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        2010-02-07        メディア芸術祭「SICAF」「オタワ」

今年も文化庁メディア芸術祭の季節がやってまいりました。
「今」のアニメーションが観れるという点でいえば非常に貴重なこの機会、僕個人としてはアヌシーもオタワも去年参加したので新鮮味はないですが、それぞれ8ヶ月、4ヶ月と経った後で、主要な作品をもう一度見直すというのは良いことです。

しかしアヌシーは寝坊して見逃しました。本当は一回目でレポートして「二回目観にいかなきゃ!」と去年のオタワプログラムみたいにアジりたかったのですが、見事に撃沈しました。会場に行かれた方々によると、アヌシープログラムのPlease Say Somethingは日本語バージョンになっていたようです。日本語字幕が欲しい方はそちらを。英語版のオリジナルは本人公式やvimeoでみれますけど、日本語版はメディア芸術祭が世界初プレミアです。(しつこいようですが翻訳は僕が担当しました。日本語としてこなれてない部分があったとしたら僕の責任ですが、フォント等はオライリーくんが決めました、というかオリジナルに忠実に移植されてます。)

○SICAF

まずSICAFですが、韓国の短編が集中的に紹介されているので、キツいときは本当にキツいですが(韓国が、というのではなく、特定の国の最新のものに偏るとどの国でもそうなる)、今回はなかなかでした。

『Metropolis』(水江未来)と『I'll Be Normal Tomorrow』(チャン・ヒュンユン)はSICAFからの依頼で制作されたもので、しかしオープニング・アニメーション程度のものではなく、どちらも「作品」として観れるようなガッツリとしたボリュームがあります。確か「街」をテーマにすることが義務だった気がしましたが、両者のアプローチは正反対。『Metropolis』が街をひとつの抽象的な身体としてその血流やリズムを俯瞰するのに対し、『I'll Be Normal Tomorrow』は大きな街の片隅でひっそりと暮らす二人の物語を描きます。逆に共通点もあって、ともに都市のうちのある種の純粋な状態を描いていました。これはアニメーションのメディア的な特性に拠るところも大きいでしょう。

『Metropolis』ですけど、個人的には『JAM』は「細胞を使う」という方向性の極北であり袋小路に思え少々息苦しかったのですが、こちらでは力が抜けてスケール感が戻ってきた感じがします。サザランドの作品に共感する、というようなことを言ってましたが、それが非常によくわかるものになっていると思います。

ここでサラッと告白してしまいますが、チャン・ヒュンユンは結構好きです。誰?と思われる方には、『ウルフ・ダディ』といえばすぐに分かってもらえるでしょうが、去年のメディア芸術祭で上映されていた『私のコーヒー・サムライ』も結構良かった。(というかこれを観て彼のことを見直したんですが。)余計な夾雑物の排除された二人だけの世界の表現という彼の作家性は今回の短い作品において純粋化されている印象があります。セカイ系を遅れてきて実践しているという感は否めませんし、今回の異形の主人公をみればセカイ系の代表作のとあるマンガが頭に浮かんでくる人も多いでしょうけど、さらにいえば絵的にみれば生理的な違和感を覚えてしまう人も多いでしょうけど、そんなことは別にいいんですよ。美的方面に純粋化するのではなく、「今」の物語をきちんと語れるという点でいえば、彼は非常に貴重な存在だと思います。そこで語られている「今」に対してどのような反応を持つかについては、みなさんにお任せします。万人に共通する「今」ではないですからね。とにかく、生理的な反応だけでしょうもないと切って捨てるような作家ではないということだけご報告を。ほんと、恥ずかしくなるくらいに不器用なピュアさを描く作家です。韓国映画の文脈に位置づけるとどんな感じなのか、それはちょっと知りたいです。

学生部門グランプリのThe Bottle (LEE Yoon-Hee, SHIN Moon-Koung, CHA Yoo-Kyung, HEO Ji-Young)はグランプリにふさわしい親密なスケール感を持った作品です。孤独な二人の少女の交流記を描くのですが、真っ先に思い出すのはコヴァリョフの『ミルク』です。静寂のリズム感、構図の切り方、カメラの揺らし方、オマージュとまではいかないまでも、作家陣たちが何か共通のものを見いだしていることは間違いないように思います。ただ、描こうとしている世界というか、コヴァリョフと彼女たちの根本的な世界認識というのはかなり異なっていて、The Bottleの場合は良くいえば非常にプライベートな、悪く言えば非常に狭い世界を描いています。コヴァリョフのように切迫した空気感を描くことはできていません。しかしそれは技術的な瑕疵ではなく、繰り返しになりますが、彼女たちが生きている世界のリアリティがそうなんじゃないかと思います。これに対してどう反応するのかは、チャン・ヒュンユンの項の繰り返しになりますが、みなさんにお任せします。『HANDSOAP』あたりと比べてみても面白いかもしれないです。とにかく、悪い意味でピュアな作品ばかりが目立つ傾向があるアジア圏の学生作品からこういうものが出てきたのに少し驚きました。なかなかの力作です。

学生部門特別賞のShall We Take A WALK (KIM Young-Geun, KIM Ye-Young)はオタワでも観ました。視覚障害者の少年が街の散歩を元にして制作した触覚のオブジェを一緒に旅していく作品で、ドキュメンタリーと言えないこともない内容になっています。視覚障害者にとっての世界を追体験させるという、アニメーションの正しい使い方をしていると思います。技術レベルはともかく、なかなか感動的な作品です。

短編プロフェッショナル部門特別賞のDust Kid (JUNG Yu-Mi)は2008-2009年ベストのエントリの際にもちょびっと触れましたけど、濯いでも払っても洗い流してもやっぱり残ってしまう自分の過去や現在の残滓と折り合いをつけることを描いた良作です。しかし途中から音と映像がズレていて、しかもあまり違和感がなかったのがびっくりでした。でも、次の上映ではきちんと直っていることを願っています。

ここで取り上げた韓国作品、乱暴な言葉でまとめあげれば、どれも「引きこもり」的世界観をベースにしてますね。ただし、方法論がきちんとしているので、悪い意味でのそれにはなっていないと思いますが。こういう世界観、ショーアップされない純粋ピュアの世界、日本、韓国、あとロシアの学生作品に多い気がします。なんででしょうね。日本は悪い意味での引きこもり的世界観が多い気がしますが。若手の作家さんたちは韓国のこれらの作品を見習いましょう。SICAFプログラムの最後の作品については、反面教師にしましょう。でも観客賞なので、ウケたい人は見習いましょう。

SICAFプログラム、次は8日(月)の12:00からです。

○オタワ

予告してあったとおり、プログラマーの好みが北米仕様にちょっと偏ってます。Love on the Line、オタワで現地で観たときは「なんて面白いんだ」と他の観客たちと一緒にha ha haと笑っていましたが今回はそれほどでもなかった。でも良い作品だとは思いますよ。逆に、Mac the Honey Mac DaddyやMGMT "Kids"は現地では「下らなすぎる」とちょっと怒り気味で観てたんですが、今回はあまりの下らなさにちょっと吹き出してしまいました。特に後者、子どもがかわいそうでしょ! Postalolioはマーヴ・ニューランドらしい遊び心いっぱいの作品。ハガキの上にアニメート→それを全部制作スタジオに実際に郵送する→撮影というアホらしいコンセプト。作品自体はちょっと長いので二回目だとキツかったですが。Please Say Somethingはこちらでは英語版です。The Bellow’s MarchやThe Art of Drowningは、この画質では魅力を分かってもらうのは難しいでしょうね。もどかしい思いをしました。Madagascarもこのクオリティだとキツいかな、と思ったのですが、そうでもなかったです。三回目なので楽しみ方が分かったのでしょうか。『アバター』を観たとき並に没入して空気感を感じました。

オタワプログラムは8日(月)10:15-です。

メディア芸術祭が始まる前には思ってもみなかったのですが、SICAFの方が書くべきことが多かったです。もちろん、オタワはすべて観ていたということもありますけどね。

土居

        2010-01-17        メディア芸術祭「アヌシー」「オタワ」「SICAF」上映作品リスト【1/19確定】

2月3日〜14日に国立新美術館で開催の文化庁メディア芸術祭、最新の短編アニメーションを観ることができる数少ない貴重な機会です。Animations的には、受賞作品集はもちろんですけれども、アヌシーとオタワのプログラムにも大注目です。

講堂での上映日程についてはもうすでに発表されていますので、ここでも参考にしてください。アヌシーとオタワは各二回。
例年通りであれば、展示会場でもさらに上映があるはずです。
さらに例年通りであれば、上映作品リストは会場に行ったとしても手に入りません。
映画祭の公式ページなどを参考にすると、おそらくこれらの作品が流れるのではないでしょうか。
【1/19追記】※メディア芸術祭の公式ページにて上映作品がアナウンスされました。

○アヌシー サンフランシスコ国際アニメーション映画祭のプログラムから)→正式に発表されました。[1/19注記]
The Employment (Santiago Grasso, Argentina, 7 min) ※短編部門FIPRESCI賞
Ex-E.T.(Benoît Bargeton, Yannick Lasfas, Rémy Froment, Nicolas Gracia, France, 9 min) ※学生部門審査員特別賞
The Soliloquist (Kuang Pei MA, Taiwan, 6min) ※学生部門特別優秀作品
Chick (Michal Socha, Poland, 5 min) ※短編部門ベスト・ミュージック賞
Shrug (Alina Constantin, Norway, 7min) ※学生部門こども審査員卒業制作賞
Madagascar, Carnet de Voyage (Bastien Dubois, France, 12 min) ※短編部門コンペ外最優秀作品
Western Spaghetti (Pes, USA, 2 min) ※短編部門観客賞
Slaves (Hanna Heilborn, David Aronowitsch, Sweden, 16 min) ※短編部門アヌシー・クリスタル(グランプリ)、ユニセフ賞
The Man in the Blue Gordini (Jean-Chrisophe, France, 10 min) ※短編部門デビュー賞、子ども審査員短編映画賞
For Sock’s Sake (Carlo Vogele, France, 5 min) ※学生部門最優秀賞
Please Say Something (David O’Reilly, Germany/Ireland, 10 min) ※短編部門特別優秀賞
Log Jam: The Log, The Rain, The Moon, The Snake (Alexey, Alexeev, Hungary, 4 min) ※テレビ部門アヌシー・クリスタル(グランプリ)

○オタワ 公式ページから)正式に発表されました。[1/19注記]
OIAF 2009 Signal Film (Julian Grey, Canada, 0:45)
Love on the Line (G Melissa Graziano, USA, 5:00)
Mac the Horny Mac Daddy (Ian Miller, USA, 1:07)
Postalolio (Marv Newland, Canada & USA, 5:02)
Please Say Something (David OReilly, Ireland & Germany, 10:00) ※短編物語部門グランプリ
The Bellow's March (Eric Dyer, USA, 5:00)
Chick (Laska) (Michal Socha, Poland, 5:03) ※学生部門グランプリ
The Black Dog's Progress(Stephen Irwin, 3:15)
Magic Cube and Ping-Pong (Lei Lei, China, 4:07)
The Art of Drowning (Diego Maclean, 2:07) ※カナダ・アニメーション部門選外佳作
History of the Meat Packing District (Gary Leib, USA, 1:01)
MGMT 'Kids' (Christy Karacas & Ray Tintori, USA, 6:11)
The Terrible Thing of Alpha-9! (Jake Armstrong, USA, 5:45) ※学部学生部門最優秀賞
Madagascar, A Journey Diary (Madagascar, carnet de voyage) (Bastien Dubois, France, 11:30) ※依頼作品部門グランプリ、大人向けテレビ作品部門グランプリ、観客賞
Inherent Obligations (Kaasündinud Kohustused) (Rao Heidmets, Estonia, 10:00) ※インディペンデント短編部門グランプリ


アヌシーの方は受賞作品をきれいに並べていますが、オタワの方はそうでもないですね……驚いたことに、選外佳作というかたちでひっかかってさえいないさえ選ばれています。権利の関係上、「ベスト」プログラムへの選出を断る作家もいるらしく、そういった事情も少々はあるのでしょうが、選出作品をみるかぎり、クリス・ロビンソンの趣味が大きく影響している気がします。大学院生部門最優秀作品の"Lebensader"や短編部門選外佳作の"Kitchen Dimensions"を大画面で観るチャンスだと思っていたので、そこらへんは少々残念です。

Please Say SomethingやMadagascar、Chickは両方でかぶってます。PSS日本語版ですけど、どちらかのプログラムでは上映されると思います。Chickについては、両映画祭で高い評価を得ているにも関わらず、そういえばAnimationsではまったく取り上げていませんね。作品の質自体は、ヴィジュアル、音楽共にレベルは非常に高いです。でも僕の心には響きませんでした。だから取り上げていません。

アヌシーの方は、笑いありシリアスあり一発ネタあり(僕にとってはどうでもいい)ウェルメイドなだけの作品ありというバランスの取れた良いプログラミングになっていると思います。(というか受賞作品並んだだけですけどね。)どれも作品の質自体は高いです。去年と比べると雲泥の差だと思います。(プログラム全体の話ですよ。変な裏読み禁止。)

むしろオタワの方が今年のプログラムだとちょっと偏りすぎなのかもしれない……北米基準入りすぎというか。マーヴ・ニューランドの新作(手紙を用いた良作です)やThe Bellow's March(大画面で観る価値あり)が入っているのは嬉しいですけどね。The Art of Drawningも非常におすすめです。

両プログラムとも土日にも上映がありますので、勤め人の方々も問題なしですね。

【以下1/19追記/コメントをふまえてさらに追記】さらにSICAFのプログラムも発表されています。

SICAF
SICAF2009 Opening 1 (Abi Fejio, Portugal)
SICAF2009 Opening 2 (Rastko Ciric, Serbia)
Metropolis (水江未来、日本)※SICAF委託作品
I'll be Normal Tomorrow (Chang Hyung-yun, Korea) ※SICAF委託作品
The Bottle (LEE Yoon-Hee, SHIN Moon-Koung, CHA Yoo-Kyung, HEO Ji-Young,Korea) ※学生部門グランプリ
Shall We Take a Walk (KIM Young-Geun,KIM Ye-Young, Korea) ※学生部門審査員特別賞
Dust Kid (JUNG Yu-Mi, Korea, 10 min) ※特別賞
Entering the Mind Through the Mouth (Jinsung Choi, Korea, 23 min) ※観客賞

こちらは受賞作品から韓国の作品を揃えてきました。Dust Kidはおすすめです。Entering the Mind...はオタワでパルン夫妻の『ガブリエラ』と併映されていた作品。(位置づけとしてはパノラマ枠でした。『ガブリエラ』が長編にしては短いので併映というかたちになったのでしょう。)未見なので楽しみです。MetropolisはSICAFのオープニング&クロージング用に制作された作品とのことですが、唯一出所不明だったI'll be Normal Tomorrowもそうなのでしょうか……?

土居

        2010-01-12        Talk こどもの城 昼間行雄さん

新春初の記事をTalkのコーナーにアップしました。
昨年末にインタビューをお願いした、こどもの城の昼間行雄さんの登場です。
全5ページわたるボリュームある記事になりました。
最後のページには、こどもの城のビデオライブラリー作品の抜粋ですが充実したリストも掲載しています。
廃盤になったVHSやインタビューなど貴重な作品が沢山ありますので、アニメーション研究者の方やアニメーションに興味がある方、ぜひ一度青山こどもの城へお出かけください。
大人だけでの入場も大丈夫ですよ。

山村

        2010-01-08        『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター)

ピクサーの前作『ウォーリー』についていきり立ったエントリした人間として『カールじいさん』についても一応書いておかねばならないかなと思うわけですが、正直期待はずれでした。

『ウォーリー』になぜあれだけ熱狂したかというと、その前章として『カーズ』が僕のなかではあったわけですが、車やロボットといった機械が主人公だったこの二作、あくまで個人的な感触としてですが、「アニメーションをみるぞ」という(無意識中の)意識を働かせなくても観ることのできる作品だと思いました。「アニメーションをみたなあ」という気分を全開にしてくれた『屋根裏のポムネンカ』と比較してみれば、この作品なんかは非常にチェコらしく、モノが生命を宿すということを前面に押し出しており、観客の方は動かないはずの人形とそれが動いてしまう状態の両方を受け止めることを当たり前とするわけですが、『カーズ』や『ウォーリー』では「動かないはずなのに」という次元がまったくないように僕のなかの無意識は意識したわけです。『カーズ』は観ている最中とても変な気分になりました。本来なら人間が行っているはずの行動が、車によって行われていることにムズムズしました。車が人に変わるだけで、すべては自然になるのに、と。

これは考えてみれば異常なことで、なぜそんなムズムズ感(必ずしも悪いことじゃないです)を感じたかといえば、それはやはり圧倒的なクオリティで描かれた背景としての世界のせいだと思います。『ウォーリー』ではそれが徹底されてましたよね。冒頭40分は、荒廃した地球と古ぼけたロボット、そして流線型のきれいなロボットというCG表現と非常に相性の良いものばかりが登場して、(僕が都会人だからかもしれませんが)すべてが実写で撮影されたとい言われてしまえば気付かない程度にまでそのハイクオリティが侵略していました。そこが僕の興奮した理由でした。「アニメーションである」という事実が観客にとって可能な限りに透明になり、不思議さを感じることがもはやない。これってディズニーがかつて夢みたことなんじゃないかと思ったわけです。もはや騙しの技術なくとも、作品空間のなかに自然に没入できる。ノルシュテインっぽく言えば、「約束事」の働いている世界ではない。これはもしかしたらアニメーションでさえないのかもしれない、と思わされたものです。(ラストのキスシーンでは、二人のロボットのクロースアップが、異様な情感を滾らせているように思えたことにも驚きました。)

そういった点に感動した僕からすると、いかにもアニメーション然とした『カールじいさん』は、非常に中途半端な出来に思えました。「さあアニメーションをみるぞ」というモードになることが必要で、それ自体はまあ全然構いません。ただ、デイヴィッド・オライリーが指摘するように、アニメーション世界がリアリティを獲得するためには一貫性が求められるわけなのですが、『カールじいさん』の場合、この世界のリアリティがどこに設定されているのかが最後までよく掴めなかった。冒頭のおじいさんとおばあさんの思い出のシーンはものすごく良かったです。でも、それ以外の要素が不協和音を……一観客として、これはどこまで戯画化された空間なのかというのがよくわからず、身の置き場所を定めることができませんでした。ピクサーの作品でこんなことを感じたことがなかったので、ちょびっと戸惑いました。

でも相変わらず人間以外のグラフィックはハイクオリティだと思いました。ピクサーの自然描写については誰かにきちんと語ってほしいものです。

『カールじいさんの空飛ぶ家』公式サイト

(このエントリの前半部分については、『読むアニメーション』01の山村さんのインタビューでも似たような話がされています、というか僕もインタビューの現場にいて、このことに関してはいろいろと外野から突っ込みを入れてたのですけど。)


土居

        2010-01-07        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(6):ギル・アルカベッツ「アニメーションにおけるストーリーテリングとドラマツルギーの特性」&まとめ

 フィルモグラフィーを見渡してみると、実に多様なグラフィックでさまざまなテーマの作品を展開していることがわかるアルカベッツ。自分の絵のスタイルにこだわらない短編作家でもあり、観客の知覚を揺さぶる系統の実験作品も多く作っている彼は、アニメーションという表現形態に対してかなり意識的に違いないし、アニメーションとは何かということについて考え抜いているはずの作家であるように思われたので講演にも期待していたのだけれども、見事にそれに応えてくれた。
 アニメーションと実写は何が違うのかという論点に沿って、いくつかの仮説を提示するという構成になっていたこの講演。アルカベッツが「アニメーションらしい」例としてまず選んだのは、ミハエラ・パヴラートヴァーの『ことば、ことば、ことば』。実際の言葉が話されるわけではなく、なんらかのかたちを取る吹き出しとして言葉が表現されていくこの作品。アルカベッツは、われわれは実生活においてこんなものを実際に目にするはずはないのに、それでも理解できてしまうという事実から、アニメーションはメタファー的な理解によって成立するものなのではないか、とまず考える。
 そこから発展して、アルカベッツはさらにアニメーションと実写との違いを挙げていく。実写映画においては、観客は登場人物がどのような人物であるのかその個別性を理解し、それに対して同一化する必要があるのに、アニメーションにおいては違う。アニメーションには(ある程度の生涯を重ねてきた)人物そのものではなく、記号が登場しうる。(パルンが二日目に語っていたのと同じ指摘だ。)登場人物に強烈な特徴がなくとも、それどころか何の特徴を持たない登場人物を用いても成立してしまうことを指摘するのである。
 それゆえに、アニメーションに登場するのは固有で取り替えのきかない誰かではなく、より一般的なイメージである。the man, the dog, the womanではなく、a man, a dog, a woman。きわめて抽象的で一般的な何ものか。このイメージの一般性(非特定性)は、悪い場合にはクリシェ(典型表現)になってしまうが、うまく使えば非常に強力に観客に作用する。
 アルカベッツが続いて挙げる例はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットの『岸辺のふたり』。この作品に登場するのはa fatherとa daughterであり、彼らは、どんな顔をしているのかが決してわからないように、特定の誰かではなく、父と娘の一般的なイメージだ。冒頭で父親が乗って去っていくボートも、決してボートそのものではない、もっと抽象的な何かであり、どこかへ行ってしまうこと一般のメタファーである。『岸辺のふたり』はこのように、一般的で抽象的で曖昧なイメージばかりが登場する作品なのに、それでも観客は自分の経験と照らし合わせることによって、この世界を充分に理解できるのである。(ノルシュテインがこの作品のそういった性質に、巨大なタイムスケールの凝縮の可能性をみていたこともついでに思い出しておこう。)
 最後の例として挙げられたのは、ガリ・バルディンの『アダージョ』。白と灰色と黒の折り紙で折られた非常にシンプルなキャラクターと舞台設定で出来上がっており、あまりに一般的かつ抽象的な世界であるのに、物語は観客によって広く共有されているものであるので、理解が可能になっている。(アルカベッツは同時に、人形アニメーションや3DCGアニメーションにおいては、このようなメタファー性は減少しがちだとも言っていた。バルディンは立体の作家だが、その思考や作品は立体としてはかなり特殊なのかもしれない。)
 アルカベッツは、こういった作品にみられる特徴こそが、アニメーションの可能性を真に活用したものなのではないかと結論づけて話を終わらせた。
 アルカベッツ自身が講演冒頭で話した通り、今回の話はあくまで大雑把な仮説であり、精緻な議論ではないこともあり、聴衆の質問とそれに対する答えが議論をさらに深めてくれることになる。アニメーションが象徴性を用いるという旨の話を観客と作り手との間のコードの共有として理解した聴衆からは、今回の話はすべてを身振りによって表現せねばならなかったサイレント映画にも言える話なのではないかとの質問があったが、アルカベッツはそれに対しては同意しない。何も知識を共有しない観客であっても、この種の「一般的な」登場人物を用いるアニメーションは理解しうることを考えると、ここで成立しているのはコードではないのではないか、というのが彼の答えだった。講演のなかでは観客の経験によるところが大きいと話していたアルカベッツだが、アニメーションの主な観客である子どものことを考えると(当然のことながら経験は少ない)、経験というもの自体がアニメーションの理解にあたってどれだけの比重を占めるのかはまだよくわからないというのが正直なところらしい。




 アルカベッツの話をレポートのラストにしたのは、最終日の出来事だったからというのもあったが、それ以上に、アルカベッツ自身の話の内容が、この国際会議を象徴するようなものであるように思えたからだ。すなわち、アニメーションに関してなんとなくみなが思っている、それでいてまだ精緻な議論がなされていない何ものかの指摘だ。アニメーションにおいて登場するのは何らかの実体を持ったものではなく記号であり、観客との間でその記号がうまく機能してこそ、アニメーションは強力な力を持ちうるという指摘は、パルンの講演でもなされたし、より大きな文脈で考えるとオライリーの講演もまた同じ列に捉えうる。記号を「そのものではないもの」として捉えれば、ディテールの選択などによって、そこには本来存在しないはずの全体性というものの表現を志向しようとするノルシュテインの考えもまた包括しうる。(『草上の雪』における「アニメーション=文学・演劇」論や『話の話』の「永遠」についての記述はアルカベッツの議論とストレートにつながってくる。)
 もちろん今回レポートする対象としてピックアップした講演以外にも、興味深いプレゼンテーションは多くあった。ジョルジョ・シュヴィッツゲーベルやノーマン・ロジェが自作を振り返る講演は、彼らの作品を理解するうえで非常に重要な「一次資料」として役立つものだっただろう。しかし、こういった話は映画祭の回顧上映の付録のトークでも聞ける。
 今回ピックアップした講演のすべては、「アニメーションとは何か」という非常に大きな問いに真っ向から答えようとする意志の感じられるものであり、こういった話は上映は最小限に留められとにかく言葉のプレゼンテーションを突き詰めていったこの場所でこそ可能になったものである。そういった講演の射程は広く、それぞれの作家たちの作品の分析のみに有効なのではない。(アルカベッツに至っては自分の作品については一言も触れなかった!)かといって曖昧な精神論や理念へと逃げ込むわけではなく、極めて実践的な理論を将来的に構築するのに役立つものとなる予感をひしひしと感じさせるものばかりだった。もちろん、議論は大雑把で使われる言葉はまだまだ感覚的だ。しかし、世界中の一流の作家陣が一堂に会し「アニメーションとは何か」ということについて自作を離れた射程を持った言葉が発せられたこのイベントは、アニメーションについて考える人々にとって、将来必ずや重要な第一歩として記憶されていくものとなるに違いない。
 今回の会議で語られた新しくもスタンダードな言葉は、アニメーションとはいったい何なのかについて、絵や無生物が動くだとか魂を吹き込むだとかそれに類するクリシェを更新する可能性をもったものである。アニメーションが真に重要とするものは何か。空想上の設定に基づいて具体的な人間の存在を移植したキャラクターやパーソナリティを動かしていくようなものはアニメーションのひとつの可能性にすぎない。アニメーションはより抽象的な何ものかが闊歩しうる領域なのだ。具体性を欠いていても、それでも観客はその世界を何らかのリアルなものとして感じうるし、むしろ他の芸術が持つ具体性の制約を軽々と飛び越え、より大きな何ものかを感覚させることができる。(ああ、この場にハーツフェルトがいたなら……)短編アニメーションという領域に関わる人を特別に集めたからこそ明らかになったアニメーションに対する理解。LIAAが最も未踏かつ最もエキサイティングな領域としてのアニメーションの姿を一瞥させてくれたのは間違いない。(終わり)

土居

        2010-01-03        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(5):デイヴィット・オライリー「アイディアと物語、その3Dアニメーションへの適用」

 2009年のアニメーション・シーンの新星デイヴィッド・オライリーは、今回のLIAAでおそらく最も若い講演者だったろうが、彼はその若さという特権を最大限に活用するかのごとく、アニメーション界で無意識的に共有されている前提を疑いながら、制作に対する自らの信条をとにかく追求しつづける、早口でエネルギッシュなスピーチを展開した。(主催者側は今回のすべてのプログラムを録画しているのだが、オライリーは右へ左へと自在に動き回るので、カメラマンが非常に大変そうだった。)
 話の中心となるのは、Animations本ホームページにもアップした「アニメーション基礎美学」と被る内容だったが、実際に本人を目の前にして彼の話しぶりを目にしてみると、彼の興味関心の中心が一体どこにあるのかが浮き彫りとなっていた。それはこれに尽きる――人工的(アーティフィシャル)であることがアニメーションにおいて持つ未踏の豊かな可能性。
 かつては解剖学的に正確なヴィジュアルを好んでいたという彼は、池田亮司の音楽の影響から、一転、人工的な表現の追求を志向するようになったという。オライリーは基調講演でノルシュテインがコンピュータ・アニメーションが作り出す作品の魂のなさを指摘していたことをナイーブな見方だと批判し、コンピュータによって生成された「冷たい」イメージを用いたとしても、エモーショナルな作品は作りうると主張する。
 しかし、オライリーといえども、現実模写的な可能性にそれを見いだしているわけでもない。逆に、アナログ感を再現することに見いだすわけでもない。
 一般的に、アニメーションにおいては、人の手が入っているもの、人間的な温かみを案じさせるものが真正(オーセンティック)なものであるとみなされがちだと前置きをしたうえで、オライリーは、『プリーズ・セイ・サムシング』はそういった考え方への反抗だと語る。プレビュー用のレンダリングの画質で作られたこの作品が証明するのは、作品が真正でリアルな作品となる条件は、解剖学的にリアルであること(見た目がリアルであること)でも、人間の手が多く加わっていることでもなく、作品の内部の要素が互いにきちんと接続しあっていること(「アニメーション基礎美学」で「一貫性」とよばれているもののことだろう)である。それがあるからこそ、観客は作品世界に没入しうるし、作品と観客との間にはエモーショナルなやり取りが成立しうる。
 こんなふうな考えをバックグラウンドとして、オライリーは、『プリーズ・セイ・サムシング』という3DCGアニメーション作品においては、とにかく良い物語を語ることに重点を置く。アニメーションの魔術的な側面を強調するのでもなく、どんなふうに作られたのかという次元に注目させることでもなく(「粘土についた指紋を見るために観客は劇場に行くのではない」というようなことも言っていた)、物語を語り、そこに観客を引き込むために、一貫性を持って構築された世界を作り出す。(それによって、ラフな見た目であっても作品世界はリアリティを獲得する。)それは、3DCGアニメーションにおいて個人作家がなしうることについての、オライリーなりのひとつの回答である。
 彼の考えがかなり直接的に披露された今回の講演は、彼の作品の持つ何かしらの新しさの感覚がどこに端を発するかを少しばかりではあるが説明してくれるものであったようにも思われる。言葉を持つ短編アニメーション作家というのは今のところかなり少ない。しかし、オライリーはそれを持っている。しかも、彼の言葉は、曖昧で既視感に溢れたものになりがちな芸術家的な理念ではなく、かといって作品の貧弱さを隠すようなものでもなく、作品の豊かなバックグラウンドとなるような、実践に即したかたちでの理論を語る言葉だ。みなが優れた作品を観たときにモヤモヤと感じとることを、言葉というかたちにして語ることができる作家だ。それだからこそ、アニメーションに関わる者たちが無意識的に共有してしまうクリシェをひっくり返し、アニメーションに対する新たな考え方を芽生えさせる。
 この講演のなかで、オライリーは、『戦場でワルツを』に対する批判的なコメントをはっきりと語った。このドキュメンタリー・アニメーションについては、たとえば、アニメーション部分のアニメーションとしての貧弱さに対する批判はいろいろなところで耳にする。しかし、オライリーが語ったのは、それとはまた別の角度からのものだった。とある重要なシーンで実写映像を用いたことに対して、彼は「制作者たちは実写を用いないとドラマチックなものは作りえないと思っている。アニメーションの力を信じていない」というようなことを言うのである。
 個人的な意見を言わせてもらえば、『戦場でワルツを』の実写シーンはそれ自身としての根拠を持っている。(ハーツフェルトの近作が実写を用いるのと同じ使い方だ。)あれ以外のやり方はありえないと思う。オライリーの批判は、何ら根拠を持たない絵空事のようなものに思えてしまう。でも、なぜだか彼のこの言葉を聞いて、興奮を覚えてしまったのも確かである。この闇雲なまでに熱い男であれば、もしかしたらこれまで誰も用いることのなかったかたちでアニメーションを用いるやり方を発見し、途方もなくドラマチックななにものかを作り出してしまうのではないか、そんなほのかな期待感を感じてしまったのだ。少なくとも、LIAA全体で発せられた、最も勇気を与えられるコメントのひとつとして、深く心に残ったのは確かだ。

(続く:次回のエントリがLIAAレポートのラストです。)

土居

        2010-01-02        東京国立近代美術館にて「ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」開催中

みなさんあけましておめでとうございます。
今年はいろいろとやろうと思っています。
広島はもちろんですが、日本の短編アニメーションの世界でもいろいろな動きが見れる年になりそうですよ。

LIAAのレポート中断していてすいません。年末年始は頭がどうもボケます。
忘年会続きで体調を崩したのもありますけど……

とりあえずお知らせです。

本日(1/2)から、東京国立近代美術館にて「ウィリアム・ケントリッジ 歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」が始まっています。ケントリッジについてはいまさら説明もいらないでしょうが、Animationsで取り上げたことはないかもしれませんね。南アフリカ共和国の現代美術作家で、日本ではすでに「プロジェクションのための9つのドローイング」というアニメーションのシリーズが何度も紹介されていることもあり、かなり著名であるといえるでしょう。そんな彼の、日本での初めての大規模な個展です。

すでに京都国立近代美術館の開催は終わっており(東京の情報しかとりあげずすいません……)、僕はすでにそちらの方でみさせてもらっています。非常に骨太の展覧会で、行かなきゃ損です。東京の方がどうなっているのかは未確認ですが、「プロジェクションのための9つのドローイング」シリーズは、巨大な一部屋に9つの作品が集められていて壮観です。「音が混じっちゃうんじゃないの?」と危惧される方もいるかもしれませんが大丈夫です。無線レシーバーつきのヘッドホンが手渡され、それぞれのスクリーンの前で各自がチャンネルを合わせるようになっています。

今回の個展では、「プロジェクションのための9つのドローイング」以外の活動も網羅されています。メリエス、人形劇、影絵……などなど、アニメーション好きにとってはたまらないテーマの作品が揃っています。映像作品も豊富ですので、3時間ほど使うつもりで行かれるのがよいのではないでしょうか。

ちなみに、東京国立近代美術館のニューズレター「現代の眼」579号に、「定点観測――『プロジェクションのための9つのドローイング』について」という小論を寄稿させていただきましたので、こちらもチェックしていただければ嬉しいです。ミュージアム・ショップで販売中です。

東京会場をチェックしてまたレポートを書きたいと思っています。

美術館でのアニメーション関連の展示といえば、東京都写真美術館にて「躍動するイメージ。石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」が開催中です。こちらも未見ですが、近いうちに行く予定です。去年ビックフォードを紹介してくれた恵比寿映像祭、もうすぐですけど、こちらもまた楽しみです。アニメーション関連でいえば、『コピーショップ』『ファスト・フィルム』でおなじみのヴィルギル・ヴィードリッヒ作品の上映があるようです。

土居

        2009-12-28        2008-2009年ベスト(2):長編、学生作品、「選外佳作」的なもの

今年はアニメーション長編で話題作が多かった年でもありました。Sita Sings the Blues (Nina Paley)やThe Christies (フィル・ムロイ)などといった個人制作による長編がポツポツと出始めたここ最近の流れは、まだまだ続きそうです。フィル・ムロイのMirrorlandsの衝撃の予告編もありますし、かねてより長編の制作中が伝えられているアンドレアス・ヒュカーデやイゴール・コヴァリョフ(長編の制作計画はポシャっていないらしい)、黒坂圭太の『緑子』も来年にはついに完成するとのことだし、ノルシュテイン『外套』もきっと……(「モーニング・ツー」のインタビューでは、山村さんもまた将来的な長編制作への意欲を……)今年の成果から、僕的には二本ピックアップ。

メアリーとマックス』(アダム・エリオット

mary

アダム・エリオット作品として、新しいところは何もありません。とにかく彼の延長線上。でもそれでいいんです。彼の奇妙な造形の人形は本質的に不完全な人間の表現として、その醜さに必然性があります。彼の作品は、ファンタジーの世界にたゆたうのではなく、人間に対する認識を改めてくれるアニメーションです。『メアリーとマックス』はアダム・エリオットの到達点。全人類必見です。(噂によると日本公開の可能性が高まっているようです……)

My Dog Tulip, (Paul & Sandra Fieringer)

tulip

「個人作家による長編の可能性」の一連のシリーズに素晴らしい作品が加わりました。大ベテラン夫婦によるこの長編は、Sita Sings the BluesChristiesがどうしてもミニマルで形式的な傾向から逃れることができない(というかあえてそっちの方向に行っているのですけど)一方で、普通にゴージャスな長編アニメーションとして成立してしまっているのが恐ろしい。良質な映画を観たなあ、というしみじみとした感想を抱いてしまうんです。三年間あればここまで出来る。実に素晴らしい。日本公開を切に願います。

学生作品からも今年印象に残ったものをピックアップ。国内外から一本ずつ、二つの傾向に分けて。

Rabbit Punch, (Kristian Andrew)向ヶ丘千里はただ見つめていたのだった』(植草航

rabbit mukou


この二作はこの時代だからこそ生まれたヒリヒリとした空気感と内容を持った良作でした。『向ヶ丘千里』はPlease Say Something同様に一度目の鑑賞と二度目の鑑賞の感想が全然違いました。それは僕の力量不足と余裕ぶっこきな鑑賞態度によるものなので反省しきりです。学生作品ではないですが、Dust Kid, (Jung Yumi)もこの列に並べることのできる良作でした。自分と折り合いをつけることについての非常にパーソナルな物語。アジアの個人作家のアニメーションの一傾向を象徴するものとなりうる作品だと思います。

Lebensader, (Angela Steffen)アニマルダンス』(大川原亮)

leben animaldance


この二作は、この2009年に生まれた必然性というものはあまり感じられないのですが、とにかくその圧倒的な技術力とアニメーション的快感によって強く印象を残した作品でした。クラシックなものの系譜にどーんと乗っかっているというか。(ヨコハマ映像祭での発言によれば、大川原亮はかなり意識的にそのようなアプローチをとったそうですが。)手放しで誉められるかといったらそれはちょっと疑問なのですが(俗っぽさや同時代性は必要だと思う人間なので)、頼もしい若手たちがこの世界に殴り込みをかけてきたなあとは思います。


最後に、映画祭でいえば「選外佳作」的な数本挙げておきます。埋もれてしまうのは惜しい作品として。


屋根裏のポムネンカ』(イジー・バルタ)

pom

今年一番「アニメーションをみたなあ」と感じたのは、バルタによるこの長編を観たときでした。個人的にはバルタの作品のなかで一番好きです。

Chainsaw, (Denis Topicoff)

chainsaw


El Empleo, (Santiago Grasso)

el


メジャー感漂うこの二本についても記憶に残しておきましょう。L'homme à la Gordini(Jean-Christophe Lie)も面白かった。場所さえ与えられればたくさんの観客を獲得しそうな作品です。

本当に最後にアグリーな作品を二本ほど。

The Tale of Little Puppet Boy, (Johannes Nyholm)

puppetboy

商業と「芸術」の区分はないんだ、と言った瞬間に、実はその区分をすごく気にしていることが明らかになってしまうものですが、たとえばこの作品なんか、そんな区分など最初から一瞬も頭によぎりません。チープで汚い人形とチープな効果音は、チープな人間の生活(つまり世の中のほとんどの人間の生活)の賛歌として的確に機能します。おそらくPlease Say Somethingと同じような立ち位置にある作品として理解すべきでしょう。圧倒的なセンスがあります。(昔の映画の字幕の表現をみたときにはぶったまげました。)最終的には長編となるようです。それが完成したとき、また新しくアニメーションの可能性が開けることでしょう。とにかく笑えました。

Boris, (Daniel Lundquist)

boris

なぜアメリカ人だけがこういうアニメーションを作れるのでしょうか? 自らの作品をugly animationであるとする彼は作品自体のそのぐちゃぐちゃさに反してとても清々しいです。新世代のビックフォードとして記憶に留めましょう。そういえば、今年は作家としてのビックフォードが日本に正式に紹介された年でもありましたね。

この二回のエントリで言及した作品がみんな広島で流れるといいんですけどね。そしたらアニメーションが途方もなくエキサイティングであることがよくわかるのですが。

いやいや、2010年に完成する新たな傑作が、さらにシーンを盛り上げてくれることを願いましょう。

土居

        2009-12-27        2008-2009年ベスト(1)

LIAAについてのエントリは一旦お休みにして、年末ということですし、ベストでも選んでみます。

映画祭でしか観れない作品が多いので、2009年一年だけのベストに限定するのはおそらく不毛でしょう。というわけで、2008年〜2009年の素晴らしい作品(というか今年見たもの)を個人的にピックアップしてみます。今年はアヌシーとオタワに行ったので、それなりに書く権利はあるだろうと思いますし。

社会主義圏の大スタジオ時代の終焉後、伝えられるべきものが伝わらない現状をノルシュテインが嘆くのを聞いたのが去年のクロク映画祭でのこと。日本の作家の作品を観て、孤独で抽象的で冷たい世界に生きていると苦言を呈しているのもよく耳にします。僕はその意見に一方で頷きながら、そういった「孤独な」条件化だからこそ必然的に生み出される数々の素晴らしい作品があるのではないか、とも考えていました。そして2009年は、そういった作品と実際に出会った年でもありました。近年では資本主義圏の短編であってもスタジオでの集団制作のものが増えてきていますが、僕の目を引いた(というか心を打ち抜いた)作品は、個人制作によるものでした。

I Am So Proud of You, (Don Hertzfeldt)

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僕にとっての2009年は、ドン・ハーツフェルト一色と言ってもよかったかもしれません。Everything Will Be OKを観て、予期せぬものとの出会いに啞然としてしまって、そして、2008年のこのI Am So Proud of You、これは個人的には『話の話』と並ぶほどの衝撃でした。インタビューを申し込んで、回顧上映をやるからというのでオタワにまで飛び、日本でなんとか紹介したいといろいろと画策している最中でもあるのですが、この作家はなんとしても日本でも知られなければならないと強迫観念にも似た切迫感に取り憑かれた年でもありました。そういった個人的な背景を脇においてみたとしても、やはりこの作家はアニメーション表現の新しい可能性を切り開いてしまっていると思います。アニメーションにおいて、実は絵の部分というのはそれほど重点を置く必要はないということ、むしろ可能な限りシンプルにすることが、観客側の補完を誘うこと。結果として、途方もなく大きな世界(内面そして外的両方)が短編という枠組みのなかに感じさせてしまうということ。(僕はこの点にマクラレン作品との親近性を感じます。)彼は自分のことを「偶然アニメーションの作業をすることになった映画作家」と言っていますが、凡百のアニメーション作家の作品よりもアニメーション表現であることの必然性を感じる作品を作っていると思います。内容的にも、これは孤独で抽象的な世界に暮らす現代の僕たちの物語なんだと強く確信します。

Please Say Something, (David OReilly)

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メディア芸術祭で短縮バージョンを観たとき、「ケッ」と思ったものでした。イメージフォーラム・フェスティバルでもう一度観たとき、「あれ?」と思ったものでした。作品をたくさん観ていると、頭にマッピングのようなものができてしまって、大抵の作品はそのなかのどこかに収まってしまい(「これは〜な感じの作品だな」)、収まってしまったこと自体もそれほど問題にならないのですが、Please Say Somethingは違いました。最初は「この作品は俺には関係ないな」と思っていたのに、二度目には関係あるどころの騒ぎではない、ど真ん中だ、と再考させられました。彼のブログにアップされた「基礎アニメーション美学」を読み、その思いは確信に至りました。2009年のアニメーション映画祭シーンを最も賑わせた作品といっていいPlease Say Something。節約と一貫性の原則を採用することによって、3Dアニメーションの美学に新たな局面を切り開いています。彼はこの作品に辿り着くまで、例えばOctocatなどで実験を繰り返していました。どれだけヴィジュアルが貧弱であっても、作品は観客とコミュニケートしうるということを証明する実験でした。Please Say Somethingは、その実験結果を用いて、とにかく良い物語を語ることを主眼に置いており、ハーツフェルト作品との共通点も数多く見いだせます。(アニメーションにおけるヴィジュアル面への考え方はもちろんのこと、個人作家としての生き方も。スイスで再会したオライリーは、作品制作だけで生活できているハーツフェルトとオタワで出会えたことがすごく大きかったと語っていました。)この作品も僕を物理的に「動かして」しまっており、来年のメディア芸術祭で再度上映されるPlease Say Somethingは、日本語バージョンになっています。字幕翻訳をしました。不思議なことに、日本語になった不自然さをまったく感じません。(訳への自画自賛ではないですよ、作品の性質がそうなのです。何語になっても不自然ではない。)2月には観られます。乞うご期待。

『HAND SOAP』(大山慶

handsoap

大山慶という作家はもうちょっときちんと評価されるべきだと思います。(もちろん、彼について言及する人は最近とても増えています。アップリンクでの個人上映会の成功も記憶に新しいところです。)手法的にも内容的にも、これまでアニメーションが踏み込めなかった領域に突入しています。単純化ではなく過剰さを、という大山慶の方向性は、単なる天の邪鬼という次元を超えて、アニメーションがこれまで達成しえなかった実写以上に繊細な世界の表現に辿り着きました。同時に、『HAND SOAP』の観客が例の奇妙な踊りのシーンを経て辿り着くあの限りなく開けた世界。アニメーション史上、あのような感情を観客に味わわせた作品は存在しなかったのではないでしょうか。大山慶のひとつの到達点であるこの作品、日本ではどうもその革新性に気付いている人がまだまだ少ないようです。来年海外の映画祭でどのような評価が下されるのか楽しみです。

以上三作品がベスト3ですが、これから挙げる五作品も、これらと同じくらいに素晴らしいものだと思いました。

Madagascar, carnet de voyage, (Bastien Dubois)

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これまで挙げた三作品は、アニメーション表現として新しいとはいっても、なんだかんだいって、既存の映像文化の優れた遺産を数多く吸収した若者たちによって作られています。それに対して、オタワで三冠を達成したこのフランス人作家の作品の新しさは、彼らのものとは違います。考えるにあたって、作品自体以外の一体なにを参照していいやら。マダガスカルへの旅行記のスクラップブックの体裁をしたこの作品、空間表現がまず新鮮です、というかかなりこなれています。本人に話を聞いたところによると、3Dで骨組みを作って、そこに2Dを貼付けているそうです。(The Pearce Sistersと同じということでしょうか。)アニメーションとしての強度が軽すぎると思わされるところもときおりはあるのですが、それを補って余りあるくらいのスケール感を感じさせます。この圧倒感が一体どこに由来するのか、個人的にはまだ掴みきれていません。マダガスカルを実際に旅しているような、空気感でしょうか。できれば広島で35mmで観て、もう一度圧倒されたい。癖になる作品です。

Skhizein, (Jeremy Clapin)

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山村さんは去年の年末にベストとして挙げていますが、僕は今年が初見なので入れておきます。Please Say Somethingが3DCG表現において現実模倣とは逆方向に進むことによって「わかりやすく」革新的だった一方で、クラパンのこの傑作は、何食わぬ顔で3DCGを扱っています。(これもある意味形式化・単純化による「一貫性」によるものだと思います。)この作品も、一番最初の鑑賞体験が巨大スクリーンだったのがよかった。(フランス映画祭での上映です。)そこそこ大きな予算でハイクオリティでエンターテインメントでもあって、単なる慰みもので終わらない短編アニメーション。クリス・ロビンソンは、商業よりも高級で芸術よりは低級、という短編アニメーションの微妙な立ち位置についてかつて語っていましたが、この作品が証明しているのは、短編アニメーションにも優れた商業映画と同じようなポジションを占めうる可能性があるということなのではないかと思いました。同じような印象を感じた作品として、Mei Ling (Stéphanie Lansaque & François Leroy)も挙げておきます。この作品、もうちょっと映画祭シーンを賑わすかと思っていたんですけど。(今ちょっと調べてみましたが、『ペルセポリス』と同じ製作会社のようですね。)フランスつながりでついでにI Was Crying Out at Life, or for it (Vergine Keaton)も挙げておきます。デジタル切り絵であることが気にならない作品として。この作品も圧倒的でした。ちょっと長かったけど。

Life Without Gabriella Ferri, Divers in the Rain, (Priit & Olga Parn)

ferri  divers

ここまでは大スタジオ時代終焉後の個人作家たちの活躍を取り上げてきましたが、旧社会主義圏エストニアはまだその伝統を(良いかたちで)引き継いでいるように思います。去年は(良くも悪くも)ロシアの年でしたが、ピロット・スタジオのカリスマ、タタルスキーの死と不況による文化支援の終焉によって今年はびっくりするくらいに消えました。しかし一方でエストニアは、これまで同様に国家との和やかな関係を続けつつ、数本の傑作を生み出しました。2009年は、なんとプリート・パルンの新作を二本も観ることのできた年でした。しかも、オリガ・パルンという若い力を得て(彼女はパルン作品の非常に素晴らしい理解者であることがスイスで話してみてわかりました)、リフレッシュしたかたちでパルンは帰還してきたのですから素晴らしい。間髪入れずに制作されたこの二作、計60分強にも及ぶわけですが、共に前夫人の死を中心的なテーマに据えています。しかし、向かっているベクトルは逆です。最後にほのかな希望を見せる『ガブリエラ』に対し、Divers in the Rainは最後まで喪失の感覚は埋まることはありません。しかし両者は矛盾しているのではなく、共に死をめぐる真実の感情なのだと思います。デジタル技術の導入によって、ヴィジュアル的にも新機軸がいろいろと試されており、しかも成功していることにも注目です。パルンからはまだまだ目が離せません。

Kitchen Dimensions, (Priit Tender)

kitchen

エストニアにとって、2008年から2009年は、パルン・フォロワーとして考えられてきた作家たちが独自の一歩を踏み出した期間でもあったように思います。(世界的に見て、30代前半の作家が充実した成果を出した時期でもあったのですが。)去年の僕のベストのひとつであるウロ・ピッコフのDialogosが例えばそうですし、この怪作を世に送り出してしまったプリート・テンダーもまた然り。Kitchen Dimensionsはヴィジュアル的に観れば伝統的なエストニアン・スタイル。しかしあまりにも突き抜けすぎてしまっていて、もうなにがなんだかわからない。とにかくアホらしい。アホらしさの次元が高くて純粋すぎて、クラシックな作品にさえ思えてしまいます。これは広島に来るでしょうかね? みなさんの判断を仰ぎたいところなのですが。とりあえず、ラピュタさん、どうですか? リホ・ウントやパルンの新作などとあわせてどうですか?

長くなったので二回に分けます。次回は長編、学生作品、その他について書きます。

土居

        2009-12-26        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(4):プリート・パルン「物語の組み立て方――アイディアからシナリオまで」

 2008年の広島のフィンランド特集にて感じた違和感があった。絵のレベルに比べて、物語のレベルが異様に高いのである。普通、こういう絵を描く人たちはこんなに上手く物語を組み立てられない。テーマが陳腐であっても、何かしら「お」と思わせるものがあるのだ。そんな作品のエンド・クレジットをみてみると、「感謝」の欄には必ず「プリート・パルン」という名前があった。広島のパーティーにてそんな学生陣のひとりアミ・リンドホルム(The Irresistible Smile、The Year I Cut My Hair。特に後者は2008年最も印象に残った作品のひとつだった)と話したとき、パルンの教え方について、「とにかくアイディアを練る作業をたくさんさせられる」と彼女は言っていた。今年のアヌシーでも、エストニアからの学生二作品はどちらもレベルが高かった。ここには何か秘密があるに違いない。実際、LIAAでのパルンの講演は、ノルシュテインと好対照。ノルシュテインがあくまで実作に沿って具体性を失わないよう言葉を紡いでいくのに対し、パルンはとにかくスパリスパリと作品を切り裂き、抽象的なレベルでものを考えることを恐れない。
 プリート・パルンの教師としての経歴は非常に長い。フィンランド(タリンとヘルシンキは湖の対岸だ)の大学にて長年教鞭をとり、そしてここ数年は自ら設立に関わったエストニア美術大学のアニメーション学科にてウロ・ピッコフらとともに学生を教えている(エストニアの大学でのアニメーション教育については、ウロ・ピッコフのインタビューを参照のこと)。パルンの竹を割ったような教え方は、そんな彼の経歴に由来するものだとも思えたし、もしくは、パルンの作品それ自体がもつ奇妙さについても、もしかしたらこういう考え方からやってくるものなのかもしれないと思わされた。
 パルンの話は、アニメーション作品を作ったことがない学生にいかにして良い作品を作らせるかという問いからスタートする。彼が大きな問題として挙げるのは、学生が卒業制作作品を作るとして、脚本の作業が終わってから完成に至るまでに費やされる実作業の時間があまりに長いことである。その長期間の作業の間に、学生たちが自分の脚本に飽きてしまうという現象が起こってしまうのだ。ならばそれをどう解決するか。答えはシンプル。どれだけ時間が経っても飽きることがない面白いアイディアで面白い脚本を作ることである。(それゆえに講演のタイトルは「アイディアからシナリオまで」となっている。)
 そのためにはどうすればよいか。卒業制作までの時間が二年間だとして、パルンが自分の学生に、最初の一年はアニメーションを作らせないのだという。一年目で叩き込むのは、頭の使い方を覚えるためのエクササイズ。主な訓練方法は、カリカチュア(一コママンガ)を作ることだという。(パルン本人は「ワンフレームのアニメーション」「アニメーションなしのアニメーション」という言い方をしていた。)ルールと制限を設けて(完全なる自由を与えられると何もできなくなってしまうので)、とにかくアイディアを出させるらしい。また、発展形として、ワンショットのアイディアも出させるという。よく用いる問題例はこうだ。ある部屋に窓とテレビがある。最初は部屋の全景を映しているカメラを、テレビ以外がフレームアウトするくらいに画面いっぱいになるくらいまでズームインさせ、その後ズームアウトして全景に戻す。その間にフレームアウトしていた空間に操作を加え、驚きを与えることを目指させるのだという。この設定が優れているのは、窓とテレビという二つの「窓」の性質の違いだという。窓はそのフレーム内に存在できるものに制限があるのに対し(窓の外にあるものしか映せない)、テレビという「窓」は無制限である(放送内容によって何でも映せる)。ここに学生が創意工夫を働かせる余地が生まれてくるらしい。
 パルンは、優れた作品を作り出すためには二つの要素が必要だと語る。「制限付きの空想」と「数学的思考」(絶対的に論理的な冷たい思考)である。
 パルンによれば、空想とは作品を構成する(であろう)諸要素を結びつけ、化学反応を起こさせることだという。AとBという要素を用いるとして、単にA+Bにするのではなく、Cを生み出すこと。(この話を聞いたとき、パルン作品の多くが二つの異なる世界によって成り立っていることの理由がわかった気がした。)
 対して「数学的思考」は、そのアイディアをどう見せるのか、論理的・数学的に考えること。パルンは空想をいかにして観客に見せるかということを考えるためのツールとして、作品の時間の流れ(物語上の時間ではなく、観客が目撃する実際の時間)を一本の直線として考え、それを線分に分割することでシーンを組み立てていくことを推奨する。パルンの信じるところによれば、どんな作品であってもいくつかの要素に分けることができるので、それならば問題となるのはそれら諸要素をいかに組織化するかということなのであり、そのためには線分を用いる方法が優れているのだという。(たとえば作曲家などに作品のアイディアを説明するときも、このやり方だと伝わりやすいらしい。)
 講義の終盤では、その線分を用いて、パルンの実際の作品を分析する作業も行われた。材料となるのは、オランダ・アニメーション映画祭でプレミア上映されたばかりの新作Divers in the Rain(オリガ・パルンとの共同制作の二本目)。抽象的な次元で考えると、A(男)とB(女)が最初一緒に自宅におり、その後両者は別れ、AとBの世界が交互に展開される。両者は沈みゆく客船のシーンにおいて交差しそうになり、しかしそうならないままに、最終的にはまたAとBが一緒にいる自宅のシーンへと戻る。最初と最後はAとBが一緒にいるという点で共通するものの、意味あいは完全に違っている。ラストでは、AとBがそもそも一緒にいたのかどうかさえ、疑問に付される。その答えは観客一人一人に委ねられる。
 講義自体が、アニメーションに限らぬ映像作品一般について応用可能なものであった一方で、最後の質疑応答では、パルンのアニメーションに対する考えの一端が明らかにされた。なぜダイアローグ(言葉)のある作品が少ないのかという質問に対しては、アニメーションの映像自体に語らせることに重点を置いているからであり、言葉に頼ることによってアニメーションをイラストレーションにしたくないとパルンは答えた。学生にも、言葉なしの作品を作らせているらしい。(ただし、言葉を入れることによって作品がさらにパワフルになる場合があるので、パルン自身、そのルールに絶対的に従うわけではないという補足が、オリガ・パルンから入った。彼女は『1895』を念頭に置いているようだった。)
 アニメーションの独自性についてはもうひとつ興味深い発言があった。自分の作品に登場するのは、キャラクターではなく記号であるというものだ。パルンはロシアの記号学者ユーリー・ロトマンのアニメーションに関する議論に影響を受けており(邦訳あり)、実写の俳優を用いず記号を用いることこそが、アニメーションならではの強さにつながることを理解したようだ。(この点について、後日掲載のインタビューにて詳しく説明してくれている。また、最終日のギル・アルカベッツの講演でも同じテーマが語られた。)その点において、パルンは近年流行のアニメーションによるドキュメンタリーに懐疑的だ。アニメーション特有の力強さを消し、作品のヴィジュアルをイラストレーション化してしまうからである。
(続く)

        2009-12-25        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(3):ノルシュテイン「『霧のなかのハリネズミ』におけるドラマツルギーについて」

 ノルシュテインのLIAA二回目の講義では、『霧のなかのハリネズミ』をテーマにして、作品をどのように組み立てていったのかについて、かなり具体的な話が展開された。ノルシュテインによれば、この作品のテーマとなるのは、生における謎を発見することによって以前とはまったく異なる存在へと変容してしまうことであり、その理由から、具体性の世界(既知の世界)と抽象性の世界(未知の世界)を行き来するような構造が要求されたのだという。
 制作のスタート地点となったのは、ハリネズミ(言うまでもなく、変容を蒙るキャラクター)が木の枝を手にして霧のなかを探索するシーンだった。ハリネズミが謎の存在を発見するのは霧の空間においてであり、霧の空間は不確定な感覚、はっきりとしたものではなく曖昧な感覚を保持する必要があった。その表現のためにノルシュテインが拠ることとなったのは東洋の詩や哲学における反響性を持つ空間の表象であった。不確定で曖昧な空間は、一義的に定められることがなく、それゆえに(一回目の講義でテーマとなった)「全体性」「永遠性」を切り開くためには重要なものとなる。
 曖昧で一義的に定まらないモヤモヤとした霧は、それ自身として生命を持っているかのような空間になる必要もあった。生命としての空間の例として、ノルシュテインはタルコフスキーの『ストーカー』の「ゾーン」を挙げる。結局は何も起こらないのに何かが起こってしまいそうな、あの多義的で揺らめく空間だ。
 ただ、『霧のなかのハリネズミ』の制作にあたって『ストーカー』が参考にされたというわけではない。(『ハリネズミ』の制作年は『ストーカー』の4年前。)ノルシュテインは、美術監督のフランチェスカ・ヤーブルソワに対し、『ハリネズミ』のエスキースを描くための参考として、パウル・クレーの道化の絵を見せたという。(クレーの絵はノルシュテインがよく言及する例で、その卓越した音楽性・リズムの表現――つまり揺れ動くもの――はノルシュテインがアニメーションを制作するにあたって、かなり重要なインスピレーション元となっている。)ノルシュテインは、前回の講義でも触れたように、他ジャンルの芸術の成果を参照することを厭わない。むしろ、自分のリズムを作り上げるために必要なディテールが存在する作品からは、積極的に「盗む」ことをさえ推奨している。(最近はブラザーズ・クエイの『ベンヤメンタ学院』をよく鑑賞するという。シンプルな空間の感覚が気に入っているらしい。)
 しかし、クレーの絵が参照されたからといって、それがそのまま完成品に残るかといえばそうではない。ノルシュテインは、作品自体が制作過程において(霧の空間同様に)常に揺らめき動くものであるべきだと考える。クレーの絵は『ハリネズミ』のエスキースに影響を与えるが、だからといってその「ベース」になるわけではない。作品の準備のために制作されるエスキースでさえ、作品の「ベース」ではないと彼は言う。それを踏み台のようにして、活き活きとして流れるような空間を作り上げること、それこそが必要とされることであり、そのためには作品自体の構想もあらかじめ決まっていてはいけないのである。(ノルシュテインはこのやり方が絶対的だと考えているわけではない。ヒトルークは作品全体がはっきりするまで制作に取りかからなかったが、それも一つのやり方であると認めている。ただ、自分の場合であれば、もし全体が確定しているのであればその作品は作らない、と彼はヒトルークにはっきりと言ったことがあるという。)
 他にも、作品に「謎」を取り入れるためのやり方として、実体験からの記憶に残るディテールを用いることで無限性を触知可能なイメージとして具体化すること(一回目の講義における「草上の雪」というタイトルについての議論を参照)、外部からの音による異なる位相の空間のほのめかし(具体的には子グマくんがヨージックを呼ぶ声)、具体的な空間が抽象的なものへと変容していく感覚を感じさせる編集のリズムの採用などについても語られた。
 繰り返しになるが、ノルシュテインはここLIAAでの二回の講義を通じて、アニメーションにおける全体性・永遠の表現の可能性についてかなり具体的なそのやり方を語ったといえるだろう。そしてその際、重要になってくるのは、具体物がただ単に具体物でなくなるような、一義的に定まらないものを作品内に投入することなのである。(続く)


土居

        2009-12-23        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(2):ノルシュテイン「アニメーションと詩」

 開会式の後、全体の基調講演として壇上に上がったのはユーリー・ノルシュテイン。抽象的な彼の言葉は多くの観客を混乱に陥れたようだったが、会議全体を見渡してみると、話題になった重要なトピックのすべてがそこに含まれてもいた。
 ノルシュテインはまず、「アニメーションと詩animation and poetry」という与えられたタイトルに疑義を挟む。これからの話で正しいのは、「詩としてのアニメーションanimation as poetry」だと言うのである。そうなると、彼がここで言う「詩」とは何か、という話になる。その結論を先取りして言ってしまえば、ノルシュテインの言う「詩」とは、「全体性や永遠を感覚させること」であるとまとめられるだろう。(その詳細については後述していこう。)「詩としてのアニメーション」と言いながらも、ノルシュテインはアニメーションの独自性を説くわけではない。これまでの多くの芸術ジャンルがそのような成果を挙げていったのと同じように、アニメーションがいかにして「詩」となりうるか、その話がこの講演では展開されたように思われる。
 ノルシュテインが具体的な議論の始まりとして選んだのは、2008年に出版した『草上の雪』という本のタイトルだった。彼にとって(ロシアでは)初の大著に、なぜこのフレーズを選んだか。それは、彼が10月に降る雪が好きだからだという。寒いモスクワであっても、10月に雪が降ることはあまりない。その珍しい10月の雪の何が素晴らしいかといえば、植物の緑が残っていることだという。まだ匂いを漂わせる草の上に、雪が降り積もる。ノルシュテインはスキーが好きらしく、雪が積もるとすぐに板を抱えて外に飛び出していく。しかし、10月の雪は気温も高いし量も少ないので、スキーをしているとすぐに溶けてしまうし、地面もぐちゃぐちゃになってしまう。しかし、その泥の感じ、そしてそこから漂ってくる草の匂いをノルシュテインは愛し、『草上の雪』という本は、その感覚を抱きつつ書かれたものだという。
 ノルシュテインがLIAAにて行った二回の講義は共に、「アニメーションはいかにして全体性・永遠の感覚を表現しうるか」ということをめぐるものだった。それは換言すれば、短編アニメーション作品がいかにして短編であるという小さな境界を破り、視覚的に具体的なイメージを提示せざるをえないアニメーションにおいてその具体性から逃れるか、ということであり、ノルシュテインにとって、そのために一つ重要なのが、こういった「個人的な」愛着・記憶のディテールを抱きつづけ、それを作品の内部に投入することなのだろう。
 そして、この講義で言われた、もう一つの重要性は、表現を切り詰め、シンプルにすることである。(『草上の雪』という本を読んでみればわかるのだけれども、)ノルシュテインはアニメーションを作るにあたって、他の芸術を参照することを厭わない。今回、本から彼が引いてきた実例は、レンブラントの『キリストの磔刑(ロシア語では『三つの磔刑)』の習作と完成版である。両者を比べると、完成版では画面向かって右側の磔が、闇に紛れて見えなくなっている。レンブラントは、作品を効果的なものにするために、画面を構成する可視的な要素をあえて消し去るという判断を下したのだ。
 このレンブラントの判断は、アニメーションの大勢に反することだとノルシュテインは言う。彼が例として引くのは、CGアニメーションの現実模倣の傾向だ。(このような一般化は後にデイヴィッド・オライリーの反論を招くことになる。)まるで写真で撮影したかのようなリアルさを追求する傾向は、このレンブラントの判断からは遠いとノルシュテインはいう。それはアニメーションを「詩」となることから遠ざける。ノルシュテインが言うには、アニメーションと実写映画は具体的なイメージを取り扱うがゆえに、リアリティを追求する際には注意しなければならない。(ここでいう「具体的」とは、文学との関わりで考えればわかりやすい。文学において「椅子」と書かれたとき、その椅子の視覚的イメージは観客の想像に任せられる。その一方で、実写映画やアニメーションにおける「椅子」は、視覚的イメージを「具体的に」規定する。)光学的に記録されたものを模すことは、単に「表面」を模倣することでしかない。一方、アニメーションが「詩」となるためには、「魂」を失ってはならない。大事なのは、「表面」を達者にすることではなく、内的に「生きた」感覚を持ったイメージを作り出すことである。
 そして、繰り返しになるが、作品が「魂」となり「生きる」ためには、個人的な人生から採られたディテールとシンプルさ(非フォトリアル)が必要なのだ。作品が「表面」であることから逃れ、「生きた」ものとなったとき、そこに表現されるもの(観客が感じとるもの)は何かといえば、「全体性」であり「永遠」の感覚であるとノルシュテインは言う。短編アニメーションという制限されたメディアが、いかにして「全体」であり「永遠」になりうるか。いかにして作品の内部に描かれたものそれ自体から解き放たれ、より大きな世界を現出させるか。具体性(モノの世界)に端を発し、抽象的な世界(ノルシュテインは「メタファー」という言葉を使っている)へと解き放たれるか。もちろんここでいう「抽象的な世界」とは現実とは関係のない世界(フィッシンガーのアニメーションのような抽象性)のことではなく、逆に現実から出発して、「全体」であり「永遠」の一部としても捉えることのできるような抽象性のことだ。ノルシュテインにとって「草の上に降り積もる雪」は単に「草の上に降り積もる雪」ではない。彼にとってそれは「全体」であり「永遠性」へとつながっていく、抽象性を含んだ具体性である。
 「全体性」「永遠性」を描写するために、作家の実体験と結びついたディテールをシンプルさのうちに展開することを掲げるノルシュテインにとって、子どもの絵は理想の芸術である。彼は子どもの絵の重要性をさまざまな場所で述べ、『話の話』における「永遠」においてその原理を利用してもいる。ノルシュテインは、子どもの絵とは、彼ら彼女らにとっての「世界全体」であり「人生の意味」そのものであると考える。子どもが描く一本の線はただ単に一本の線であるというわけではなく、白い紙の上に一本の横線が引かれたとすれば、その一本の横線それだけで、線は地平線となり、上下の空白は空と地面とになる。かくして、一本の線によって世界のすべてがそこに現出するのだ。現実のリテラルな模倣から逃れ、シンプルさ(とそこへの意味の凝縮)へと向かうことにより、アニメーションは世界そのもの・人生そのものとダイレクトにつながっていく。(より正確にいえば、全体性・永遠の感覚を観客に喚起する。)フォトリアルではなく、抽象性へと広がっていくような具体的なイメージを描き出すことができたとき、アニメーションもまた「詩」となるのである。
 あまりに抽象的な議論の展開に少なからずの人が困惑を覚えたようだが、(繰り返しになってしまうけれども、)ノルシュテインが語っていたのは、アニメーションがいかにして「詩」になるか、つまり短編アニメーションという制限されたメディアがいかにしてスケール感を獲得するかということについての、極めて実践的な方法論なのである。
 アニメーションのこの「抽象性」については、他の作家たちの講義においてもたびたび議論の俎上に上がることとなる。(続く)

(注:まとめかたや言葉が粗いですが、ご勘弁を。このような話をきちんと伝えるのは非常に難しいです。感覚的に読まれることをおすすめします。)

土居

        2009-12-15        ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミー(1)

(土居からの注:Animations本ホームページにアップする前に、草稿段階のものをレポートとして載せていきます。)

 ルツェルン・インターナショナル・アニメーション・アカデミーの第一回大会が2009年12月7日から11日までの四日間、ルツェルン市内の観光名所のひとつであるブルバキ・パノラマ館に併設されたシネコン型映画館ブルバキノの数スクリーンを会場として行われた。ルツェルンはスイス中部に位置するドイツ語圏の街で、スイスの主要都市チューリヒからは列車で一時間弱。街は市内中央に位置するルツェルン湖とロイス川を境として旧市街と新市街地に別れているが、規模自体はそれほど大きなものではなく、その気になれば数時間で主要なスポットを回ることができる。
 ブルバキ・パノラマ館は旧市街側の北東部に位置し、そばには有名な「瀕死のライオン像」と氷河公園がある。映画館自体はとても新しく、地下一階に4つのスクリーンがある。同じ建物の一階にはカフェ・バーは夜になれば大勢の若者でごった返す。一角を借りてパーティーも頻繁に行われている。(スイス人は異様にパーティーが好きらしく、夜になれば街路に人影は消え、そのかわりに街中のバーが人でごった返す。)
 この国際会議は、短編アニメーションにテーマを絞った、世界でも珍しいもので(唯一かもしれない)、しかし、いわゆる「作品」としての短編だけではなく、CMなどの依頼作品やゲーム映像のアニメーションなどまで幅広く含む。しかしアニメーション関連の国際会議としては珍しく、ディズニー関連の発表であったり、「アニメ」についての発表はない。
 なぜこのルツェルンで、なぜ短編アニメーションに絞るのか? ルツェルンといえば、アニメーションを学べるスイス有数のデザイン学科があるルツェルン・ユニバーシティ・オブ・アプライド・サイエンス・アンド・アーツの本拠地であり、その世界の学生コンペを見渡してみても、シーンをそこそこ賑わしているような作品・作家の名前が散見される。なによりここで教授を勤めるオットー・アルダーは、ファントーシュを初めとして、フェスティバル仕掛人として名を馳せている人物であり、彼による新たな意義深い仕掛けが、このLIAAであると言えるのかもしれない。(アルダーは作家でもあり、研究者でもある。彼はフョードル・ヒトルークについてのドキュメンタリー、『スピリット・オブ・ジーニアス』の監督もしている。)
 この国際会議は表向き、アニメーションについての議論を深めることを目的としているが、その裏には非常に切実かつ切迫したモチベーションもある。今回のテーマは、アニメーションにおけるドラマツルギー。換言すれば、短編アニメーションをどう組み立てるか、そして短編アニメーションでどのように語るか。なぜこのテーマが設定されたか? 開会式でのオットー・アルダーの言葉によれば、この国際会議は教育上の必要性に駆られて開催が決意されたものであったという。つまり、アニメーションをいかにして教えるか。裏を返せば、アニメーションをどう語るか、伝えるか。(大スタジオ亡きがほぼ全滅してしまった今、アニメーションの伝統を伝えるのはどこかといえば、学校以外にはありえないだろう。)
 この国際会議のプログラムは、三本の柱でできあがっている。一つは作り手。一つは研究者。そしてもう一つは、世界各地のアニメーション学校のプレゼンテーション。スイスへと出発する前、個人的には、三つ目の柱の存在意義がよくわからなかった。しかし、実際にこの場に来てみて、アルダーをはじめとした主要なメンツの言葉を探ってみれば、この国際会議においてはこの三つが共存することが大事なのだということがわかる。この国際会議は、いかにしてアニメーション教育を成立させるのか、というモチベーションに貫かれたものなのである。ここには、短編アニメーションならではの状況が見えてくる。作り手も研究者も、現在、みなアニメーションを教えることがその中心的な活動のひとつとなっている(ならざるをえない)、ということだ。そして、アニメーションをいかにして教えるかというのは、日本に限らず世界中の学校で常に試行錯誤が繰り返されている非常に切実なトピックなのだ。閉会式でのジェーン・ピリング――彼女はアニメーション研究の分野において非常に貴重な仕事をしている先駆者の一人で、Animations Studiesという学術雑誌、そしてBritish Animation AwardsのDVD、特にDesire and Sexualityのシリーズを編纂していたのが彼女だといえば、その重要性はよくわかるだろう――の言葉は、その問題の切実さを最も率直に述べていた。「アニメーションを学ぶ学生にとって、彼ら/彼女らが卒業後に生きていくための唯一のプロモーション材料は、自分の短編アニメーション作品だけなのです。」この言葉が切実さのほとんどすべてを物語っている。
(ここは強く言っておきたいのだが、そのような催しに、アニメーションを学ぶこれだけたくさんの場所がある日本という国――つまり、責任を持つべき卒業生の数が諸外国に比べても非常に多い――からの参加者が自分を含めてたった二人――もう一人は、ASIFAの会長であり広島国際アニメーションフェスティバルのフェスティバル・ディレクターである木下小夜子――しかいなかったことに、個人的には強く疑念を抱いた。発表者を見渡してみれば、短編アニメーションという分野に関して、作り手も研究者も学校も、一流のメンツが揃っているのは間違いがないように思えるのに。最終日の「ルツェルン・ストーリー」と題された「アニメーションの教え方」についてのプレゼンテーションとその後の質疑応答で交わされた熱い議論を聞いて、その気持ちはさらに高まった。)
 さらに、表立っては言われていないものの、参加者のなかのパッションとして共有されているテーマもあったように思われる。それが何かと言えば、アニメーションはいかに「負け犬」としての芸術から抜け出せるか、ということだ。(「負け犬」とは、数人の参加者の口から実際に聞いた言葉だ。)以前Animationsに掲載したクリス・ロビンソンのインタビューの発言を引けば、「芸術的なアニメーションというのは、非常に不思議な領域に属していると思うんですね。一般の人にとっては、芸術的すぎる。芸術家のコミュニティの人たちは、アニメーションを見下しているところがある」。一般人そして芸術の分野に携わる人々が抱くアニメーションに対してのイメージと、その実体の乖離。それが引き起こす数々のジレンマ。この会場にいる参加者以上に、この苦しみを知り尽くしている人たちはいない。その苦しみから抜け出すためには何が必要なのか。それは、言葉にすること。言葉にすることで、アピールすること。それ以外にはない。
 このイベントは、アニメーション関連の国際的な催しにしては本当に珍しいことに(国際会議なのだから当たり前なのだが)、ほぼすべてがプレゼンテーションによって成り立っている。しかも、朝9時から夜0時近くまで。とにかく、ことば、ことば、ことば……(そういえば、この会議で最も多く言及された作家の一人がミカエラ・パブラートヴァだった。彼女の作品が「短編中の短編」であるという認識が世界的に共有されていることを知れたことも個人的には一つの収穫だった。)アニメーションについてよく言われることに、「言葉がないから国境を超える」ということがある。しかし一方で、なぜ諷刺画というものが発達したかといえば、「それがある一定の人々(権力者)にとっては読み取れないから」でもある。グラフィックというものは実は非常に曖昧なのだ。それに対して、言葉はそのコードさえ理解されてしまえば、万人へと伝わる真に普遍的である。それならば、そのツールを使って、ここから短編アニメーションの存在意義を、広く知らしめなければならない。この国際会議は、これまで「ナイーブ」だった短編アニメーションの世界が言葉の世界と手を結んだという意味でも、非常にエポックメイキングな瞬間だったように思われる。
 それでは、この国際会議においていかなる言葉が交わされていったのか? 特に作り手側から、一般的な「トークショー」とは違ったかたちの体系的なプレゼンテーションという提示され、発せられていった言葉は、アニメーションというものに対してこれまで決してなされることのなかったものばかりであり、それが証明するのは、アニメーションが、未発達かつ未探求の分野であるがゆえに、今、最もエキサイティングなメディアである、ということだった。
(続く:次回は具体的な発表の内容をレポートしていきます。)

土居

        2009-12-11        パルン夫妻インタビュー完了

再びスイス、ルツェルンからです。学会だから仕方ないですがもうちょっとたくさん作品が観たくなってきました。

しかし、充実はしています。
今日はパルン夫妻にインタビューしてきました。最初はちょっとヒヤヒヤものだったのですが、オリガさんも参加しての後半はすごいことになりました。自画自賛していいですか? 今まで誰も聞いたことのないような話が聞けたと思います。あまりに本質的な話すぎて興奮しました。インタビューというより、パルン夫妻の対談みたいになってしまいましたが、すべての2Dアニメーションファンおよび2Dアニメーション作家必読の内容を引き出した、という解釈でお願いします。期待しててください。

こちらに来てオリガさんほか何人かに言われたので、インタビューなど一部コンテンツだけでも英語で公開しようかと思いはじめました。今日のパルン夫妻の話などは日本語で秘密しておくにはもったいなさすぎます。

……英語できる人いませんか? テープ起こし手伝ってくれませんか? contactページからメールしてください。待ってます。

土居

        2009-12-10        パルン夫妻新作Divers in the Rainを観ました

ルツェルンに来ています。ホテルのネット接続料金が高いので、いつものようにレポートなどはできません。帰国後にまとめて書きたいと思います。

ところで、ついさっき、プリート&オリガ・パルンの新作、Divers in the Rainを観ました。プリート・パルンによる「アイディアをどのように脚本にしていくか」という講座のラストにスイスのプレミア上映として流されました。

なんだか心が壊れました。望むところに辿り着かない人々についての物語なんじゃないかと思いました。(一人だけは辿り着いてしまうのですが。)悪夢の表現が恐ろしいくらいに秀逸です。僕は幼いとき高熱を出すといつも同じ夢を見ました。真っ白な迷路のなかで、とても大きな「あ」が、あーーーーーーーーーーーーと声を発しながら迫ってくる夢です。その夢のことを思い出しました。

サティの音楽が用いられつつ、基本的には効果音だけ。セリフもなし。
あるのは大きな喪失感だけ。何を失ったのかはよくわからないのですが、とにかく喪失感を感じました。

今日はパーティーには出ず、Divers in the Rainについて考えながら一人で深夜の街をトボトボと歩いていました。するとどんどんと余韻が蘇ってきました。『ガブリエラ』以上にそういう作品です。

講演では、「私の作品にキャラクターはいない、すべては記号だ」と言っていたのが印象的でした。明日インタビューをする予定なので、そこらへんをもうちょっと具体的に突っ込んできいてみたいと思います。こういった方向性でアニメーションについて考える人は実はそれほどいなかったかもしれないと思いました。

ノルシュテインの二回のレクチャーは、「物質・有限なもの・断片的なものを用いて無限性・全体性・不確定性にいかにして辿り着くか」ということを話していたように思いました。

二人の話をきいて、アニメーションにしかできないこと、その独自性というものがなんとなくわかってきたような気がします。明日は急遽決まったデイヴィッド・オライリーの講演があります。彼の作品にも同じものを感じるので、そこらへんの思考をさらに深めていきたいと思います。

スクリーン上にあるものに留まっていない感覚があるのです。

それでは。

土居

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