードのLittle Deathsと似ています。こっちの作品は、オーガズムについて教えてくださいというインタビューへの答えをアニメーションにしたものなのですが、二年前のアヌシーでグランプリを穫ったSlavarが3DCGのラフなビジュアルゆえに逆に観客に対して鮮烈な記憶の光景のイメージを浮かばせていたのと同様に、不定形で境界を侵犯していくオーガズムというものを、死の深遠さや宇宙的スケールとつなげるかたちで描くことに成功しています。

クエイ兄弟の新作『マスク』がなぜ物語を語ることに成功できたのかということも考えました。クエイはこれまでは物語を語ることに失敗している作家でした。多くの人形アニメーションとは異なり、人間(もしくは人間的なキャラクター)そのものというより、人間から少しの欠損があるもの、生命の「ようなもの」として図らずも生み出されてしまった人形を多く登場させつづけてきたクエイ兄弟ですから、愛する男を殺すために作られた人造人間を主人公とするこの作品の物語は、おそらく彼らにとても合っていたのでしょう。この作品でもまた、クエイの語り口は、一般的に思われているノーマルな人間概念とは何かということにひとつのクエスチョンマークを突きつけるものとなっています。そこらへん、シュヴァンクマイエルとはかなり異なる印象です。こもるべき個の世界さえもないという。

学生部門では、最優秀賞を受賞したElli Vuorinen"The Tongueling"が感動的でした。ナメナメ宇宙。とりあえず観てください。animationの項目にあります

学生部門でのもうひとつの掘り出しものは、The World at Large (Katja Schiendorfer)。この人はアニメーションのセンスがあります。シンプルな描線で、あまり動かしすぎないのに、震えやちょっとした仕草によって非常に豊かな動きが生まれています。バイオリンとアコーディオンの演奏が生き生きと始まるところから開始されるこの作品では、街の人々がマクシモフ作品のキャラのように愛らしいキャラとして動き回り、なぜか存在する巨大ネコ以外の人々はほとんど互いに絡みがないまま、それでもなお同じ街の情景が描かれているような、そんな素敵な荒技を成し遂げています。なんというか、さわやかで愛らしい『わからないブタ』という趣があるような。とにかく素敵な作品です。

学生部門ではオットー・アルダー率いるルツェルンのアニメーション・コースの学生の作品が目を引きました。たとえばこれとか。他にもいろいろ。マリーナ・ロセットなども輩出しているこの学校、地味ですが良作を揃えてきています。

パノラマ(Anifest Choice)では、アヌシーのグランプリThe Lost Thing (Shaun Tan)をようやくきちんと観れました。(アヌシーではやはり寝てしまっていたみたいです。)キャラクター造形と画面構成の豊かさや、何も衒わないストーリーテリングで突出している作品だと思いました。何も革新的なところはないのですが、とにかくきちんとできており、その「きちんと」のレベルが時おり尋常でなく高くなります。CG自体のクオリティは高くないのですが、そこに注意がいかないような優れたビジュアルスタイルを持っています。監督のショーン・タンはむしろ絵本作家として最近日本でも注目を集めていますね。

長くなりすぎましたので以上で。

さて、今日からはシュトゥットガルトのはじまりです。

土居

        2011-04-25        今年のGWに東京にいる方々がどれだけラッキーか(という上映イベント紹介)

来週の水曜日からニッポンコネクション~アニフェスト~シュトゥットガルトという映画祭ツアーに行ってきます。GWまるごと日本にいないわけですが……その間にいろいろと面白い上映があるんですよね。

まずは先週末からついに公開が始まったアダム・エリオット『メアリー&マックス』。一昨年のアヌシーでの初見以来、心の底から日本公開を熱望していたのですが、ついに実現……感慨深いです。これは誰にでもストレートに響く作品だと思います。社会の規範から少し外れてしまった不器用な人たちが、自分自身の生や運命を見出し、生を全うするお話……名作『ハーヴィー・クランペット』同様に、この映画も、欠損を克服するわけではなく、欠損を欠損として抱えたままで、それでも私たちひとりひとりにきっとある居場所を教えてくれます。パンフレットに推薦コメントを寄稿しました。パンフレット、かなり気合入ってます。twitter上では熱い広報さんが熱い感想をRTしております。

毎年恒例のイメージフォーラム・フェスティバルでもアニメーションのプログラムが充実しています。「アニメーション・セレクション1 秘密の機械」ではブラザーズ・クエイの新作『マスク』が日本初上陸。クエイの良作は、正常な人間とは何か、というあたりを揺さぶってきますが、この作品も然り。レムの原作で、ナラティブがかなりしっかりしており、クエイには珍しいです。「アニメーション・セレクション2 愛と剽窃」では、タイトル通りヒュカーデ『愛と剽窃』がやりますし、さらにはオライリー『エクスターナル・ワールド』、テオドール・ウシェフ『リプセットの日記』とAnimationsではお馴染みの作品も紹介されます。『睡眠で死にはしない』(邦題意味逆……?)もかなりの良作です。男臭いですが。マッチョな作品です。「ポーランド・アニメーション傑作選」は見逃してはいけません。最近忘れられがちなポーランド・アニメーション。良い作品は本当に多いのです。今回のプログラムで個人的に推したいのはイエジ・クチャ『弦走』。これがフィルムで観れるなんて、こんな贅沢ありません。

震災の影響で延期になっていた藝大アニメーション専攻二期生の修了作品展も5/5~5/8で開催されます。映画祭ツアーで日本を留守にするせいで、アニメーションの評論シンポには出演できなくなってしまいました……が、他の出演者の方々がきっと盛り上げてくれるはずです。シンポジウムに出る予定だった関係で二期生の修了制作に関しては既に観ているのですが、植草航『やさしいマーチ』、折笠良『Scripta volant』、牧野惇『標本の塔』の三本にはかなり強い印象を受けました。特に折笠良作品については、ハーツフェルトなどとも響きあいつつ、アニメーションに新たな可能性を見出そうとするかなり挑戦的な試みとなっています。みなさんはどう思われますかね?

京都近辺にお住まいのみなさんは、京都みなみ会館でのゴールデンなアニメーション体験を逃してはいけませんよ! 4/29~「アニメーションズ・フェスティバル・アンコール」と4/30~「和田淳と世界のアニメーション」、両方行きましょう! 合同キャンペーンもあります。

土居

        2011-04-18        「花開くコリア・アニメーション」

「和田淳と世界のアニメーション」とかぶっていたので長編『ロマンはない』は見れませんでしたが、他のプログラム3つは一気に見てきました。日本国内でこんなふうにアニメーション上映をマラソン的に見るのはかなり久しぶりなことのように感じました。国毎の単発的な紹介イベントって、定期的なもの以外はあまり見なくなってきてますよねえ。

トークでは韓国のインディペンデント事情と歴史を簡単におさらいすることができました。
韓国のインディペンデント・アニメーションは90年代後半に始まったもので歴史は浅く、従事している人の年齢層自体もそれゆえに若いそうです。(一番上でも50代。)2000年代にはアニメーションがお金になるという話から国内に大量にアニメーションを学べる学校・学科ができ(200以上だそうです)、その熱が冷めた今でもやはり50以上はあるとのこと。今回のイベントはIndie-Anifestとつながりが強いわけですが、この映画祭自体、SICAFとPISAFでは足りないところ、つまり両方とも国際映画祭(後者は学生)ですから、国内の作品に焦点を当てるものとして行われているそうです。

この話を聞くと、韓国のインディペンデント界は実にうまく組織化されているように思えますが……

上映の方では、これは日本と状況が同じでしょうが、やはり学生作品が目立ちました。Indie-Anifestの応募作品数自体も学生が多いとのこと。
気になった作品についていくつか。
AプログラムInsideでは、『ある一日』(チョン・ミニョン)後半での暗闇における死神との静かな戦いが印象に残りました。画面をほとんど真っ暗にして、何が起こっているのかをあまり明瞭にしないこと、アニメーションではなかなか見られない表現です。あとは『猫我』(カン・ミンジ)ですね。カン・ミンジさんはこれまでもいくつか作品を見たことがあるのですが、なんというか、努力人といったら失礼ですが、注ぎ込まれる物量とパワーにいつも驚かされます。アンジェラ・シュテッフェン『生命線』並に動きまくるんですが、作品の尺が長いし、周りのものが目に入ってないんじゃないかというくらいに、アニメーション制作に集中している感じがするのです(当たり前ですけど)。猫と私というかなりスケールの小さい(失礼)題材によって、宇宙を現出させてしまうような作家です。
BプログラムOutsideでは、まず『EATING』が印象に。疲れきったサラリーマンが主人公となるわけですが、彼の疲弊が作品全面から、コミカルではないかたちで伝わってきます。アニメーションの質的には『田舎医者』を思わせるような身体のディストーション。しかし、その動きは、気怠く、重いです。マラソンの比喩やその他様々な展開が全体として有機的に機能しているかといえば微妙なところですが。やらんとしていることはハッキリとわかります。『子犬』は学生作品ですが、こちらは非常にクレバーで笑える作品です。白地にドローイングの線のみという非常に抑制の効いた画面で、効果的なカメラワークによって必要なことだけが語られていきます。ネタバレをしてしまえば反復ものなのですが、語り方がウィットに富んでいて楽しめる作品でした。3プログラム全体を通じて最も美しい作品は『日常の中の生』(キム・ジュン)でした。トーリル・コーヴェを思わせるようなシンプルでクリーンな描線で描かれた街のなかの一時の物語。数人の若者たちが、同じ場所を緩やかに共有する様子を淡々と俯瞰で語っていきます。描線は簡素なのですが、現実の街中よりももっといろいろなことが同時に起こっているような気がします。主要な登場人物たちの視線も、どこに向かっているのか定かではないまま、登場人物たち自身もどこに視線を向けているのか意識していないような、そんな力の抜け方がありました。そういった日常的な緩い集中力がたくさん集まった中盤の一瞬に、作家が意図したのかそうでないのかが定かでないくらいのちょっとした調和が起こり、震えます。とにかく、現実を生きるよりもたくさんの情報が、とても有機的にスッと入り込んでくる感じがあるのです。アニメーションなのに。
CプログラムYouthは題材も作品の質自体も「若い」ものが多かった気が。印象的だったのは潜望鏡に囲まれた双子の姉妹の振る舞いが謎めいていて素敵な『Six Steps』(パン・ジュヨン)、若い恋人の別れにまつわる感情のグラデュエーションを豊かに描いた『旅行カバン』(クォン・ヨンファン)あたりでした。

「花開くコリア・アニメーション」はこの後大阪や名古屋でもあるようです。

公式ホームページ


土居

        2011-04-12        今週の東京は「和田淳と世界のアニメーション」と「花開くコリア・アニメーション」

震災の影響で三月のアニメーション系イベントはことごとく中止・延期になってしまいました。
ただ、いくつかのイベントでは延期後の開催を目指した動きが少しずつ出てきているようです。
イリュージョニスト』、『ファンタスティックMr.Fox』と、このブログでも紹介した海外長編アニメーションが公開になる一方(どちらも非常におススメです。アニメーションの未知なる姿、もしくは忘れられつつある可能性を見せつけてくれます)、
短編アニメーションのイベントもまた始まりつつあります。

下高井戸シネマでは、CALF宣伝・配給の「和田淳と世界のアニメーション」が4/11~16にレイトショー公開です。
和田淳アニメーション全作品はもちろん、『ミラマーレ』、『オルソリャ』、『生命線』といった年間ベスト級の作品が2プログラムで一気に観れてしまいます。東京のみなさん、是非ともお見逃し無きよう。

また、週末には毎年恒例企画「花開くコリア・アニメーション」の上映がアップリンク・ファクトリーにてあります。
こちらもチェックしてみてもよいかも。

なんだか告知モードになってしまいましたが、今だからこそ、是非とも劇場に足を運んでいただければ。

土居

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